第9話

 真島純は、憂鬱であった。

 昼休憩を知らせるチャイムが鳴ってからも、窓際最後尾の席から五分近く外を眺めていた為、何人かの女生徒に「どうしたの?」と声をかけられた。

 彼女はその都度「別に」とだけ返事を返し、再び窓の外に目をやった。

 誰も彼女を昼食に誘わないのは、何も彼女が不機嫌そうだからではない。

 真島純十七歳、都立南高校二年四組、雅尚が担任を務めるクラスの女生徒の一人だ。

 切れ長の目に、ぴんと通った鼻筋、尖った顎に百七十センチ近い長身は、すれ違う人々が振り返るほどの美貌とスタイルであり、成績も常にトップクラス。運動神経も抜群で、体育の時間は常に模範演技を任される。

 だが、周囲の同年代の女の子とは異なり、複数人でつるむことを好まず、感情を露にすることもほとんど無い為、どちらかといえば冷たい印象を他人に与える。かといって周囲の人間から嫌われたり、仲間外れにされているといったわけではなかった。

 成績優秀、容姿端麗、スポーツ万能で無愛想。人に嫌われる要素はたっぷりと持ち合わせていたが、物事をはっきり言う性格で物怖じしないその言動は、同性にもある種の憧れを抱かせ、男子生徒も含め一目置かれる存在でもあった。 

 以前、純は不良に絡まれていた女生徒を助けたことがあった。といっても実際は、街中でクラスメイトの女の子が二、三人の不良に絡まれていたところに純が出くわし、たまたま近くにいた警察官に声をかけて助けてもらったというだけの話なのだが、そのときの話が人から人へ伝わるうちに、それまでの純のイメージも相まって「十数人を相手にばったばったと得意のカンフーでなぎ倒した」という都市伝説のような話になってしまい、弟子入り志願者まで現れる始末であった。

 そんな純であったが、担任の鈴木雅尚のことは、どうも好きにはなれなかった。

周囲とのコミュニケーションが少ない純は、担任教師にはクラスに溶け込めない孤立した生徒に映ったのだろう。何度か放課後の教室で面談のようなものを受けた。

「もっと自分を出してみろ」「勇気をもって人に話しかけてみろ」「何か悩み事でもあるのか」鈴木先生にそう言われる度、純は「ああ、この人は何も考えていないな」と思った。

(悪い人じゃないんだろうけど、物事の表面だけを見て建前でありきたりの言葉を並べ、それで物事を解決した気になってる。いや、たぶん結果はどうでもいいんだ。結果が全てとよく言われるけれど、大人の世界は過程が大事だということを、私は知っている。『一応、対応した』これが大事なんだ。問題が起こってから対応しても遅い。どうして問題が起こるまで放置していたのかと責められるから。どんなに気を付けていたって、問題が起こるときは起こる。理不尽に攻められれば、人は問題を防ぐ方法を考えるよりも、問題が起きても責められない方法を考えるようになるのは当たり前だということを、大人は解っていない。いや、きっと解ってるんだ。たぶん責める側の人間もまた、責めなければ自分が責められてしまうんだろう。子供から見てもこの国は生きにくい。いや、みんなで互いに生きにくくしている国だ――いや、今はそんなことどうだっていい。それよりも……)

 目下のところ純にとっての悩みの種は、この国の行く末よりも、昼休憩に副担任の橘心音に呼び出されていることであった……。


        *


 職員室に到着すると、純は扉の前で大きく溜め息をついてから、ノックした。

「失礼します」

 雑多な雰囲気の職員室も、今は昼休憩。教師たちも各々の机で静かに食事をとっている最中だったが、何人かの教師が純の挨拶に顔を上げた。

 優等生の純が職員室に呼び出されているとあって、箸を止めて注目する教師もいる。

「あら、早かったわね」

 入り口から一番近い席で、今まさに食べ始めようとしていた弁当の蓋を閉じながら、橘心音は機敏に立ち上がった。

「てっきり食事を済ませてから来るものだと思っていたの」

 橘心音が笑顔でそう言うと、純は無表情で返事をした。

「気になることを先に片付けないと、食欲もわきませんから」

 純は橘心音のことも、雅尚に負けず劣らず苦手だった。

 橘心音は二十六歳、英語の教師で純のクラスの副担任でもある。大きな瞳に肩までのボブが印象的で、健康的なかわいさと熱心な指導スタイルで、主に男子生徒から絶大な支持を集めていた。

 しかし純には、張り切った駆け出しの女教師が、先輩の担任教師を真似て熱血教師を演じているようにしか見えなかった。

(どうせ今日も、鈴木先生と同じように的外れで内容が薄い相談役を演じる気だろう)

「そこに座って」

 純の考えなどつゆ知らず、心音は職員室の一角の小さな机とソファがある、ちょっとした応接スペースのような場所を指して言った。

 純はソファに腰を下ろすと、周囲をきょろきょろと見渡して、片方の眉をつり上げた。

 向かいのソファに腰を下ろした心音のすぐ後ろに雅尚の席があり、彼の後姿が見えたのだ。

(昨日階段から転げ落ちて救急車で運ばれた、て聞いたけど今朝のホームルームには来てた。特にそのことについて触れる様子も無かったし、どこを怪我したのかと思うほど、いつもと変わり無かったけど……。今は黙って弁当を食べてるけど、そのうち参戦してくるのは目に見えてる。長くなりそうだ……。こんなことなら昼食を食べてから来るんだった)

 純のそんな思いを知る由も無く、心音が語り始めた。

「この間の英語の授業の時、ペアを組むよう指示したわよね。そのとき真島さんだけ一人だったことが気になって――」

(そんな話だろうと思った。うちのクラスは生徒数が奇数なんだから、誰かが一人になるに決まってんじゃん――)

 純はそう考えながら、雅尚の様子をちらちらと伺った。すると、一人の年配の男性教師が雅尚に話しかけた。

 心音の話そっちのけで、純は耳を傾ける。

「鈴木先生。入院したわけでもないのにあれなんですけど、みんなで鈴木先生の快気祝いをしようってことになって。今晩どうですかね?」

 男性教師は右手でお猪口を持ち上げる、中年男性の世界ではお馴染みのしぐさを披露している。呑む理由は何でもいいのだろう。

「ああ、今晩は止めときます」

 雅尚がそう答えると、男性教師はさも残念そうに言った。

「ええ、何でですか?奥さんと何か約束でも?」

 雅尚は男性教師に向かって、まるで子供のように無邪気な笑みを浮かべて答えた。

「ああ、そういうわけじゃないんです。ただ、いつも皆さん、結局教頭先生と生徒の悪口になるじゃないですか。僕も教頭先生のことは嫌いだし、嫌な生徒もいるけど、いつも同じ話ばかりでつまらないんですよね」

 男性教師と、そこにたまたま通りかかった教頭先生が口をあんぐりと開けた顔を見て、純は思わず吹き出してしまった。

 雅尚たちの会話など聞こえておらず、一生懸命純に話しかけていた心音もまた、純が笑い出したのを見て口をあんぐりと開けてしまっていたのだった――。

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