第12話

 休み明けの四月三十日からの三日間は、ゴールデンウィークの谷間となる。もちろん雅尚の高校も例外ではなかった。

 午前七時二十分ちょうどに、雅尚は都立南高校の校門をくぐって呟いた。

「たまには一人で出勤するのも、いいもんだな」

 雅尚が救急搬送された日から美佳の体調が優れず、今日は病院へ行くとのことだった。

 それならたまにはと、美佳が病院へ行くついでに唯を幼稚園へ連れて行くことになったのだった。

「それにしても全く散々な休日だったな……」

 雅尚は昨日一昨日と、美佳にろくに口をきいてもらえないどころか、食事も作ってもらえなかった。

 その上今日は、教頭に七時半までに出勤するよう言われている為、朝礼の当番でもないのに早く起こされてしまったのだ。

 さらに、いつものように簡単なカーディガンを羽織って家を出ようとしたら、美佳に鼻先五センチくらいの距離で「呼び出し食らってんの、わかってんのか?」と詰められ、スーツに着替えさせられてしまった。

「そういえばあいつ、学生時代の写真とか一切俺に見せないけど、元ヤンだったのかな……」

 背広姿の雅尚は、ぶつぶつ言いながら下駄箱で靴を履き替え、職員室の扉を開いた。

「おはようございます」

 俯きながら扉をくぐった雅尚が声のした方を向くと、そこにいたのは雅尚のクラスの副担任、橘心音だった。

「あれ、早いね。ああ、そうか。ごめんね」

「今日は私が職員会議の当番ですから」

 中ノ瀬事件があってから、今週は日替わりで、他の教師が職員会議の当番を担当することになっている。

 雅尚は心音と言葉を交わしながら、職員室の奥に目を向けた。 

「あ、教頭。おはようございます。早いですね」

 職員室の一番奥、全体が見渡せる席に、苦虫を噛み潰したような顔で、教頭の脇谷が座っていた。

「誰のせいだと思ってるんだ」

 脇谷が苛々した調子で答えると、雅尚は気に入らないお菓子を与えられた子供のような顔で反論した。

「え?教頭が七時半までに来るよう仰ったから――」

「何でこんな羽目になったかと言ってるんだ!」

 脇谷の怒声に、心音はびくっと肩を震わせた。その様子を見て、脇谷は立ち上がって言った。

「まあいい。ここでは何だから、校長室に行こう」

「おや、もう校長も来られてるんですか?」

 他人事のように尋ねる雅尚に対して、脇谷は努めて冷静な口調で答えた。

「いや、まだ校長には報告していない。出張先からそのまま出勤するそうだから昼過ぎに来られるだろう。ひとまず校長室で二人で話そう」

「わかりました」

 脇谷は、入り口近くの壁に架かっているキーボックスから校長室のカギを取り出すと、黙って職員室を出て行った。

 心配そうな心音を横目に、雅尚もそれに続く。

 脇谷と雅尚がエレベーターに乗ったのを見計らって、職員室のすぐ手前にある下駄箱の陰から、純はひょいと顔を出した。

 こんなことになっているだろうと思い、早めに登校して職員室の様子を窺っていたのだ。

(どうせ行先は三階の校長室だろう。校長先生も来てるのかしら。いや、あの教頭のことだ。できれば内々に終わらせたいに違いない。校長には知らせてないに決まってる――)

 雅尚と脇谷の会話を聞いていないにもかかわらず、ばっちり脇谷の考えを見透かしている純は、エレベーターを素通りして階段を三階まで駆け上がった。

 純が三階に到着して、廊下にひょいと顔を出すと、丁度二人が校長室に入っていくところだった。

 校長室も教室と同じように、出入り口が壁に向かって左右二つある。純は雅尚と貝切母の会話を盗み聞きした時と同様、エレベーターに近い方の扉に耳を当てた。

「大体の事情は貝切さんから聞いている。すべて信じちゃいないがね。貝切さんもかなり頭に血が上っていたようだったし、一方的な言い分もかなりあるはずだ。じゃなきゃ有り得ない内容だった」

