アイヴォット
涼雨 零音
第1話
日の落ちたセントラルパークにはまだ多くの人がいた。ジャグリングを披露するパフォーマーや歌っているシンガーのところに人だかりができている。視界にはひっきりなしに広告が舞い込み、ときおり客引きが声をかけてきたりもする。それをゆらりふわりとかわしながらミルヤは喧噪を逃れ、寂れた路地へと入っていった。先進的な街並みから一転、都市再開発前の雑然とした裏路地が現れる。細い通りには古びた民家が並び、そのどれもが背の高いコンクリートブロックの壁に隠れている。さらに細い路地へ入ると露店が軒を連ねて裸電球で商いをしているが人の気配はなかった。ミルヤは路地を一つ入るごとに時代を遡っているような感覚を覚えた。円筒型のポストのある角に「たばこ」と書かれた看板を掲げた店がある。窓も扉も閉ざされて板を打ち付けてあり、ここにも人の気配はなかった。精巧なジオラマの中に迷い込んだようだった。足を進めると表示される広告の種類が変化する。路地の交点を何度か折れながら進み、都度表示される広告を目で撫でる。ミルヤは一見なにも特徴的なところのない鍼灸院の広告に目を留めた。視線を検知した広告が展開し、眼前に地図が表示される。入り組んだ路地を進んだ先で青い点が明滅している。ミルヤは点の位置と表示された住所の末尾を確認してから地図を閉じ、再び路地を進んだ。細い路地を二つ折れた先に古い二階建てのアパートがあった。建物の外壁に貼り付いた金属製の階段はあちこち錆びて穴があいていた。通路では置き去りにされた洗濯機が限りなく永遠に近い時間を呼吸している。ミルヤは鍼灸院の住所にあった部屋番号102の扉に向かって迷いなく進んだ。扉は薄い合板のようで錆びたドアスコープが埋め込まれている。ドアポケットがあったと思われる付近は板が釘で打ち付けられてふさがれていた。その代わりなのかドアの脇にブリキの郵便受けが貼り付いている。これもあちこちへこんで傷が付き、傷の部分から錆びが癌細胞のように増殖しつつあった。差し入れ口のすぐ下に、釘のような先のとがったもので意図的に刻まれたと思しき文字があった。ミルヤはその文字を親指で撫でながら読んだ。
「
ミルヤは一歩下がって扉を上から下まで眺め、古びたドアに比して異様なほど磨き上げられて光沢を放つ把手に手をかけた。それはなんらかの構造に繋がっていることさえ疑わしいほどなんの抵抗もなく回った。そのまま引くと扉はわざとらしい音で軋みながら開いた。扉の内側にはなにもなかった。文字通りの無でわずかな奥行きも感じられない闇だった。ミルヤは迷うこともなくその無に踏み込んだ。まったく見えないが確かに存在する地面に足が接地した。後ろ手に扉を締めると扉は軽い金属音を立てて締まり、それと同時に全身が大音響に責め立てられた。自然に歩調が導かれてしまうような低音の振動と耳から脳の中を跳ね回って反対の耳へ抜けていくような高音の細かいフレーズ。ビニールプールに満たされたカラーボールのような音の粒が空間にひしめき合っていた。音と呼応するように寒色系の光が跳ね回り、幾何学模様を描いてははじけ飛び、また集まっては模様を描き出す。明滅する光に照らし出されるいくつものシルエットが辺りを揺るがす
立ち止まったまま目が慣れるのを待って、ミルヤは辺りを見回した。すぐ背後にあるはずの入ってきた扉は無くなっていて、そこにも踊っている人たちがいた。空間の中に一段高い部分があり、その上には明滅するライトを浴びながらプレイするDJやVJの姿があった。ステージの下がバーカウンターのようになっていて、なんとなくそこが空間の中心のように見え、人々はそこを中心に円形に分布していた。空間自体には形状も境界もなく、壁も天井もない空中に直接映像が投影されている。映像によって空間は立方体にもドームにも四角錐にも円柱にも見えた。床だけは確かに存在していたが、床にも映像が投影されて宙に浮いているような感覚に晒されることもあった。ミルヤはステージでけだるい表情を浮かべてパフォーマンスするDJを見つめながらカウンターを目指して人々の間をすり抜けるように進んだ。
ステージは直径5メートルほどの
ミルヤがバーカウンターに身を寄せると辺りを満たしていた音楽が遠ざかり、カウンターの内側に光が集まってフリルのついたエプロンドレス姿のバーテンダーが現れた。
「いらっしゃいませ」と言って会釈したバーテンダーに、ミルヤは「ヴェルカー」と注文した。バーテンダーは「かしこまりました」と言って空中でゆるゆると両手を動かし始めた。カウンターに色を変化させながら光るグラスが少しずつ現れた。バーテンダーが猫の背を撫でるように空中で指を動かすと、変化していた色相が青緑で落ち着き、グラスには同じ色で光る液体が満ちた。
「おまたせいたしました」と言って頭を下げるとバーテンダーは霧散し、カウンターの上には交通信号の青みたいな色のグラスだけが淡く光を放ちながら残されていた。ミルヤはグラスを手に取って唇を寄せた。グラスを傾けるとひんやりとした感覚が広がったが、その感覚を受け取ったのがどの器官なのかははっきりしなかった。グラスの中身を飲み干すと音楽が戻ってきてビートによってもたらされる快感が数倍にもなったように感じられた。視界を飛び交う幾何学模様が距離感を喪失させ、青白い顔をしたDJがすぐそばで演奏しているように、ともするとそのプレイをしているのは自分であるかのようにさえ感じられた。ミルヤは脈動に身を任せながらカウンターを離れた。
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