第4話

「思い出したぞ」

 雅尚は「ひらめいた」とばかりに、右手の拳を左手の掌に打ち付けた。

「確かに俺は階段の最上段から転げ落ちたが――その後の記憶が無いな」

『そいつ』は雅尚の声を聞いているのかどうか、相変わらず自分の手元の何かを眺めているように見える。

「今現在、お前は救急車で運ばれている真っ最中だ。既に意識はねえ。打ち所が悪かったんだろうな。まだ心臓は動いちゃいるが、このままお陀仏の予定だ」

 雅尚は何か言い返そうとして、止めた。そして再び考え込んだ。

(これは夢か現実か。いや、夢の中でこんなにはっきり、現実に起きた出来事を思い返せるだろうか。 確かに俺は階段から転げ落ちた。今はその直後に間違い無さそうだ。だとしたら『こいつ』の言う通り、今俺は本当に死の淵を彷徨っているのかもしれない。テレビや雑誌で、臨死体験の類をまことしやかに語っている人間をたまに見かけるが、大体共通しているのは三途の川らしき場所で死んだ祖父が手招きしていたとか、祖母が川の向こうで「こっちに来るな」と言っていた、といった内容だが―― このパターンは聞いたことが無いな……。この後の展開次第で俺の生死が決まったりするんだろうか――いや、目の前の『死神らしき奴』が「お陀仏の予定だ」と言ったんだから、きっと死ぬんだろう……。ん?待てよ。予定?予定と言ったな。ということは――)

「そう、決定じゃあねえ」

『そいつ』に声をかけられて、雅尚は驚きの表情を浮かべた。

「考えが読めるのか?」

 雅尚の言葉に『そいつ』は手元の何かから目を離したように見えた。そして面倒臭そうに言った。

「ん?ああ――お前らはできねえんだったな。そんなことよりなぜ俺様がお前の前に現れたのか、だ。おまえがここをどこだと考えようと、俺を何だと思おうと関係ねえ。俺は俺の仕事をやるだけだ」

「お前の仕事?」

 雅尚は、すでに事態を受け入れている自分に気付いた。

「あー、面倒くせぇが説明するのが決まりだ。自分が今死にかけてる、てえのは既に理解していると思うが、俺達はお前ら人間のすべての死に立ち会うわけじゃねえ。それじゃ俺達が何人いてもきりがねえからな」

(お前みたいなのが何人も……。それは不気味だな――)

「うるせえ、聞こえてるぞ――じゃあどういう場合に俺達が現れるかというと、条件があるんだ」

「条件?」

『そいつ』の調子が少し変わったことに、雅尚は気付いた。

「条件はたった一つ。『自分の死に納得がいかない場合』ただそれだけだ。まさに死んでも死にきれないってやつだな。ただし――」

「突然死んだら誰だってそうだろ」

 雅尚が横やりを入れるが『そいつ』は無視して続けた。

「ただし『他人の不注意による死』の場合。ここがポイントだ。自殺は言うまでもねえが、自然災害や病気、自身の不注意や、他人に故意に殺された場合は、俺達は関わらない。自身の不注意はもちろんだが、故意に殺されるような奴は、自業自得のケースが多い。ある程度自分の死に納得するだろう。少しでも納得すればダメだ。条件には当てはまらねえ」

『そいつ』の言葉に、雅尚は少し考えてから言った。

「他人の不注意で死ぬ――交通事故とか、ビル火災とか――まあ、確かにそうしょっちゅうあることじゃないよな」

「まあ、それらが多いがそれだけじゃないぜ。医療ミスや手抜き工事による事故、お前みたいに他人の手によって階段から転がり落ちたり、細かく分けたら人災なんて結構あるもんだ」  

「ん?俺の場合はどうなんだ?故意に殴られたぜ」

『そいつ』はまた手元の何かを見ているようだ。

「そうなんだ。なかなかレアケースだぜ。お前の場合、この中ノ瀬康雄という男にお前を殺そうという意思までは無かった。故意に殺された訳ではないという判断だな。中ノ瀬に感謝しろよ」

 雅尚は「殴られて死にかけているのになぜ感謝しなくちゃいけないんだ」と言おうとして止めた。どうせ自分の考えていることは、『そいつ』には分かっているのだ。

代わりに別の疑問を投げかけた。

「判断、て誰の?」

「知るか。そもそも――」

「考えたことも無いんだろ」

 雅尚も、だいぶ『そいつ』の性格を把握してきた。

「故意に殺される人も自業自得とは限らないぜ。通り魔や無差別殺人に巻き込まれた人はどうなる?絶対に自業自得なんかじゃないし、みんな納得していないはずだぜ」

 雅尚の言葉に『そいつ』は、手元の何かから目を離したように見えた。といっても雅尚には、目がどこにあるのかも分からない。

 相変わらずはっきりとは認識できない存在だ。そういう意味では、夢の中の感覚に近い。

「確かに俺達が現れる可能性はある。ただし、他人の不注意による事故や怪我だろうと、通り魔から危害を加えられた場合だろうと、即死か、それに近いダメージを負った場合は駄目だ。人間が殺意をもって相手を攻撃するときはこのパターンがほとんどだ。その場合は俺達と取引をする時間がねえ」

「取引?」

 雅尚が聞き返すと『そいつ』は立ち上がったように見えた。

「やっと本題に入れるぜ。もう時間があまりねえ。手短に話すぜ。いいか、もう一度言うがお前は今、死にかけている。だが、今から俺様が出す条件を受け入れれば取引成立。晴れてご生還、というわけだ」