 純はぴったりと扉に耳を当てている。雅尚の声は聞こえてこない。

「盗み聞きはよくないわよ」

 突然耳元で聞こえた声に、純は飛び上がりそうになった。

純が驚いて振り返ると、そこには同じく扉に耳をぴったりと当てた心音がいた。

「橘先生」

「しっ」

 心音が唇に人差し指を当てると、純も肯いて、再び扉に耳を当てた。

「まず聞くが、貝切君が苛められているというのは事実かね?」

 脇谷の声が聞こえる。

「いえ、僕が見る限りそのような事実はありません」

 やっと雅尚の声が、二人の耳に届いて来た。

「では貝切君がクラスメイトに無視されているというのは、貝切さんの誤解ということだね?」

「そうですね」

「じゃあ、なぜ貝切君は、お母さんにそのようなことを言ったのだろう?」

「貝切君は無視をされているのではなく、誰も貝切君に話しかけないだけです。なぜかというと誰も貝切君に興味が無いからです。勉強にスマホにSNS、今の高校生には、興味が無い人間とコミュニケーションを取る時間などありません。話しかけてもらえないなら、自分から話しかけなくてはなりませんが、貝切君にはそのコミュニケーション能力もありません。結果、貝切君は誰とも話せない日々が続き、寂しさと孤独から猜疑心が生まれ、自分は無視されている、苛められているという被害妄想が生まれたと思われます。でもそれでは――」

「ちょ、ちょっと待て」

 脇谷は慌てて雅尚の言葉を遮った。

「君はまさか、今の発言をそのまま貝切君のお母様に言ったんじゃないだろうね?」

「ええ、言いましたけど」

 雅尚の不思議そうな声が聞こえる。

 心音は思わず純の肩を掴んだ。純は振り返って、こくりと頷く。

 脇谷はしばらく黙っていたが、溜め息をついて言った。

「なんてことだ。じゃあ貝切さんの言ったことは全て事実だというのか」

「いえ、ですからいじめなどは存在せず――」

「問題はそこじゃない!」

 脇谷の怒声が、廊下にまで響き渡る。

「え?じゃあどこですか?」

 なおも不思議そうな様子の雅尚に、心音は絶望の表情を、純は微笑みを浮かべた。

「何とか校長には内密にと考えていたが、もうそうもいくまい。今日の放課後、もう一度貝切さんがいらっしゃる予定だ。こうなったら校長も同席することになる。その場で君に、釈明の機会が与えられることになるだろう」

「釈明?」

「いいか、この機会を生かすも殺すも君次第だ。貝切君が苛められていたか否か、皆が彼に興味があるのか無いのか、そんなことはどうだっていい。問題は君が貝切君を侮辱し、彼の母親を怒らせてしまったことだ」

「侮辱などしていません」

「ではなぜ貝切さんにそのようなことを言ったのかね」

「事実だからです」

「事実なら何を言ってもいいのか!」

 大人がこんなにも、怒鳴り怒鳴られる状況はそうそうないが、もう何度目かの脇谷の怒声に、心音も純もあまり驚かなくなってきていた。

「教頭はいじめがあったかどうかは問題ではないと仰いましたが、問題はそこでしょう。そもそも貝切さん親子の誤解、いや勘違いを解かなくてはこの話は――」

 脇谷は顔の前で右手を振って、雅尚の言葉を遮った。

「もういい、もういい。貝切さんと校長の前でも同じ話をしてみるといいだろう。この間の職員室での件といい、私のことをえらく見くびっているようだが、今日の夕方はただ怒鳴られるだけでは済まんぞ」

「見くびっているだなんて、そんな」

 雅尚は心外、といった様子で言ったが、脇谷の耳には届いていないようだった。

「では放課後呼び出しがかかると思うから、それまでに教師として――いや、一人の大人として正しい説明ができるよう、考えておいた方がいい」

 そう言うと、脇谷は踵を返して出口の扉に向かって歩き出した。

 純は話が唐突に終わった気配を察知し、慌てて二つある扉のうち、階段から遠い方に移動して、ぴったりと壁に張り付くように立った。心音も大慌てで追いかけて、純の真似をする。

