第3話

「ね、ミルヤ。まったく新しいBESPが開発されてるって話、知ってる?」

 サイミがステージのヴェッシを見上げたまま言った。

「え? なにそれ。聞いたことないけど」

「新しい快楽を求め続けるミルヤでも知らないか」

「もったいぶってないで教えてよ。それは今に違法になるのとは違うBESPなの?」

 ミルヤはサイミの横顔に向かって言った。

「そうみたい。なんでもまったく新しい体験なんだって。BESPの技術を応用して作られたもので、脳内物質の分泌じゃなくて脳が受け取る感覚そのものを変化させるって話。まだ試作段階らしいけど」

「へえ。そう聞くとある意味ヴェルカーみたいなBESPよりもヤバいように聞こえるけど」

「どうだろ。でも快楽物質がどうこうなるわけじゃないから習慣性は薄いんじゃないかな」

「でも麻薬じゃなくたってさ、ジャンクフードにだってある意味習慣性はあるよ。心地よい体験にはたいてい習慣性はあるんじゃないかな」

「まぁそういう見方もあるかもね。習慣性のリスクも含めて、ミルヤはそういう新しい体験があるって言われたら興味ある?」

「そりゃ、わたしは合法的に心地よくなれるならなんにだって興味はあるよ」

「心地よいかどうかはわからないけどさ。でも未知の体験だって。そういうさ、どういうものかわからないけど新しい感覚、これまでにない感覚、って言われたらミルヤは試す?」

「どうだろうな。その時の気分によるかも。でも興味はあるね。試すような気がするなあ」

「言っちゃえばそれって治験みたいなもんだよ。それでもやる?」

「治験ってあれでしょ。新しい薬の承認をとるためにやる臨床試験みたいなやつ。そのぐらいぜんぜん気にならないよ。なにせ違法すれすれのBESPやってるぐらいですからね、わたしは」

 ミルヤは口を尖らせながら言った。

「そうだった。じゃミルヤは適格者だね」

「適格者?」

「治験にふさわしいってこと。いや実は、そういう人を探してくれって頼まれててさ」

「え? サイミちゃんが? なんで? サイミちゃん何者?」

「あたいは何者でもないよ。ただ人づてにそういう話がまわってきただけ」

 ミルヤはサイミの顔を見つめた。黒猫は耳を揺らしながらいたずらな目でミルヤを見返した。

「サイミちゃん、なんか企んでるね」

「なにも企んでなんかないよ。ただ新しい刺激に貪欲なミルヤには興味ある」

 ミルヤはサイミの顔を見つめたままフフフと笑った。サイミは左手の指を丸め、その上に右手をかざしてゆるゆると動かした。サイミの左手に握られたグラスが少しずつ姿を現す。

「すごい。どうやってるの?」

 ミルヤは声を上げた。サイミは指揮者のように右手をリズミカルに動かす。左手のグラスは次々に色を変えながら光を放った。グラスが完全に姿を現すとサイミは右手のリズムをゆったりしたものに変え、撫でるように回転させた。グラスはヴェッシの髪のようなオレンジ色に固定され、同じ色の液体が満たされた。

「はい」

 サイミは出来上がったグラスをミルヤに差し出した。ミルヤは受け取りながら「どうやったの?」と聞いたが、サイミは微笑むばかりではぐらかした。

「パエタ」

「これ、もしかしてサイミちゃんが作ったの?」

「そうかもしれないし、違うかもしれない」

 ミルヤはサイミの目を見つめた。

「ね、これなんでサイミちゃん自分で試さないの?」

「これある程度今までのBESPをやってる人が対象なんだよね。そういう意味であたいは適格者じゃないわけ」

 ミルヤはグラスとサイミの顔を見比べた。サイミは肉球のような右手を広げてミルヤを促した。

「パエタ、パエタね」

 その名を繰り返しながらミルヤはグラスを口元へ運んだ。特に味覚は刺激されず、ヴェルカーのように温度も感じられなかった。パエタはミルヤになんの変化ももたらさなかった。

「なに、これ。まるっきり味もなにもないけど」

「まだ試作品だからね。いろいろ完全ではないかも」

 と言ってサイミが空になったグラスを覗き込んでからミルヤの顔を見上げた。ミルヤがその顔を見ていると、聴覚を支配する音楽のビートとヴェルカーの酩酊が脈打ちながら戻ってきた。

「ヴェルカーの効果が戻ってきたよ。音楽も。会話モード解除されたかな。もしかしてパエタ効果?」

「そうかもしれないし、違うかもしれない」

 目の前に見えているサイミの声がミルヤにはどこか遠くの方から聞こえてくるように感じられた。

「ごめん。ちょっと会話状態に戻れないみたい」

「いいよ。新体験?」

「感覚自体はただのヴェルカーだよ。ただ制御できないだけ。迷惑な効果なんじゃない? これ」

 ミルヤは目の焦点も定まらなくなってきた。サイミが何か言っているようだったけれどもはやミルヤにはその音声を識別することはできなかった。

「ごめん。寝落ちコースだわこれ」

 サイミに伝えるべきことを声にしたつもりだったが、それがうまくいったのかどうかはわからなかった。ミルヤはなんとか自分のステータスを離席状態に切り替えた。ミルヤの身体は動きを止め、意識は快楽の雲に包まれていった。

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