第6話
雅尚はムクリと起き上がると、きょろきょろと辺りを見渡した。
彼は何人かの人間に囲まれていた。医師や看護師、救急隊員の姿もある。皆一様に狐につままれたような表情で、ストレッチャーの上で座り込んでいる雅尚を見ている。
清潔な広い空間に、規則正しく並べられた数台のストレッチャー、テレビで見たことがあるような医療器具。天井の照明とは別に、空中に可動式のまばゆい照明。彼が、ここが病院だと理解するまでに、時間はかからなかっただろう。
「脳挫傷の疑いがあると聞いていたが――」
「いや、搬送中は確かに――」
医師と救急隊員が困惑した様子で話している様子を、雅尚も周囲の人間と同様、不思議そうな表情で見ている。医師の胸にある名札には『国松総合病院・脳神経外科医・沖』と印字されていた。
「ご自分の名前を言えますか?今日は何曜日ですか?」
沖が真剣な表情で問い掛けると、雅尚はきょとんとした表情のまま答えた。
「鈴木雅尚です。今日は――今日から職員会議の進行当番だから、月曜日です」
沖はふむ、と頷いてからまた問う。
「何があったか覚えていますか?」
「何が……?そうか、僕は中ノ瀬に殴られて――」
雅尚が言いかけたそのとき、沖の首から下げられていた医療用の携帯電話がピピピ、ピピピと鳴った。
「もしもし――警察の方が?うーん、とりあえず検査が終わるまで待っていてもらってくれ」
沖はすぐに通話を終えると、まだぼうっとした表情の雅尚に向かって言った。
「鈴木さん、警察の方が話を聞きたいそうですが、あなたは頭を打っている。先に検査をしましょう」
「別に何ともありませんけど……」
困惑の表情を浮かべる雅尚に向かって、沖は真剣な表情で諭すように話した。
「頭は侮れません。今は良くとも、時間が経ってから症状が現れることもありますから」
「はあ、そんなもんですか」
雅尚は沖に促されて再び横になると、そのままストレッチャーごと検査室まで運ばれた。
道中並んで歩いていた沖が、横になっている雅尚にもう一度尋ねた。
「何があったか、覚えていますか」
「覚えています。学校で昔の教え子に殴られて、階段から転げ落ちたんでしょう?その後のことは記憶にありませんが――先生は若い頃の加藤茶に似ていますね」
「そうでしょうね。救急隊員の話だと、救急車が到着した時には、すでにあなたの意識は無かったということでした。反応も乏しかったということですから――加藤茶?まあ、いいか。とにかく検査をしましょう」
雅尚はそのままМRIの撮影室に入れられ、頭部を撮影された後、再び救急外来の処置室に戻された。
検査結果が出るまで時間がかかるというので、雅尚がベッドで横になったまま沖と話をしていると、血相を変えた美佳が看護師に連れられて来た。
「雅尚さん!しっかりして!意識が無いなんて嘘――」
美佳はそこまで一気にまくしたてると、談笑していた雅尚と医師の顔を交互に見て呟いた。
「買い物に戻っていいかしら?」
*
三十分後、救急外来の一般診察室に移った雅尚と美佳は、沖と向かい合って座っていた。
「実に不思議です」
沖の、もう五度目になるこの言葉に、雅尚と美佳はさすがにうんざりしているのか、二人そろって小さな溜め息をついた。
「傷一つない。なぜ気を失ったか、説明できないくらいです。内出血も無い。救急隊員の話では後頭部に腫れがあったということでしたが、全く見当たらない。腫れが引いたというよりは、最初から無傷のように見えます。救急隊員の話を疑わざるを得ないとまで言えます」
雅尚は、美佳と目を見合わせた後言った。
「では、これから仕事へ戻っても良い、ということでしょうか」
「いえ、今日一日は様子を見てください。先程も言いましたが、頭部は侮れない。検査で異常が無くとも、一週間後に症状が現れることもあります。御本人はもちろん、奥様もしばらくご主人の様子に気を付けてあげてください。吐き気やしびれ、呂律が回らないなどの症状が現れたら夜中でもいいので、すぐに病院に連絡するように」
「はあ、わかりました」
やっと沖から解放された雅尚と美佳が診察室から出てくると、今度は待合で待機していた捜査員が、さっと二人を取り囲んだ。
「鈴木さんですね。お話を聞かせてくださいますか」
雅尚は、まるでレポーターに囲まれる芸能人のごとく、あっという間に四、五人の男に囲まれてしまった。
はじき出されてしまった美佳は、少々むくれている様子だ。
その中でも一番の年長者らしき四十代半ばの屈強な男が、警察の身分証を見せながら名乗った。
「福庭といいます。意識を無くされたということですが怪我の具合はどうですか?当時の状況を思い出せますか?我々としては当然殺人未遂を視野に入れて――」
「怪我はありません。無傷だそうです」
何食わぬ顔の雅尚に、鼻息を荒くしていた捜査員達は一斉に「へ?」という声を発した。
「それより中ノ瀬はどうなりました?」
顔を見合わせていた捜査員達は、雅尚の質問で我に返った様子で答えた。
「ああ――我々が駆け付けた時も、まだ現場に留まっていましたよ。呆然とした感じで、しきりに『そんなつもりじゃ無かった』と繰り返していましてね。当然署に連行はしていますが、まだ詳しい話を聞ける状態ではないんですよ」
「そうですか……。なんだか申し訳ないなあ。どうも彼とは相性が良くないらしい。あまり気にしないように伝えてください」
雅尚の言葉に、福庭は驚きの表情を浮かべて言った。
「あなたは意識を失うほどの被害を受けたんですよ。当然被害届はお出しになるでしょう?」
「いや、彼は僕の教え子だったんですよ。理由は全く覚えていませんが、僕に恨みを抱いていたらしく、同意の上で殴られたんです。僕が恨まれるような点があったんでしょうし、ご覧になられた通り華奢な子だ。パンチ自体もさほど効きませんでした。結局無傷だったわけだし、彼にはこれ以上道を踏み外して欲しくありません。それに――」
雅尚の言葉をそこまで聞くと、福庭は感心したように声を上げた。
「ははあ!さすがに学校の先生は立派なことを仰いますなあ。しかし、我々としましては既に調書も取ってますし、何も無かったことにはできませんよ」
「まあ、そのへんはお任せします」
その後捜査員達は、本人の供述と照らし合わせる必要があるからと、一通り状況を聞き取って帰って行った。
そして、病院の一階の中程に位置する大きな待合ホールで、会計が終わるのを二人で待っていると、美佳が口を開いた。
「刑事さん達と話をしていた時、『彼にはこれ以上道を踏み外してほしくない』て言った後、何か言いかけたよね。何て言おうとしたの?あれ以上立派なこと言っちゃうと、嘘臭くなっちゃうよ」
「ああ――」
興味津々といった美佳に向かって雅尚は、まるで捕まえた昆虫を殺す子供のような表情で口を開いた。
「彼はそこまで狂っていなかったが、まともじゃないのも確かだ。これ以上逆恨みされると、次は本当に殺されてしまうかもしれない。被害届を出して死刑にでもできるのなら別だが、この程度の被害なら泣き寝入りするべきだ、とね」
淡々と淀みなく話す雅尚の横顔を見て、美佳は一瞬表情を引きつらせた後、すぐに笑顔を作って言った。
「そう……ね」
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