 幸い脇谷は扉を開けると、心音と純の方向には目もくれず、一直線にエレベーターへと歩き出した。

 脇谷の乗ったエレベーターの扉が閉まるや否や、心音は校長室に飛び込んだ。

「鈴木先生、どうするんですか?あんなこと言って!」

 心音に続いて、当然のように入ってくる純を見て、雅尚は目を丸くして言った。

「君達、どうしてここに?真島さんはまた盗み聞きかい?」

「そんな呑気なこと言ってていいんですか!いくら教頭相手だからって、好き放題言い過ぎですよ!」

 心音の剣幕に雅尚が目を白黒させていると、純が口を挟んだ。

「鈴木先生は教頭先生だけじゃなくて、貝切君のお母さんにも同じこと言ってましたよ」

「そう、それ!鈴木先生、まさか本当なんですか?本当にそんなことを?」

 心音はオーマイガッと言わんばかりに、額に右手を当てた。

変わって純がまた口を挟む。

「鈴木先生、そんなことよりさっき教頭先生に遮られる前、何を言おうとしたんですか?」

 興味深そうな純の問いかけに、雅尚はこともなげに答える。

「ああ、この間真島さんにも言ったけど、このままでは何も解決しないと言いたかったんだ。これはいじめではない。そんな次元の話ではなく、誰も貝切君に興味を持っていないだけなんだ。貝切君は人に興味を持ってもらえるだけの魅力が無い。悪いのは興味を持たないみんななのか、魅力が無い貝切君なのか。まず責任の所在をはっきり理解しなければ、この話は絶対に解決しないんだ。例えばお菓子メーカーがお菓子を開発したとしよう」

「へ?お菓子?」

 心音はきょとんとし、純はふんふんと頷いている。

「そのお菓子が全く売れないからと言って、お菓子メーカーは消費者を非難したりはしない。買ってもらえないようなお菓子を開発したお菓子メーカー自身が悪いからだ。だけど貝切君は、消費者を非難するどころか訴えてしまった。現実には有り得ないけれど、もしかしたらこの裁判は貝切君が勝つかもしれない。だけどその後に何が残る?裁判に勝ったからといって、消費者がお菓子を買うようになるだろうか」

「ならないならない」

 純は首を振って答えた。

「お菓子の話?貝切君の話?途中混ざってなかった?」

 心音は首を傾げている。

「お菓子を売りたければ、おいしいお菓子を開発するしかないんだ。そしてばんばん宣伝するか、口コミで広げていって、まずは食べてもらう。皆そうやって、お菓子を買ってもらおうと努力するんじゃないだろうか。もちろん中には、努力しなくても売れてしまう商品もあるけれど、それはもともと魅力がある商品で――橘先生、職員会議は大丈夫?」

「でもたまにおいしくないのにブームになるお菓子が――へ?きゃ!もうこんな時間!私失礼します!」

 心音は時計を見ると、飛び上がって行ってしまった。時刻はもう八時に迫ろうとしている。

「それに――」

 ふむふむと考え込む純を尻目に、雅尚は続けた。

「貝切君がこのまま大人になると危険だと思うんだ。学生のうちは教師や親が助けてくれるかもしれないが、社会に出れば教師や親はいない。たまにニュースで見るじゃないか。職場で周囲から孤立した人間が、逆恨みして同僚を殺したり、会社に車で突っ込んだり、時にはパワハラだと訴えたり。きっと背景は、今回みたいなことが多いんじゃないかな」

 純は、わずかに顔を曇らせて言った。

「私は別に、みんなに興味を持ってもらう為に努力してることなんて何も無いから、いずれそうなっちゃうのかな」

 眉毛をハの字にして呟く純に、雅尚は笑顔で答えた。

「言ったろ。もともと魅力がある商品なら、勝手に売れるのさ」

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