第15話
「ただいま」
「おかえりなさい」
雅尚は玄関の鍵を閉めると、驚きの表情で振り返った。そこには昨日同様、仁王立ちの美佳がいる。
違うのは、阿修羅のような表情だったのが、本日は能面のような無表情へと変化していることだった。
「やあ、返事をしてもらえると思ってなかったよ。御機嫌は直ったのかい?」
美佳は雅尚の問いには答えず、振り返ってリビングの方へと戻って行く。
雅尚は、リビングから漂ってくる夕食の香りを嗅ぎながら「僕の分もあるのかな」と呟いた。
雅尚がリビングに入ると、すでに唯がテーブルについていた。子供用の足が長くて高い椅子に座り、楽しそうに自分の足をぶらぶらさせている。
「パパ、お帰り!」
「ただいま、唯」
すでにテーブルに並べられたハンバーグが、自分の席にも置かれていることを確認して、雅尚は微笑んだ。
「明日は自宅待機だそうだから、出勤しないよ」
雅尚の言葉に美佳は、テーブルにビール瓶を置こうとしていた手を止めて、視線を落としたまま言った。
「謝罪しなかったのね」
雅尚は、ノーネクタイの背広を脱ぎながら愉快そうに笑った。
「謝罪?ああ、貝切さんにかい?それとも校長や教頭に?いずれにせよ、僕が謝ったところで解決できる問題じゃ――」
「解決しなくたっていいの!」
美佳の怒声に、ぶらぶらしていた唯の足がピタッと止まった。
「ねえ。一体どうしたの、突然?理屈や正論だけで世の中渡っていけるわけないって、知ってるでしょう?解決できない問題なんて山ほどあるわ」
美佳の真剣な眼差しを、雅尚もまた真っ直ぐに見つめ返した。
「僕が解決したいわけじゃないんだよ」
雅尚の言葉に、美佳は戸惑ったような表情へと変わる。
「ますますわからないわ。だったらどうしたいの?」
「解決したいのは校長や教頭だし、解決しなくちゃいけないのは貝切家なんだ。僕の謝罪で解決を図ろうなんて、的外れだ」
「だけど、あなたが失礼な態度をとったのは事実でしょう」
「失礼な態度?真実を伝えただけだよ」
「事実や正論だけで世の中――これじゃ、また堂々巡りね」
「そうだね」
二人の間に静寂が流れた。唯は不思議そうな顔で、父親と母親の顔を交互に見ている。
「こんなことで仕事を失うことになるかもしれないわ」
美佳が先に口を開いた。
「そのときはそのときだよ」
雅尚の言葉に、美佳は顔を強張らせた。
「私たちの生活はどうなるの?家族を養うことができるの?」
「何をしたって生きていけるさ」
「子供がもう一人産まれても?」
「え?」
「そろそろ私も働き口を、て思ってたから、私的には心外なんだけど」
雅尚は一瞬驚きの表情になった後、まるでおもちゃを買い与えられた子供のような笑顔で言った。
「本当かい?いや――すばらしいことじゃないか!」
そう言った後、雅尚はすぐに顔を曇らせた。
「確かにタイミング的には良くないかもね。もしかしたら、君にも苦労をかけることになるかもしれないな」
美佳はその言葉を聞くと、何かを決意したような表情で言った。
「心配いらないわ。私達なら実家に帰るから。あっちで出産することにする。三か月を過ぎてるそうだから、十一月頃になりそう」
美佳の言葉に、雅尚はまた笑顔に戻る。
「ああ、それがいいね。お互い地元だし、お義父さんの家もそう遠くない。それなら安心だ」
雅尚の言葉には答えず、美佳は唯の方を向くと、真顔のまま言った。
「唯ちゃん、明日からおじいちゃんのところで生活するのよ」
「え?明日から?」
雅尚と唯は、同時に聞き返した。
「何もそう急がなくてもいいんじゃないか?」
雅尚の言葉に、美佳は視線を返さずに答えた。
「いいえ、早い方がいいの。しばらく距離を置きましょう」
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