第3話

 早朝のせいか、四月の終わりにしては少し肌寒い日だった。

 向こう一か月は暖房も冷房も必要無い、ほとんどの国民が待ち望んだ季節のはずだった。

 鈴木家では昨日の日曜日、しばらく使うことは無いだろうとエアコンの掃除をしたばかりだったのに、思いがけず今朝暖房を使ってしまった。

 何を着るか迷った挙句、日中には過ごしやすくなるだろうと選んだ薄手のカーデガンを手の平まで伸ばした雅尚は、今朝方自分の体の上で大暴れした唯の手を握り直した。

 今月から赴任した学校にも少し慣れてきて、出勤時間もようやく定まってきたところだった。

 だが今日から今週いっぱい、毎朝行われる職員会議を取り仕切る進行役の当番に、自分が選ばれてしまった。その準備の為、少々早く家を出なくてはならなくなったのだ。

 雅尚は、今朝のワイドショーでお天気お姉さんが「都内は例年より肌寒く――」と、一生懸命訴えていたのを思い出した。

(どうして全国放送で都内の気候を伝えるのだろう。全国民のほとんどが興味無いと思うが――)

 雅尚は唯を肩車すると、まだ人通りが少ない早朝の川沿いの歩道を、ゆっくりと歩いた。

 割とゆったりとした幅の歩道で、もしも川に沿って桜でも咲き誇ろうものなら、ちょっとした観光スポットになるだろう。

 もっとも何の変哲もない道だからこそ、地元民にとって静かな散歩道に成り得るとも言えるのだが。

 この4月から通いだした唯の幼稚園は、雅尚が乗るバス停までの道程の途中にあり、マンションを選ぶ際、決定打の一つになった。

 ほんの十分弱の道程ではあるが、こうやってのんびりと娘を送ることができる毎朝に、雅尚は幸福を感じていた。

 肩車されてご機嫌な唯が、不意に言った。

「パパ、こんなところにほくろがあるよ!」

「どこ?」

「耳の後ろ!」

「耳?どっちの?」

 唯が「こっち」と、雅尚の左耳を強く引っ張ると「いててて……」と雅尚が呻いた。

「へー、知らなかったな。そんな所にほくろがあるなんて――きっとママも知らないぞ」

「ママも知らないの?」

「パパと唯しか知らないぞ。二人だけの秘密にしよう」

「パパと唯の?やった!絶対ママには内緒だよ」

 雅尚は、満面の笑顔の愛娘と指切りげんまんしながら微笑んだ。

 ささやかではあるが、こんな幸せな日々がこれからも続くのだろう――と。


                 * 

 

 いつもより早い時間に唯を幼稚園に送り届け、雅尚が学校に到着した頃には、時刻は既に七時半を過ぎようとしていた。

 雅尚が勤める都立南高等学校は、一クラス四十五人、各学年普通科十クラスの他に、体育科や看護科も併設された、総生徒数千七百人弱の高校である。

 一応都内ではあるが、郊外であるが故か割とゆったりとした雰囲気の学校で、特に問題を起こす生徒もおらず、雅尚は気に入っていた。

 ただ、自分が受け持つ生徒の中に、クラスになじめない様子の女生徒が一人いるのが気になるが、そんなことはどこにでもある話だ。

 体育科がありながら、一応公立の進学校ということもあり運動部の朝練などは許されておらず、この時間に登校している生徒はほとんど見られない。

 一方、職員会議が毎朝七時五十分から行われる為、教職員はちらほらと姿を見せていた。

 雅尚は急ぎ足で校門をくぐった。すぐ目の前には、程んどの学校と呼ばれる施設が同様であろう、職員室がある三階建ての管理棟がそびえ立っている。

 雅尚は管理棟の扉をくぐり、職員専用の下下駄箱から室内履きを取り出すと、いそいそと履き替えた。

 そのまま目の前の職員室には直行せず、二階にある準備室と銘打った倉庫に向かう。職員会議で使うホワイトボード等が保管されているからだ。

 雅尚は、廊下の最奥にある階段まで小走りで向かった。

 エレベーターもあるにはあるが、すぐその横に階段がある為、二階程度なら階段の方が早い。

 エレベーターも素通りし、二階までの階段を、一段飛ばしで軽やかに登り切った時だった。

「鈴木先生」

 頭上から声をかけられて、雅尚は驚いて振り返った。こんな時間に、二階より上に人がいるなどとは思ってもいなかったからだ。

 三階には校長室や会議室、めったに使わない備品や貴重品を納める倉庫があるだけだし、校長にしたってこの時間はまだ来ていないはずだ。

 二階と三階の間の踊り場を見上げて、雅尚はさらに驚きの表情を浮かべた。

「中ノ瀬――」

 そこに笑みを浮かべて立っていたのは、中ノ瀬康雄という、まだ少年と言ってもいい若者だった。

 中ノ瀬康雄は、雅尚が以前勤務していた高校で受け持った三年生のクラスの生徒だった。

 雅尚はとっさに考えた。

(こいつを受け持ったのは確か二年前だったか。いや待てよ、三年前かな――)

