第10話

 夕闇さす校舎の廊下を、純は小走りで駆けていた。

 今朝のテレビ番組で、ゴールデンウィークに突入と散々騒いでいたが、陽の目の長さはさすがに真夏にはかなわない。

 明日は昭和の日で祝日だが、五月は三日、四日、五日がもろに土日と重なってしまっている為、振替休日が一日あるだけの四連休だ。

 純はなんとなく損した気分だったが、とりあえず明日は休みだからと、調子に乗って図書室に長居してしまった。

 といっても受験に向けて勉強していたわけではなく、最近お気に入りのシャーロックホームズシリーズを読み漁っていたのだ。

 この学校では、図書室で受験勉強する生徒の姿はあまり見かけない。最近の学生は皆塾通いだ。

 純は勉強の成績は学年でもトップクラスだったが、塾には通っていない。

 両親は純が幼いころ離婚し、母親が純を引き取った。

 母親の仕事は保険のセールスレディで、その美貌も手伝ってか営業成績はかなり優秀らしく、母娘生活していくのに何の支障も無い程度の収入はあった。純を塾に通わせることくらいは難しくないはずだが、彼女は母親に無駄な出費をさせたくなかった。

 授業を集中して受け、家で予習・復習をする。わからないところがあれば次の日先生に聞きに行ってもいいし、今はスマホでだってすぐ調べられる。塾の必要性は感じない。

 純はそう考えていた。

(みんな学校の授業中に他の教科を勉強したり、塾の課題をやったりしてる。せっかく、ほとんど無料で勉強を教えてくれる場所なのに、これじゃ本末転倒だ。といってもみんなの前ではこんなこと、とても言えない。自分だってそれくらいの社交性は身に付けてる。 みんなに無駄に愛想を振りまくつもりはないけれど、わざわざケンカを売るつもりもない。 人間同士、とりわけ女の子同士は、仲良くなりすぎても嫌われ過ぎても面倒だし。今くらいがちょうどいい。高校三年間、いやその先も、ずっとこうして生きていければいいけれど、社会に出たらそうもいかないのかな)

 純は顔を曇らせた後、今度はにやにやしながら歩を速めた。

(それにしても今日の昼休憩の鈴木先生は最高だった。職員室の一件で、鈴木先生に持ってたイメージがすっかり変わった。今までは建前だらけで杓子定規の言葉しか並べない、それでいて自分は本音でぶつかっているつもりで、一昔前の教師ドラマから抜け出てきたようなうざったい人だと思ってた。いや、実際そうだった。だけど今日は違った。あんなこと言えるんだ。私達が知らないだけだったのか)

 純がそんなことを考えながら、通学かばんを取りに教室に入ろうとした、その瞬間だった。

「もう一回言ってみなさい!あなたそれでも教師なんですか!」

 しんとした廊下にまで鳴り響く怒声に、純はびくっとして教室の扉に伸ばした手を止めた。

「ですから僕が見る限り、いじめのようなものは見受けられない、と言ったんですよ、貝切さん」

(今の声は鈴木先生だ。とすると最初の声の主は――)

 純はそうっと、教室の扉のガラス窓から中を覗いた。

 教室の真ん中あたりの席で、雅尚と、見るからに神経質そうな痩せ型の中年女性が、向かい合って座っているのが純に見えた。

(先生が「貝切さん」と呼んでた。すると女性の方は同じクラスの貝切裕也の母親か。いじめがどうとか。貝切裕也は確かにクラスの中でもおとなしい、いるかいないか分からないくらいの奴だけど、私から見ても特に苛められているといった印象は無いな。自分が興味が無いから気が付かなかっただけなのか。いや、というよりむしろ――)

「むしろ苛めるほど、貝切君に興味を持っておりません、誰も」

 雅尚が放ったその一言に、貝切裕也の母親はもちろん、今度はさしもの純も口をあんぐりと開けてしまった。

(言った――)

