第13話

 西日が差しこむ放課後の教室で、純は一人、自分の机の上に腰掛けていた。

校庭から、運動部のかけ声がわずかに耳に届く。

 純は目を細めて窓の外を眺めながら、朝の教頭と雅尚の会話を思い出していた。

(常識的に考えたら教頭先生の言うことが正しいに決まってるし、多くの大人が――いや、人間が教頭のように生きていることは、自分だって知ってる。だけどそれは問題を先送りしているだけだ。多くの人が爆弾を抱えて生きていて、それが爆発しないうちに次の人間に放り投げてる。放り投げられた爆弾は空中や地面で爆発することもあれば、たまたま拾った誰かの手元で爆発することもある。鈴木先生は爆弾を放り投げず、今処理しようとしている。うまく解体できればいいけど、爆発してしまうことだってある。そして今、その可能性は限りなく高い――)

『鈴木先生、鈴木先生。校長室までお越しください』

 夕方五時に差しかかろうという頃、短い校内放送が流れた。今の声は橘先生だな、と純は思った。

 純は意を決したように立ち上がると、校長室のある管理棟へと駆け出した。


         *


 純が校長室のある三階へと階段を登りきった時、ちょうど雅尚が校長室の扉を開けようとしていた。

 純は階段やエレベーターをしばらく観察し、後から誰も来ないことを確認すると校長室の前に移動し、もうすっかり慣れた様子で扉に耳を当てた。

「……とすると貝切君に誰も興味を持っていない、話す価値もない、つまらない話をする子だ、と言ったのは事実だというんだね?」

(校長の声だ。興味が無いので顔をよく見たことは無いけど、始業式や終業式で彼の長い話を聞いているので声は覚えてる。確か国清とかいう名前だったっけか――)

「かいつまんで言えばそうですが――」

(鈴木先生の声だ――)

「校長先生、南高校ではこのような教師を勤務させているんですか?」

(貝切君のお母さん――)

「うーん……」

 国清の唸り声が聞こえる。

「貝切さん、まずは当校の教師から貝切さんに対して、失礼な言動があったことをお詫び致します。本人からの釈明、謝罪等あるでしょうから、ここはひとまず彼の話も聞いてみましょう」

 しばらく静寂が続く。純はごくりと唾を飲み込んだ。やがて雅尚の声が聞こえてきた。

「と言いましてもねぇ……。事実を申し上げただけなので……。貝切さんにとって面白くない話なのは解るんですが、釈明も謝罪も特にありません」

 純の耳に微かに、大人達の様々な種類の溜め息が聞こえてきた。

「仮に――あくまで仮にだが、事実だとしても言っていいことと悪いことがあるだろう?こんなこと大人に言うことじゃないが、もし君が逆の立場でそのようなことを言われたらどんな気持ちがする?」

(教頭の声だ。やっぱりいたんだ)

「うーん……。考えたことも無いですねぇ」

「何て無責任な人なの!こんな人が教師だなんて――」

 雅尚の淡々とした声と、貝切母の金切り声に、純も「こりゃ駄目だ」と天を仰いだ。

「僕自身も、他人から百人中百人に興味を持ってもらおうとは思っていません。だけど少しでも多くの人と仲良くしたいから――まあ、嫌いな人や苦手な人は別ですが――内面も外見も、それなりに磨いてきたつもりです。一方貝切君は、他人にまったく興味を持ってもらえない。しかしそれに気付かず、何の努力もせず、それどころか苛められていると捉えている。逆の立場になってと言われても、ちょっと想像がつきません」

「そんなことを言ってるんじゃない!」 

(これじゃ、朝と同じだ)

「そこなんですよ。僕の言っていることと、みなさんの言っていることがすれ違うのは」

「何?」

「教頭は、僕の『言い方』が間違っていると仰っているんですよね。事実でも言うべきじゃない、と。だけどこの問題は、まず事実を認識しなくては先に進まないんです。貝切君はみんなと仲良くしたいが、誰にも興味を持ってもらえない。それは誰が悪いのか。例えばお菓子メーカーが――」

「もういい、分かった」

 雅尚の持論に、国清がストップをかけた。

「貝切さん。分かっていただきたいのは、鈴木先生はふざけているわけでも、息子さんを愚弄したいわけでもない。彼なりに息子さんのことを考えています。しかし我々の常識、一般的な常識とは、少しばかり乖離があるのも事実です。ここはどうでしょう。いったん鈴木先生を担任から外し、我々が彼の指導を実施します。その間は、そこにいる副担任の橘先生が担任にあたるということで――」