 中ノ瀬康雄は影の薄い生徒だった。かろうじて雅尚が名前を覚えていられたのは、卒業してそれほど年数が経っていなかったからだろう。

 身長は百七十センチ位、体重は六十五キロ程度か。高くも低くもなく、太っても痩せてもいない体型だ。

 決してハンサムではないが、見ていられないといった容姿でもない。普通にお洒落をして、普通に周囲とコミュニケーションをとれていれば、それなりに充実した学生生活を送れたはずだったろう。

 だが実際には、中ノ瀬康雄が他の生徒と話をしているところを見た記憶も、雅尚自身彼と話した記憶も、ほとんど無いに等しかった。

 大抵そういった生徒は、ある種異様な雰囲気や言動が理由で、周囲から気味悪がられたり、怖がられて孤立する。ある意味では強烈な印象を残す為、かえって記憶に残るものだ。

 だが、中ノ瀬康雄は違う。雅尚の印象にも記憶にも、全く残っていなかった。

特別成績が優秀なわけでも、授業をさぼったりするわけでもなかったろう。それならば、良くも悪くも記憶に残っているはずだ。

 そう、まるで空気のような存在。そこにあるはずなのに見えない。それが雅尚の、中ノ瀬康雄に対する印象だった。

(今は何をしているのだろう?進路相談にも乗ったはずだ。進学か?就職か?全く覚えていない。そんな生徒が、今目の前にいる。わざわざ自分を訪ねてきたのだろう。転任先まで?いや、自分で言うのもなんだが、そこまで慕われていたとは思えない。しかも笑っている。満面の笑みで――)

 雅尚はそんなことを考えながら、自分が少し恐怖すら感じていることに気付いていた。

「どうしたんだ?こんな所まで」

 一瞬のうちに脳裏によぎる様々な考えをまとめる時間を稼ぐために、雅尚は少し顔を引き攣らせながら、努めて明るい声を出した。

「やあ、うれしいなあ。僕の名前を覚えていただけていたなんて」

 中ノ瀬康雄は、笑顔を崩すことなく答えた。

「当たり前じゃないか、自分の教え子を――」

「じゃあ、僕の進路も覚えてますよね?」

雅尚の言葉を遮って、中ノ瀬康雄は笑顔のまま早口でまくしたてた。

 雅尚は「しまった」と思った。

(もう少し慎重に返事すべきだった。こいつはどう見ても、恩師を慕って訪ねて来たようには見えない。目的はわからんが、あまり神経を逆なでしないほうがいい)

「すまん、正直進路までは覚えていない。こっちは毎年何十人と見送っているんだよ」

 雅尚は開き直ってはっきりと言った。ごまかしても意味は無いと考えたからだ。

「そうでしょうね」

 中ノ瀬康雄は静かな調子で続けた。

「でも僕は覚えている」

 雅尚は「そりゃそうだろう」と思ったが口には出さなかった。

「僕が進路相談のとき、希望の大学を伝えたら先生は何と仰ったか覚えてますか?」

 雅尚は「だから覚えていないと言っているだろう」と言いたいのを抑え、首を振った。

 中ノ瀬康雄は少し深呼吸をしたように見えた。

「人の人生をめちゃくちゃにしておいて、覚えていないのか――」

 そう呟いた後、中ノ瀬康雄はカッと目を見開いた。

「あんたは『もうワンランク上の大学を目指してみないか』そう言ったんだ!」

 突然大きな声を出した中ノ瀬康雄の顔からは血の気が失せ、笑みが消えていた。

 一方で、雅尚には困惑の表情が広がった。

(え?何だって――確かに言ったかもしれんが、それがどうしたってんだ?そんなに変なことを言ったか?正直そんなことは誰にでも言うし、決めるのは生徒自身だ。言ったとしたって、元々の志望校やすべり止めだって受験したんじゃないのか)

「意味が分からない、ていう顔ですね。じゃあ、教えてあげますよ」

 言葉が出てこない雅尚を真っ直ぐに見つめながら、中ノ瀬康雄は無表情で続けた。

「いいですか、僕は家庭が裕福じゃなかった。母子家庭で、はっきり言えば貧乏だった。元々大学に行くのだって厳しかったんだ。だから受験も公立の志望校一校に絞っていた。入試を受けるのだってただじゃない。何校も受けるような、ましてやすべり止めの私立に通うような余裕は無かったからね。そんな事情も僕はあなたに伝えていた。そのうえでくれたアドバイスだったから、僕は従ってみようと思ったんだ」

 中ノ瀬康雄の話を聞きながらも、雅尚は必死に思い返していた。

(全く記憶に無い。進路相談の時に伝えてくれていたなら絶対に資料に残っていたはずだから、そんなアドバイスはしなかっただろう。ということは何かの会話の拍子に言われたのかもしれない。それを忘れてしまい、もう一つくらい受けてみろ、と杓子定規のアドバイスをしてしまった可能性はある。可能性はあるが、しかし――)