 意気揚々とした『そいつ』の声に、雅尚は諦め顔で肩をすくめた。

「いよいよ『死神』らしくなってきたな。よく映画なんかで見るよ。魂と引き換えに、みたいなやつだろ。いいぜ。どんな条件か知らないが、受け入れるしかないだろう?死ぬよりはましだ。これまでお前が関わった奴、みんなそうだったろう?」

『そいつ』は少し不思議そうな顔をしたように見えた。そして少し間を置いて、また手元の何かに目をやったように見える。

「――これまでの取引成立の確率は大体――五パーセント前後だな。年齢も関係してくる。六十代、七十代以上の取引相手になってくると、俺様と取引してまで生き長らえようとする奴はほとんどいねえ」

「五パーセント?」

 淡々とした『そいつ』の調子とは対照的に、雅尚は思わず大きな声を出してしまった。

「しかも取引が成立したからといって長寿が保証されるわけじゃねえ。見事生還した奴のその後の生存期間は――ざっと見て一、二年の奴が多いな」

「なんだって?一体どんな無茶な条件を出す

んだ?」

 雅尚が責め立てるように言うと、今度は『そいつ』が肩をすくめたように見えた。

「無茶じゃねえさ。死と引き換えの大博打だぜ。今お前も言ったじゃねえか。どんな条件だろうと死ぬよりはましだと」

 冷めた調子の『そいつ』に、雅尚は言い返せない。

「なあに、簡単な話だ。お前達人間の能力を俺様が一つ頂く、たったそれだけだ」

「能力?」

「視力、聴力、筋力、声、思考、そのほか何でもだ。一つだけ頂く。お前達人間は俺様が頂いた能力を失う。ただそれだけだ」

 当たり前のように説明する『そいつ』に対して、雅尚は思わず絶句した。

(視力や聴力を失う……。確かに厳しい条件だ。が、世の中にはそういった条件で立派に生活している人間がたくさんいるじゃないか。死と引き換えならば受け入れるしか――)

「ちなみに俺様の前回の取引相手の条件は『視力』だったが、奴は断った」

「――死を選んだってことか?」

「そういうことになるな」

『そいつ』を見つめながら、雅尚は「自分だったら」と考えた。

(視力――確かに辛い。生まれながらではない。この年まで普通に生活してきて突然、となると苦労の度合いは想像に難しくない。だが、そのような人間がいないわけではない。多くの人間がそのような困難を乗り越えて生活しているはずだ――俺だったら受け入れる。家族には苦労をかけるかもしれないが、死には換えられない。美佳と唯もそう願うはずだ――)

「そいつはお前と同じくらいの歳の男で、職業はカメラマンだった。妻や子も無く親もいない、いわゆる身寄りのない男だった」

 こちらが答えを出したタイミングで語りかけてきた『そいつ』を、雅尚は睨み付けた。

「だから何だ?何が言いたい」

「別に。価値観は一つじゃない。お前が正しいとも、間違っているとも言えねえ。そもそも正解なんて無いのさ」

 雅尚は少し意外そうな顔で、はっきりとは見えない相手を凝視した。

(まさか『死神』にそんなことを言われるとは、思ってもいなかった。『死神』といえば血も涙も無い、悪魔のような存在といったイメージだったが、案外常識的な一面があるのかもしれないな――)

「悪魔だってお前たちの勝手なイメージだろう?」

『そいつ』は、少しニヤッとしたように見えた。

 雅尚は考えが読まれていても、もう動じなかった。というよりも全てを受け入れていた。

『死神』も何もかも。

「なら『声』はどうなんだ?簡単にくれてやるわけにはいかないが、視力や聴力と比べたら比較的楽な条件のように思えるが――過去の例は?」

『そいつ』はまた肩をすくめたように見えた。

「俺もまだその案件は一度しか扱ったことがねえ。少し前のことになるが、こいつも取引を断った」

『そいつ』は手元の何かを見ることなく言った。

「何だって?高齢の人間だったのか?」

「いや、二十代後半の女だったな」

 雅尚は息を呑んだ。

「また身寄りがいなかったのか?」

「いや、恋人もいたし両親も元気だったよう

だな」

「じゃあ仕事か?バスガイドでもしてたって

のか?確かに声が無ければ仕事に就くのは難

しくなるが、だからといって――」

「彼女の職業は歌手だった」

 雅尚は、自分の声を断ち切るような『そいつ』の言葉に、また言葉を失った。が、すぐに思い直して言った。

「それにしたって何も死を選ぶことはないじゃないか。もし続けていたって、売れて有名な歌手になれていたとは限らないぞ。それよりも恋人や両親を大事に――」

「彼女は全米の音楽チャートで何曲も一位を獲っていた。ワールドツアーも目前で、まさに人生のピークを迎えていた。俺様は何度も確認した。本当にいいのか、と。例え声が出なくなっても、お前の人生はこれからも輝き続けるはずだ、と」

「お前――」

 雅尚は、ぼんやりとしか見えない『そいつ』の顔を窺った。

「彼女は言った。自分がもう売れておらず、第二の人生を考え始めていたならば取引に応じるだろう。だが自分は今、人生の絶頂期にいる。今声が出なくなるのは耐えられない。このままファンの胸の中で、永遠に生き続けるのも悪くない、と」

 雅尚は複雑な顔で聞いていた。

「彼女は最後に笑ってこう言った。『私は伝説になる』と」

『そいつ』の声に、ほんの少しだけ感情が湧いたように感じられた。

 雅尚は幾つかの疑問を抱いたが、その中でも最も重要な項目を『そいつ』にぶつけた。

「もしかして取引の条件って、それまでの人生と深く拘っているのか?」

『そいつ』は、またニヤッとしたように見え

た。  

「さあな、考えたこともねえ」

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