第14話
雅尚が、その無謀な戦いを繰り広げていた頃から時間にして四時間ほど遡った昼過ぎ――美佳は途方に暮れていた。
唯を幼稚園まで送った後、自身の体調不良の要因を探るべく国松総合病院に赴き、診察を終えて料金を支払う為、大きな待合ホールで自分の名前が呼ばれるのを、長椅子に座ってぼんやりと待っていた。
「はあ」
何度目かの溜め息をついたとき、彼女の目の前を通りかかった男性医師が立ち止った。
「おや、確か……。鈴木さん――の奥さんじゃないですか?」
美佳は男性医師の顔を見上げると、無理矢理笑顔を作って言った。
「あら、先日はお世話になりました。沖先生――でしたよね」
「やあ、名前を覚えてもらっていたなんて光栄だなあ」
沖も、笑顔になって言った。
「そちらこそたくさんの患者さんをお抱えになっていらっしゃるでしょうに、主人の名前まで覚えていただいてて」
「いやあ、奥様がお綺麗だったからでしょう。正直御主人のお顔はもう覚えておりませんがね。はっはっは」
「まあ、そんなこと」
沖の豪快な笑い声に、美佳もリラックスして表情を緩めた。
「ところで今日は?ご主人のことで?いや、主治医の私が何も聞いてないわけないな」
沖の質問に、美佳はまた顔を曇らせた。
「いえ、今日は私が……」
「おや、どうかされたのですか?いや、まあ――女性のことですから、言いたくなければ結構ですが」
沖の心遣いに、美佳は一瞬考えてから言った。
「先生、少しお時間よろしいですか?」
*
職員用食堂の片隅にあるテーブルについて、美佳はきょろきょろと辺りを見渡した。昼時をとうに過ぎているせいか、店内に客は美佳と沖の他に、看護師らしき女性が二、三人いるだけだった。
「よろしいんですか、一般の人間が入って」
不安そうに尋ねる美佳に、沖は笑いながら答えた。
「職員用とは書いてありますが、一般の方お断りとは表示していません。なに、ほかの職員だって家族を連れて来たりしているんです。何か訊かれたら、あなたは私の妻だということにしておきましょう」
沖の冗談めかした言い方に、美佳は笑いながら返した。
「まあ、妻ではなくて娘では?」
「ショックだなあ。僕はまだ四十六ですよ。娘は無いでしょう。――それはさておき、ご主人のことで何か?」
沖は真顔になって、訊ねた。
美佳はまた顔を曇らせると、目の前のコーヒーに少し口をつけてから言った。
「実は――あれから、少し主人の様子がおかしいんです」
「といいますと?」
沖の質問に、美佳は少し考えてから、言葉を選ぶように口を開いた。
「何といいますか、あの事件の直後から、他人に対してすごく失礼なことばかり言うようになったというか――いえ、別に気性が荒くなったとか、口汚く相手を罵るとか、そういうことではないんです。後遺症というか、そういうことってあるんでしょうか」
「失礼なこと……」
何かを思い出すように宙を仰ぐ沖を見て、美佳は訊ねた。
「何か思い当たることでも?」
今度は沖が、少し考え込んでから言った。
「そもそも私は診察の結果、異常無しと診断したわけですから、後遺症どうのという話は出来ないんですが――いや、思い当たるというほどのことではないんですがね」
沖はこう前置きして続けた。
「診察の途中、ご主人が突然私に向かって、『先生は加藤茶に似てますね』と仰ったんですよ」
「ああ、確かに似てますね。若い頃の」
美佳はそれが何か、とでも言わんばかりの顔で返事をした。美佳もそう思っていたが、わざわざ言わなかったのだ。
「いや、私もちょくちょく言われることなので、そのときは別に気に留めなかったんですが――今考えると、すごく不自然なタイミングといいますか。話の流れと全く関係なく突然、といった感じだったので、正直言って少し変わった方だなあ、と感じたのを思い出しました。元々そういう方、というなら失礼なんですが」
美佳はすぐに頭を振った。
「いえ、思ったとしても初対面の方に対して、その場では絶対言わないタイプの人です。気を悪くされる恐れもあるわけですから」
「まあ、もちろん私と話をしていて、ある程度人間性を把握した上での発言だったのかもしれませんが」
「いえ、あれからご近所さんや職場の上司と、不用意な発言が原因で揉めているんです。事実だけど言わなくてもいいというか、むしろ言ってはいけないようなことを言って、相手を怒らせてしまって」
「あの事件の直後からということですか?」
沖の質問に頷いた美佳の瞳は、少し潤んでいた。
「今日もそのことで、上司に呼び出されているので、朝早くから出勤しています。でもそんな様子だから、また同じことになるんじゃないかと心配で……」
「奥さんに対してはどうなんですか?何か言動に変化は?」
沖の質問に、美佳はまた首を振った。
「あの事故の直後からそのような揉め事が続いたので、ほとんど口をきいていないんです。だからといって本人は、特に苛々している様子も無く、むしろリラックスしていて穏やかな感じです」
美佳の返答に、沖はふむ、と頷いた。
「事実でも言わなくていいこと、言ってはいけないことを言うようになったと仰いましたが、具体的にはどんなことを?」
「ご近所のお子さんに向かって、その子の親の目の前で不細工だと言ったり、職場の上司に向かって嫌いだと言ったり、いじめを訴える生徒の父兄に向かって、いじめではなく、その生徒には魅力が無いから誰も興味を持っていないだけだ、と言ったり」
「ああ、ご主人は高校の先生でしたね。そりゃすごいな。ある意味では自由奔放、天真爛漫で羨ましいが……。そのようなことを仰るタイプではなかったということですね?」
「嘘やお世辞がそんなに得意ではないので、どちらかといえば元々正直な人間といえるかもしれませんが、もちろん事実だからといって何でも言葉にするような人じゃありませんでした。ただ、テレビの見すぎだと思いますけど、教師物のドラマでお決まりの、臭いセリフを平気で口にしたりするので、周囲からは熱意のある教師と思われていたんじゃないでしょうか。そういう意味では嘘つきだった、とも取れますね」
沖は黙って頷いた。
「けれど――彼は建前やきれいごとを口にはするけれど、私から見れば本当はすごく現実的で保守的な人だと思います。そうでなければ社会は渡れませんから。ある程度年齢を重ねれば、そういう人の方が女は安心できます。だから結婚を決めたんですから」
「最近自己啓発本などをご覧になっていたとかは?突然目覚めたとか」
沖の言葉に、美佳は首を振った。
「そんな様子はありませんでしたし、あの日の朝もごくごく普通でした。明らかに先生の診察後から――いえ、先生の処置がどうのと言ってるんじゃないですよ」
沖は笑いながら頷いた。
「いや、わかっております。いくら何でも私に人格を変える力はありませんから。いや、笑い事ではありませんでしたな」
沖は真顔に戻って続けた。
「もうしばらく様子を見るしかありませんな。もしかしたら死の淵をさまよって、考え方が劇的に変わってしまったとか、そんな可能性もあるかもしれない。あのとき意識を失ったのは確かなようだし」
「やはり先生でもわかりませんか……。わかりました、もう少し様子を見てみます」
美佳は浮かない顔で答えた。
「申し訳ありません、大したお力になれなくて。奥様の方は、お体は大丈夫でしたか?」
「さっきお話したようなことが続いたので、ストレスで体調が優れないのかな、と思って診てもらいに来たんですが――」
ふむふむ、と頷く沖から視線を逸らすと、美佳は遠くを見つめながら言った。
「妊娠でした」
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