 純が「橘先生もいたんだ」と思ったとき、貝切母が国清の言葉を遮った。

「そんなことはどうでもいいので、息子に誰も興味を持っていない、話しかける価値もないと言った言葉を取り消すよう、鈴木先生に言ってください」

「――わかりました。鈴木先生、あなたの発言は撤回でよろしいですね?」

 校長の言葉に、雅尚は間髪入れずに答えた。

「取り消せません。事実を言っているだけなので、僕の発言を取り消したところで何も解決しません。貝切さん、まずは目の前の事実に目を向けてください。そうしなければ、今はよくとも――」

「わかりました、もう結構です。これ以上ここで話を続けても仕方無さそうなので、教育委員会の方に話を聞いてもらい、鈴木先生の教師としての適否を判断してもらいます。必要とあらばマスコミにも協力してもらって、世間の意見も聞いてみましょう」

 早口でまくしたてる貝切母が出口に向かって来る気配を感じて、純は慌てて扉から離れ、階段に向かって走り出した。

「ちょ、ちょっと待ってください、貝切さん!」

 扉が開いて貝切母が出てくると同時に、国清と脇谷の悲痛な叫び声が廊下に響き渡る。

 追いかけてきた国清と脇谷が、貝切母と三人でエレベーターに乗り込むのを階段の踊り場から見届けると、純は校長室へと舞い戻った。

 開いたままの扉から校長室へと飛び込むと、そこには泣きそうな顔をしたまま突っ立っている心音と、そんな心音をきょとんとした表情で見ている雅尚がいた。

「やあ。きっと君は、扉の外にいると思っていたよ」

 雅尚は純を見ると、まるで参観日の授業中に母親を見つけた子供のような笑顔で言った。

「まあ、真島さん。あまり大人の問題に首を突っ込んじゃ――」

「まあまあ。聞かれて困るわけじゃなし」

 雅尚が心音を制すると、純は無表情で言い放った。

「もう少し困ったほうがいいと思いますけど」

「……なんだい、せっかくかばったのに」

 途端に雅尚が、苦虫を噛み潰したような表情になる。純は構わず続けた。

「どうするんですか。こんなつまらないことで、この学校にいられなくなるかもしれませんよ」

「橘さん、つまらないことはないでしょう。鈴木先生だって、大事なことだと思うからこそ――」

 純を諭そうとする心音を、雅尚が再び制した。

「確かにつまらないよねえ。つまらない自分、それを他人のせいにする男の子。事実に目を背けて感情的になる親。問題を解決する気は無く、論点をずらし、謝罪することによって幕引きを図る上役たち。登場人物が全員つまらないよねえ」

「鈴木先生、それを言っちゃあ――」

 心音が困ったように言うと、純も口を開いた。

「それが大人なんでしょう?それで、どうするんですか」

「別にどうもしないよ。僕にできることはもう何も無い。この問題は貝切君の問題だし、僕をどうするかは学校側の問題だ」

 考える様子も無い雅尚の返事に、今度は心音が口を開いた。

「先生の熱い気持ちもわかりますが、ここはいったん謝罪をされた方が」

「別に熱い気持ちというわけじゃ――」

 雅尚が心外、といった表情で言いかけた時、廊下から話し声と足音が近付いて来た。

「まずい」

 純は国清たちが戻ってきたことを察知し、エレベーターから遠い方の扉の前で構えると、国清たちが入室すると同時に、反対側の扉を開いて出て行ってしまった。国清たちは全く気付いていない。

「まるでくの一だな」

 雅尚が感心していると、無表情の国清と、少し頬を紅潮させた脇谷が目の前に立った。

「鈴木先生、貝切さんは――時間的に明日になるだろうが、直接教育委員会に問い合わせる、とのことだ。時間が経って、頭が冷えてくれればあるいは、とも思うが可能性は低そうだ。もしかしたら明日中に教育委員会の方から査察が入るかもしれない。君も明日のところは、一旦自宅謹慎とする。何かあっても無くても、明日中にこちらから連絡を入れよう」

 国清が一通り話し終わるまで、雅尚は黙って聞いていた。

「わかりました」

 雅尚は短く返事すると、まるで宿題を終えた子供のように爽やかな顔で、部屋を出て行った。

「君はどう思う?」

 雅尚が退室すると、国清は心音に向かって言った。

「といいますと?」

 心音は何について訊かれているのか判らなかった。

 もちろん、雅尚のことに決まっていたが、一体どの部分の何を聞かれているのか。

「鈴木先生の意図だよ。感情的になっているわけでも、意地になっているわけでもないように見える。熱意のある教師ではあるが、このような無謀な戦いを挑むタイプでもない。目的を図りかねておるのだよ」

 心音は、少し考えてから言った。

「これって、やっぱり無謀ですかね?」

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