第4話

 菱川達也はもう七回目になるあくびを噛みながら椅子に座ったまま伸びをした。昨夜どこでログアウトしたのか覚えていなかったけれど、朝は自分のベッドで目覚めた。仮想世界メタバースで新開発のBESPを試して、効果が制御できなくなってフラフラになったところまでは覚えていた。起きてからも眠気が残っていて、菱川は自宅でリモートワークをしながら睡魔と闘っていた。ほとんど聞いているだけで良い会議にリモートで参加していると眠りそうになるのだ。聞いているだけで良いとはいえ聞いてはいなければならず、聞き漏らすと後で面倒なことになる。おちおち寝てもいられない。実際に会議室にいれば寝たらまずいという緊張感もあって必死に耐えるのだが、こと自宅からのリモート参加だとなんなら居眠りしても別に咎められるわけではないので油断しがちだ。咎められずとも聞いていなければあとで困るのは自分で、そのせいで何か失敗をしでかせばその後始末は自分でせねばならない。これも自己責任と言えた。リモートワークスタイルは多くのストレスから菱川を解放したが、同時にこれまでなかった別の種類のストレスをもたらしてもいた。


 菱川はソフトウェアエンジニアで、巨大なプラットフォーム上で動くプラグインソフトウェアのようなものの開発を下請けする小さな会社に所属していた。受注したものを指示通りの仕様で納品するのが仕事であり、それがどんなふうに使われてどのように役立つのかといったことはどうでも良かった。菱川は若い頃、多くの分野の技術革新においてプログラムの果たす役割の大きさを感じ、ソフトウェアエンジニアリングには世界を変える希望があると思ってこの仕事に就いたはずだった。でも実際には想像した以上にあらゆるところでソフトウェアは動いていて、世界を変えるような希望に満ちた領域は遠いものだった。大きなプログラムの一部分だけを作る末端エンジニアからは全貌は見えず、当初持っていたはずの夢みたいなものはいつしか色褪せていった。今の菱川は日々の仕事をただ粛々とこなし、退勤したら仮想世界に飛び込んで余暇を楽しむという毎日を送っていた。今となってはその状態を憂うこともなく、若い頃に感じた閉塞感や不満も感じなくなっていた。菱川は虚しい理想さえ持たなければ自分の人生はそう悪いものでもないと思っていた。


 終業時間が来ると菱川はきわめていい加減な夕食を用意してすぐになんらかの仮想世界へと旅立つのが通例だった。仮想世界はいくつもあり、巨大な世界の中にいくつものコミュニティが存在しているようなものから、オンラインゲームのように世界自体がある目的に特化して閉じているもの、著名な誰かのオンラインサロン的なサークルなどまで規模も様々だった。菱川はニュースを見て世界情勢を知るのも、好みのコンテンツを享受するのもみんな仮想世界の中だった。すでに職種によっては仮想世界の中で仕事をしている人もいたが、菱川は外の世界で仕事をしながら仕事以外の大半の時間を仮想世界で過ごすというスタイルだった。そんな日々の中で次第に肉体を煩わしく思うようになっていた。肉体には生理現象がある。維持するためには物を食べる必要があり、食べれば排泄の必要も生じる。さらに機能を正常に維持するにはそれなりに運動もせねばならず、運動量が減りすぎると各所に支障が出る。肉体を放っておいても正常に維持してくれるような仕組みが開発されれば人類は次の段階へ進化できるはずだと、菱川は常々考えていた。しかし菱川自身はそういった技術や知識からは遠いところにおり、ただただ他人任せで技術革新を待っているだけだ。世間や社会を憂いたり現況に異を唱えたり問題を指摘したり、そういうことをしたがる人は菱川も含め大勢いるけれど、実際にそれを改善すべく具体的に行動を起こせるのは数パーセントにも満たないごくわずかな人々だけだった。世界はほんのわずかな世界を駆動できる人々と、そこに乗ったままただ流れていく人に大きく二極化している。デジタル技術の発展がその格差をさらに拡大し続けていた。菱川はその事実に気付いている自分はいくらかマシだと思っていたが、実際のところその程度の差異は無いに等しく、ただ引きずられていく側であるという事態は避けがたいものだった。


 菱川は仮想世界へ入る準備を整えたうえで夕食を調達するために外出することにした。歩いて行けるところに日用品のほとんどすべてが揃うようなスーパーマーケットがあり、外出と言えばほとんどそこへ行くだけだった。部屋着に上着を羽織っただけの服装でサンダルを履いて自宅のアパートを出る。すり減ったサンダルの底が頼りなくアスファルトにしがみつき、空へと熱を逃がした宵の口の涼風が頬を撫でるのを感じながら歩く。通い慣れたスーパーマーケットへの道だ。生きた肉体の煩わしさを感じながらも、必要なものを買いに行くこの行為は菱川にとってただ面倒なだけでもなかった。


 住宅街を歩いていると視界に広告が表示された。菱川は目を見張って足を止めた。視界の隅に表示されたのは住宅街の中にある自家製パンの店の広告だった。菱川は両手を顔にやって指で顔全体を撫でまわした。買い出しのために家を出てきた菱川は、当然ながら仮想世界へアクセスするデバイスは身に着けていなかった。菱川は視界に浮かぶ広告に手を触れようとした。確かに見えているはずの広告には触れることができなかった。背中に汗が滲み出るのを感じた。何度か目を閉じたり開いたりして辺りを見回した。広告は無くなり、見慣れた住宅街が目に映った。菱川は再び住宅街を歩き始め、入ったことのない路地へと入ってみた。個人のピアノ教室の広告や美容院の広告などが視界の隅に表示されては消えた。路地を闇雲に進み、曲がり角を無作為に曲がって進むと、円筒型のポストと「たばこ」の看板が目に入った。

「うそだろ」

 菱川はわずかに声に出して呟き、周囲を見回した。見覚えのない場所ではあったけれど家を出てから地続きで歩いてきており、自宅の近所であることは間違いないと思えた。ほとんど無意識に足が動き、菱川はいくつか路地を曲がりながら住宅街の中を進んだ。視界の隅に、見覚えのある鍼灸院の広告が表示された。菱川は体温が下がっていくのを感じた。立ち止まって顔を撫でまわした上で、鍼灸院の広告を注視した。広告が展開して地図が表示された。菱川は自分の鼓動が鼓膜の奥で鳴るのを感じながら小走りに駆け出した。地図に示された場所へ行くと古ぼけたアパートがあった。「まさか」と言いながら菱川は目的の扉を目指した。


 部屋番号102の扉は薄い合板のようで錆びたドアスコープが埋め込まれていた。ドアポケットがあったと思われる付近は板が釘で打ち付けられてふさがれている。その代わりなのかドアの脇にブリキの郵便受けが貼り付いていた。これもあちこちへこんで傷が付き、傷の部分から錆びが癌細胞のように増殖しつつあった。差し入れ口のすぐ下に、釘のような先のとがったもので意図的に刻まれたと思しき文字がある。菱川はその文字を親指で撫でながら読んだ。


aivotアイヴォット

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