「大学は行きたかった。高校と違って自主性が重んじられるからね。僕のような人間でも周囲を気にすること無く生活できる。四年あれば就職する為の社会性も身に付くはずだ」

 雅尚は「それは違う」と思った。

(自主性があろうがなかろうが、高校までは基本的に学校側が、すべての生徒が卒業できるよう生徒一人一人の世話をしてくれる。対して大学は、自分に必要な授業の選択や時間割をすべて自分で調べて決め、必要単位を取得しなくてはいけない。誰も助けてくれないし、誰も心配してくれない。すぐに友人をたくさん作っておかなければ、教室の変更や突然の休講など、必要な情報をすべて自分一人で入手しなければいけない。それは思いのほか大変なことだ。大学に入ってから社会性を身に付けているようでは遅いのだ。そういう俺自身、実は子供の頃から極度の人見知りでなかなか友人ができず、大学を卒業するのも苦労したものだ。年上や年配の人間には甘えることができるが、同世代の人間と打ち解けるのは本当に苦労した。美佳のような人懐っこい女性と知り合えたのはラッキーだった。だから社会人になってからは、努めて明るく振舞い、人付き合いには細心の注意を払っている――だが今は、奴を否定するべきではない)

 雅尚は瞬時にそう考えながら、黙って中ノ瀬康雄の話を聞いていた。

「あなたが薦めた大学に僕は落ちた。浪人などできるはずがない僕は、急遽就職活動を始める羽目になった。時期的にもずれていたからろくな就職口もないうえ、書類選考に通ってもこんな僕が面接など受かるはずがない。何十社と落ちた後、やっと自動車部品を作る小さな小さな町工場に拾ってもらった。面接どうのよりも、人手が足りないから誰でもいいといった会社だったよ」

(採用理由などどうでもいいではないか。自分は何者でもないくせに、その中途半端なプライドの高さが今日の君を作ったのだろう――)

「だけど技術もコミュニケーション能力も無い僕は、働き始めてもうまくいかなかった。僕のような人間は、少ない従業員の中だとより際立つ。周囲に溶け込めず、仕事もまともに教えてもらえなかったおかげで、僕は一か月と持たず辞める羽目になった」

(仕事を教えてもらえなかった?そんなはずがない。人手が足りない会社だったんだろう?雇ったほうだって仕事をこなしてもらいたいに決まっている。能力的な問題か、もしくは分からないことがあっても、自分から確認しないなどのコミュニケーション不足か。おそらく後者だろう――)

 雅尚は本音をさらして諭してやった方がいいか、それとも謝った方がいいのか迷っていた。

(教師と教え子なら当然諭してやるべきだろうが、しかし――)

「それからうちはめちゃくちゃになったよ。僕は精神的に外に出られなくなり、働くこともできなくなった。母もそれまでの無理がたたって体を壊してしまい、ついには親子で生活保護さ。こちらの事情も知らないくせに、世間は生活保護受給者に冷たい。働きもしないで税金からお金をもらって、てね。外出が怖い僕が、無理して母を病院へ連れて行くたびに、二人で身のすくむような思いをしたよ」

 雅尚は気の毒には思ったが、何と声をかけていいか判らなかった。

「ふと、どうして自分がこんな境遇になってしまったか考えたとき、あなたを思い出した。そういえばそうだ。あなたの無責任で、建前だけの、杓子定規の一言で僕の人生は転がり落ちていった」

(違う、元々はすべてお前が悪い。それまでの人生の様々な岐路で、お前はすべて間違った選択をしていたに違いない。人付き合いができないのもそのせいだ。俺自身そんな時期があったからよくわかる)

 雅尚はそう言いたかったが、中ノ瀬康雄にそれが伝わるとは到底思えなかった。

「俺はどうしたらいい」

 雅尚は素直に尋ねた。

「先生を殺そうか、とも思いましたが僕はそこまで狂っていない。母には感謝しているし、愛情もあるから、これ以上迷惑は掛けられない。だから――一発殴らせてくれませんか」

 雅尚は、殺すというワードが出たときにヒヤリとしたものの「正直言って殴られて済むのなら」と考えた。

(考え方は間違っているが、こいつは確かにそこまで狂ってはいないようだ――)

「――わかった」

 中ノ瀬康雄は既に、雅尚が手を伸ばせば届く距離まで迫って来ていた。

(難儀な仕事だぜ、全く。俺が何したってんだ)

 階段を上りきったところで話を聞いていた雅尚が、殴られる為に廊下まで歩を進めようとした、その時だった。

「これでもくらえ!」

 中ノ瀬康雄の渾身の右ストレートが、雅尚の眉間にヒットした。

(おい、ちょっと待てよ!全く効かないが、このタイミングで殴られたら――)

 乾いたペチッ、という音とともに、雅尚は大きくバランスを崩し、薄暗い階段を転がり落ちていった……。

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