第5話
「さあ、もう時間がねえ。今は――お前を乗せた救急車がまさに病院に到着したところだ。ここはお前らの世界と時間の流れ方は違うが、それでもタイムリミットは近い」
『そいつ』はまた手元を眺めているようだ。
「どうする?取引が怖けりゃ、内容を聞く前に断ったっていいんだぜ?」
心なし愉快そうな『そいつ』の言い方に、雅尚はムッとして言った。
「何だと?さっきの話の女の子と随分対応が違うじゃないか」
「なあに、今回の案件はちょっと引っ掛かっててな」
「……どういう意味だ?」
雅尚は少し苛立っていた。
(時間が無いと言ったのは『こいつ』の方ではないか。なのに『こいつ』はいちいち引っ掛かる言い方をしやがる――)
「いや、俺様が関わることになって驚いたのさ。お前、自分の死に全く納得していない、てことだよな」
「そりゃそうだろう。俺のどこに落ち度があった、ていうんだよ。何に引っ掛かってるんだ?」
雅尚に苛立ちが見えても『そいつ』は全く意に介する様子は無く、ゆっくりと考えてから口を開いた。いや、開いたように見えた。
「いや、いいんだ。さて、タイムリミットだ。条件を発表しよう」
いよいよか、と雅尚は少し顔を強張らせた。
「どんな条件でも」とは言ったものの、『そいつ』の話を聞いてからは、その考えは揺らぎ始めていた。
触れはしなかったが、奪われる能力の中に『思考』とあったのも、雅尚は気になっていた。
おそらく植物状態のようなことになるのだろうが、それは生還と言えるのか、その場合どれくらいの時間そのような状態なのか、治ることはあるのか、聞きたいことは山ほどある。
だが、それらは条件を聞いてから確認すればよい。
今は一刻も早く条件を聞き出すことだ。どうやら奴は、こちらが条件を提示された後に思案する時間など計算に入れていないように見える。今は口を挟まないことだ。
『そいつ』は、また自分の手元を窺っているように見える。
「鈴木雅尚三十五歳。お前が生存を続ける為の取引条件、つまり俺様が頂くお前の能力は――」
雅尚は、ごくりと唾を飲み込んだ。
「虚位不実――何て読むんだこりゃ。ややこしい名称だな。まあいい、簡単に言おう。俺様がお前から頂くのは『嘘をつく能力』だ。つまりお前は、今後生きていくのなら嘘をつけなくなる」
雅尚はしばらく『そいつ』の顔と思われる辺りを見つめた後「へ?」と、間の抜けた声を発した。
『そいつ』には、自分の考えていることがすべて伝わっている。雅尚はそれでも口に出さずにはいられなかった。
「それだけ?」
『そいつ』は少し笑っているように見えた。
「そうだ。たったそれだけだ。どうする?」
雅尚も、ようやく笑顔になって言った。
「どうするもこうするも受け入れるさ。受け入れるしかないだろう。正直もっときつい条件を考えていたんだ」
「この条件がきつくない、て言うのか?」
雅尚の言葉に『そいつ』は少し意外そうな調子で返した。
「きつくないとは言ってないさ。だけど嘘をつかないってことは相手を騙さない、ってことだろう?決して悪いことじゃない。もちろん本音だけで生きていくことは難しい。人間社会は――とりわけ日本は、建前の社会だからな。だけど本音を言わないわけでもない。要は嘘をつかなければいいんだろう?」
「嘘をつかないことと、嘘をつけないことはちょっと違うんじゃねえか?」
「まるで禅問答だな。お前は人間より人間らしいんじゃないか?」
雅尚は愉快そうに笑った後、少し真面目な調子で続けた。
「確かにな。困る局面があることは想像に難しくない。だが、自分でいうのもなんだが俺はどちらかというと元々正直者だと思っている。あまり心配はいらないんじゃないかな」
「ほう。だが建前でしゃべっちまったおかげで、教え子に殺されかけたんじゃねえのか?」