 貝切裕也の母親は、数秒間わなわなと震えていたと思うと、先程の倍はあろうかという大声で再び怒鳴った。

「何て言ったの!もう一回言ってみなさい!」

 貝切母の怒声に、雅尚は少し困ったような顔で言った。

「もう一回ですか?ですから、苛めるほど貝切君に誰も興味を――」

「聞こえてるわよ!何度同じことを言うつもりなの!」

「えぇ?」

 二人のやり取りを聞いていて、純は思わず吹き出しそうになった。

「裕也はクラスで誰も話しかけてくれない、仲間外れにされていると言ってるんですよ!」

 貝切母の悲痛な叫びに雅尚は、まるで宿題を大量に出された子供のような顔で、頭を掻いた。

「話しかけてくれない、と言ってるんですよね?話しかけても無視をされるというわけじゃないんですよね?」

「どっちだっていいじゃないの!」

「全く違いますよ。貝切君から話しかけても無視をされるのならば問題ですが、誰も貝切君に話しかけないのは、話しかけるだけの価値を貝切君に感じないからでしょう」

「な、な――」

「確か僕も一度彼と会話を交わした時に、つまらない話をする子だな、と思ったことを覚えています。だけどここは小学校ではありません。誰々と仲良くしてあげてください、といった教育を行う場所ではないんですよ」

 扉の外で聞いていた純は、笑顔を真顔に修正した。

(鈴木先生の言うことは間違ってはいない。いや、むしろ完璧なまでに正しい。だけどいくら何でもこの言い方は――)

「校長室はどこですか⁉」

 さらにグレードアップした貝切母の金切り声にも、雅尚は動じた様子は無く答えた。

「職員室がある建物の三階にありますが、この時間はもう校長は帰宅していると思いますよ」

「じゃあ教頭先生は⁉」

「ああ、教頭ならまだ職員室におられるかも――」

 雅尚が言い終わらないうちに、貝切母は近くの机の上に置いてあった自分のハンドバッグをひったくるように掴むと、教室の二か所ある出入り口のうち、純が覗き込んでいた扉とは逆側の扉を力いっぱい開けて出て行った。

 ドスンドスンと聞こえてきそうな足音が遠ざかると、純は教室にそっと入って行った。

 後姿の雅尚の肩が震えている。

(さすがにまずいことになったと後悔しているのかしら――)

 純が声をかけようとした瞬間。

「あっはっはっは!」

 突然笑い出した雅尚に、純はギョッとした。

「いやあ、何て面白い怒鳴り顔なんだろう」

「怒鳴り顔?」

 雅尚の独り言に、純は思わず聞き返した。その声に振り向いた雅尚は、やっと純に気が付いた様子だ。

「あれ、真島さん。どうしたの?こんな時間に」

「え?ああ、図書室でちょっと読書をしていたら遅くなって――て、そんなことよりいいんですか?今の」

「へ?今のって――ああ、見てたのか、あの面白い怒鳴り顔」

 満面の笑みの雅尚に、純は呆れたように言った。

「怒鳴り顔なんて言葉初めて聞きました。そんなことより、今のって問題になるんじゃないですか?」

 純の指摘に、雅尚はとたんに叱られた子供のような顔で頭を掻いた。

「そうはいっても事実だからねぇ。君は貝切君が苛められていたと思うかい?」

「いいえ、私も先生と同じ意見です。だからといってあんなこと言われたら、普通は怒ると思いますけど」

「じゃあ『そうですね。苛めている生徒に注意します。これからは苛められないようになるでしょう』と言えばよかったのかい」

 雅尚にそう言われて、今度は純が困ったようにおでこを掻いた。

「そう言われたら確かに……」

「それじゃあ何も変わらない。また貝切君のお母さんが怒鳴り込んでくることになるだろう。そもそも加害者も被害者もいないんだ。誰もどうしてあげることもできない。貝切君自身の問題だからだ。貝切君自身が解決するしかないんだ。だけど自分で自分の問題が解らないんだから、誰かが教えてあげないといけないんじゃないかな」

 純が返事をできずにいると雅尚は、まるで夏休み前日の子供のような笑顔になって言った。

「ゴールデンウィークかあ。今年はちょっと損した気分だなぁ」

「あ、それちょっとわかる」

 二人は顔を見合わせると、同時に微笑んだ。

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