第2話

「ヘイ、ミルヤ」

 ミルヤが酩酊とも少し違う心地よさに身を任せてフロアを彷徨っていると猫のような耳と尻尾のあるサイミが声をかけてきた。サイミの姿はコスチュームプレイのようだがそうではなく、身体そのものが猫人間的な造形になっているのだった。ミルヤは足を止めて黒猫マスコットみたいなサイミを上から下まで眺めた。立ち止まると同時に再び音楽が遠ざかり、サイミの声がはっきり聞こえるようになった。ミルヤを包み込んでいた陶酔状態もいくらか薄まって意識がはっきりした。会話に注力しようとすると他の要素よりも会話が優先されて感覚の受領状態が調整される。それを便利な時代になったものだと思う程度には、ミルヤは年齢を重ねていた。

「ああサイミちゃん。今日は来ると思ってたよ」

「まあね。推しが回すからね」と言ってサイミはステージの方へ目くばせした。

「ミルヤは毎日来るの?」

「ほぼね。他に行くところないし」

「ま、そうなってくよね、ってもしかしてもうキマっちゃってる?」

 サイミはミルヤの顔を覗き込みながら言った。

「ちょっと酔ってるだけだよ」

 そう言いながらミルヤは焦点の定まらない目でサイミを見た。

「なに入れたのよ?」

「ヴェルカー」

 サイミは肉球のある両の掌を見せて天を仰ぎ、呆れている様をポーズで表現して見せた。

「ほどほどにしとかないと溜まって消化できなくなるよ、ヴェルカーは」

 そう言ってサイミは頭の横で右手をクルクルとまわした。

「大丈夫だよ、翌日には抜けてるから。サイミちゃんもやったらいいのに」

「遠慮しとくよ。ヴェルカーはヤバいから」

 サイミは記号的な表情で舌を出した。

「ヤバくないよ。合法だし」

「合法じゃなくて今のところ違法じゃないだけだからね。法律が間に合ってないだけよ。今に禁止されるからね、BESP脳電気刺激プログラムなんてほとんど。フーメ麻薬とはよく言ったもんだわほんと」

「そんなんじゃないんだけどな」

「ミルヤもほんと、ほどほどにしときなよ。少なくともヴェルカーは脳に悪影響があるとかいうことが判明して違法になるからさ」

「なるかな」

「なるよ。きっとなる。この世界は想像を超えて進歩しすぎちゃってるから法律なんていうめんどくさいものが導入される頃にはとっくに手遅れよ。今のところ合法なのはそれを裁く法律がないだけだから。違法じゃないから安全なんてことはぜんっぜんないから。ね」

「でもそうだとしたらさ、合法なうちに楽しんでおいたほうがいいってことにもなるよね」

 ミルヤが言うとサイミはまた両手を広げて見せた。

「まったくミルヤはあたいの話のなにを聞いてたんだろね。ほんと、新しい刺激を求めてやまないのは人のさがってものなのかね」

「技術はどんどん進歩する。得られる快楽もどんどん進化する」

 ミルヤはそう言って頷いた。

「そして法律は追いつかないからこの世界はどんどん無法地帯になる」

 サイミは腕組みをしながら言った。

「そこは自由、って言おうよ」

「ま、そう言えなくもないけどね。責任の所在が曖昧な自由だよ」

「自由なんて結局自己責任でしょ。自分のツケは自分で払うってことだと思うよ」

「問題はそのツケは本当に自分だけで払えるのかっていうところよ。仮にミルヤがフーメのやりすぎで廃人になったとして、そのあとどうする? 自分だけじゃ後始末できないでしょ。ここにあるのはそういうことを考えてない自由なんだよ」

 サイミは言いながら両腕を広げてフロアを示して見せた。

「そういうことってわたしたちが考えないといけないことなのかな」

「考えてなくても何か起こったらツケは払わされることになるよ。片方に責任を取らずに済む方法を考えながら場を作る人がいて、もう片方に責任のことなんてなにも考えずにそれを享受しに来る人がいる。ツケを払うことになるのは享受してる側だよ」

「まあ、そうだろうね。それが自己責任ってことでしょ」

「問題はここに集まってる人のほとんどは、そんなこと考えもしないってことだよ。気付いたときには遅すぎる」

「そうかもね」と言ってミルヤもフロアを見回した。そういったことが分かった上で楽しんでいる自分はやはり幾分マシだという気がした。たいした差異ではないにしろ、わずかでもこの連中よりマシだと思うことはささやかな自尊心を満たした。

「ところでさ、なんでサイミちゃんはフーメやらないのにアイヴォット会員なの? アイヴォットって表向き会員向けクローズドのクラブだけど、実態はフーメ版の阿片窟みたいなものでしょ。サイミちゃんは阿片吸わないのに阿片窟に出入りしてるようなもんじゃない?」

 ミルヤが言うとサイミは頭の猫の耳を揺らしながら笑った。

「だってヴェッシが阿片窟でDJやるんだもの。阿片に用がなくても推しに用があるんだよあたいは」

「へえ」と言いながらミルヤはステージで演奏しているDJヴェッシを見上げた。鮮やかなオレンジ色の髪は左半分が短く刈り上げられ、反対側の半分はある程度長さがあるという極端な左右非対称アシンメトリーの形に整えられている。この鮮やかな髪のせいもあってか、顔色は青白く見えた。ヴェッシはその青白い顔にたいした表情も浮かべず、不愛想な様子で演奏を続けていた。

「ね、もともとフーメを発明したのってアイヴォットのオーナーなんでしょ?」

 しばらくDJを見つめたあと、ミルヤが訊ねた。

「フーメというかBESPベスプをね。仮想世界を体験するデバイスのフィードバックを使って脳内物質の分泌を操作するプログラム。いわば脳内麻薬の分泌を自在に操る技術だね。もともとアイヴォットはそのBESPを供給するための地下クラブみたいなものだよ。一部では裏バースって呼ばれてる」

 サイミは物知り顔で深く頷いて見せた。

「脳内物質なんだからもともと人に備わったものでしょ。あまり問題があるとは思えないんだけどな」

「おっとっと。普通の麻薬だって外的な刺激で脳に変異をもたらすって意味では同じだよ。BESPにはまだわからないことが多いし。それにミルヤもそうだけど、人は快感には慣れてしまって、結局同じ刺激では飽き足らなくなるでしょ。それでどんどんエスカレートして、やがて廃人になるんだよ。しかも悪いことに、麻薬にはもともと希少性があるけどBESPはプログラムだからいくらでもコピーして供給できる」

「でもそれなのに、アイヴォットは非公開の会員制クラブだし、高い会費を取るわけでもない。オーナーはぜんぜん出てこないし名前もわからない。名声も金も欲しがってる感じじゃないよね。大儲けしようと思えばできるはずなのにしてない。なんでかな」

「そりゃ大っぴらにやればすぐに問題視されて違法になるって分かってるのかもしれないし、もっと言えばこれがもたらす悪影響についてもわかってるのかもね。麻薬の売人だって大っぴらに名乗りを上げて大儲けしようとはしないでしょ。責任取りたくないってことじゃないかな。まあ本当のところはまったくわからないけどね。天才の考えることはあたいなんかには想像もできないよ」

 サイミはそう言うとステージを見上げた。ミルヤもその視線を追ってステージで演奏するDJヴェッシの姿を見つめた。

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