からかうような『そいつ』の調子に、雅尚はしかめっ面で応えた。
「ああ、それでそんな取引条件に決まったのか?あんなのまずあり得ないよ。確かに建前だったが、嘘をついたわけじゃないし、おかしなことを言ったわけでもない。だからこそ、中ノ瀬に殺意までは無かったともいえるだろう?お前の話によれば、奴に殺意があれば俺とお前は出会ってないはずだ」
「確かにな」
『そいつ』は、また手元を見つめているようだった。
「さて、取引は成立だな。ではルールの説明と行こう」
「ルール?そんなの聞いてないぜ」
雅尚は訝しげに訊ねた。
「なあに、簡単なことさ。さっきは俺が現れる条件やらを説明したろう?今度は取引成立後の条件、いうなれば規約を説明しよう、ていうのよ」
「条件、条件とうるさいな。耳にタコができそうだ」
「お前たちの言葉を使い慣れてないもんでな。ボキャブラリーに乏しいのさ」
『そいつ』は、少しも悪びれる様子は無かった。
「今からお前は生還するわけだが、意識を取り戻した時点で、ここでの出来事、つまり取引や条件、俺の存在や俺との会話すべての記憶を失う」
「そうか、寂しいもんだな」
雅尚はちっとも寂しくなさそうに言った。
「『嘘をつく能力』が無くなれば、嘘をつくという概念自体がお前の中に存在しなくなる。だが、お前のこれまでの人生でついた嘘を無かったことにはできねえ。よって、今までついた嘘の記憶だけが無くなる」
「嘘をついた記憶だけが無くなる?するとどうなるんだ?」
「さあな。俺も初めての案件なんでな。まあ一つ言えることは、お前が普段どれくらい嘘をついていたかによっては、まるで人格が変わってしまうことになるだろうな」
『そいつ』の言葉に、雅尚は笑って答えた。
「俺は嘘をついたことが無いなんて言わんが、人格が変わるまではいかないだろうな」
『そいつ』も笑ったように見えた。
「俺と再び出会うときは、お前が次に死んだ時だ。頂いた能力もその時返還される。ちなみに、二度目の生還は無い」
「またお前と会うのか?二度目の生還は無いのに?何で?」
「それはその時にわかるさ。それからさっき、生還後は一、二年で死んじまう奴も多いと言ったが――」
「そうだ、それも気になってたんだ。条件を受け入れたものの、やっぱり辛くなって自殺、といったところか?」
『そいつ』は首を横に振ったように見えた。
「いや、それは無い。今まで一度たりともな。そもそもそれは出来ねえんだ」
「なぜだ?せっかく生還したのに自殺なんてけしからん、みたいな理由か?」
『そいつ』は、また首を横に振ったように見えた。
「逆だ。一度失った命だ。人生に絶望したとき、心が折れたとき、少しでも『死にたい』と思った瞬間、死んじまうのさ。自殺するまでもなくな」
「ふーん、ある意味では幸せだけどな。なら、みんな一、二年で心が折れちまう、ってことか?」
「まあ、そういうことになるな」
雅尚は少しも意に介していなかった。
「まあ、俺は大丈夫だと思うぜ。次に会うのは五十年後くらいになるんじゃないかな」
「そうか。それじゃあ、俺様もお前のことは忘れちまうかもな」
意外なことに『そいつ』の言葉には、微塵も嫌味が感じられなかった。
「さて、説明はこれくらいにしとこう。そろそろ時間だ。何か聞きたいことはあるか?」
雅尚は、少し考えてから言った。
「お前とは、一度ゆっくり話してみたいもんだな。嘘じゃないぜ?」
「わかってるぜ。おっと時間か――じゃあな」
その瞬間、雅尚は意識が遠ざかっていくのを感じた。いや、意識が戻っていくと表現するべきか。
目の前から消えゆく男を眺めながら『そいつ』は呟いた。
「いい人生を――」
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