第5話
菱川は体内の血液が全部凍っていくような感覚を覚えた。自分の体を見下ろすと、グレーのスウェットにウィンドブレーカーを羽織り、ゴム製のサンダルを履いていた。両手も肌荒れとあかぎれの目立つ見覚えのある手だった。その手で改めて顔を撫でまわす。デバイスはなにも身に着けておらず、顔自体にも異常は感じられなかった。それなのに菱川は菱川のまま、自宅を出て迷い込んだ住宅街の中でこんなところにあるはずのないアイヴォットのドアを前にしている。
「ありえない」
菱川は刻まれた文字を見ながらつぶやき、一歩下がって扉を上から下まで眺めた。合板にペンキを塗っただけみたいな扉は全体が色褪せた上にあちこち剥げており、錆びたドアスコープが埋まっている以外装飾などはなかった。ドアノブだけが異様に磨き上げられて鏡面的な光沢を放っている。近づいて覗き込むと円筒形のドアノブに菱川の顔が引き延ばされて歪んだ状態で写り込んだ。菱川は深く息をついて周りを見回した。アパートの敷地は通路までコンクリートが打ってあり、その外側はまばらに雑草の生えた土が露出していた。隣接する土地とはブロック塀で仕切られていて、その積まれたコンクリートブロックは雨滲みと苔に覆われて緩やかに土と共存していた。アパートにも近隣にも人の気配はなく、遠くに聞こえていたはずの自動車の音などもいつの間にか聞こえなくなっていた。
菱川はゆっくりとドアノブに手を近づけた。円筒形の局面に歪んだ掌が映り込み、菱川の掌と重なった。手に刻まれたしわの一つ一つが対面する鏡像と重なり合った。菱川は脳の表面を蟻が這いまわっているような感覚を覚えた。握り込んだドアノブをゆっくり捻ると、それはなんらかの構造に繋がっていることさえ疑わしいほどなんの抵抗もなく回った。菱川は息を整えてゆっくりと手前に引いた。扉がわざとらしい音で軋みながら開く。予想した通り、扉の内側にはなにもなかった。文字通りの無でわずかな奥行きも感じられない闇だった。菱川は躊躇したが、もはや扉を閉めて立ち去るという選択肢は考えられなかった。ゆっくりと足を踏み出し、扉の内側へと足を下ろした。足の先から闇に飲まれて行き、まったく見えないが確かに存在する地面に足が接地した。接地した足に体重をかけて地面の存在を確認し、菱川は大きく息を吐いた。そのまま扉の内側へ滑り込み、後ろ手に扉を締めた。扉は軽い金属音を立てて締まり、それと同時に全身が大音響に責め立てられた。
「ありえない」
菱川はもう一度同じ言葉をつぶやいて自分の体を見た。何度確認しても部屋着に上着を羽織っただけで買い物へ出たそのままの姿だった。そのまま仮想世界の中にあるはずのアイヴォットにいる。辺りを埋め尽くす音楽と光の演出。それを思い思いに楽しむ人々。菱川はその場でぐるりと回って周囲を確認した。案の定入ってきたはずの扉は無くなっていて、人々が適当な間隔を空けて体を揺らしていた。景色は見覚えのあるアイヴォットだったけれど、集まっている人々はアバターよりも生身の人間感があり、空気の埃っぽさなども感じられた。全体的にいわゆる仮想世界よりも情報量が多かった。菱川にはほとんど現実世界のように感じられたが、扉が消えたりフロアに境界がなく無限に広がっているように見えたりするのは現実とは思えなかった。見回すと少し離れたところに円形のステージが浮かんでいて、その上でDJやVJがプレイしているのが見えた。オレンジ色の左右非対称の髪型で青白い顔をしたDJはヴェッシにそっくりだったが、ヴェッシよりも幾分生身の人間感があった。
菱川は人の間を抜けてステージの下にあるバーカウンターへ近づいた。宙に浮いた円形のステージの下に、それより二回りほど大きな円周を描くようにカウンターがあった。その内周に沿うようにときおり青い光が走っている。それもこれも仮想世界のアイヴォットと同じように見えた。カウンターに近づくと内側に光が集まってフリルのついたエプロンドレスのバーテンダーが現れ、耳から入ってくる音が急に小さくなった。菱川は面食らってたじろいだ。
「いらっしゃいませ」と言ってバーテンダーは頭を下げた。バーテンダーの肌にはほくろひとつなく、異様なほど滑らかで人間離れしていた。でも一方でアバターほど情報量が少ないわけでもなく、空気を挟んでそこに実在している感覚はあった。
「こんにちは」
菱川が声もなくバーテンダーを見つめていると隣に背の高い女がやってきて声をかけた。女は菱川よりも背が高く、金髪で左右色の違う目をしていた。
「あなた、ここへ来るのは初めてね」
女はカウンターに体重を預けながら菱川の顔を覗き込んで言った。菱川は女を見上げて絶句した。
「わたしはミルヤ。あなたはタツヤ」
菱川は入ってくる情報を整理しきれずに混乱した。ミルヤは菱川達也が仮想世界で使用しているアバターだ。菱川はミルヤとしてアイヴォットの会員であった。それが今、菱川達也のままアイヴォットにやってきて、その菱川に他ならぬミルヤが声をかけてきている。
「ちょっと、待ってくれ。僕は確かに達也だ」
菱川は視線を落として頭を掻き散らしながら言った。
「そう。達也だ。スーパーに買い物に出たんだ。そうしたら広告が。それでここへ」
菱川はミルヤの顔を見上げた。
「きみは、ミルヤだ。ミルヤは僕のアバターだ。ということはミルヤは僕だ。きみは僕だ。いったいどうなってる?」
ミルヤは頷きながら聞き、菱川の言葉が途切れたのを確認して微笑んだ。
「わたしはタツヤのアバター。ということはわたしから見ればタツヤがわたしのアバター。でもわたしとタツヤはイコールではない。そうでしょう? タツヤはミルヤなの? 違うよね」
「いや、え? あれ。そういうことなの?」
「タツヤは自分のアバターを自分と同じものではなくて、自分の一部だと思ってる。わたしも含めて他の仮想世界やゲームの中にいるアバターやキャラクタも、どれもが自分の一部だと思ってる。なのになぜ、アバターにとってもタツヤは一部にすぎないと思わないの? わたしはタツヤのアバター。だとしたらタツヤはわたしのアバター。わたしはタツヤの一部。タツヤはわたしの一部。わたしとタツヤはそれぞれの一部を共有してるだけ」
菱川は混乱した。これまでアバターは自分だと思ってきたが、自分とアバターは同じなのかと言われたらそうではないと思っていた。菱川とアバターは等号で結ばれているのではなく、関係は非対称だと認識していた。ただ、その非対称性は菱川の中にアバターたちが包含されているという関係であって、自分の輪からアバターがはみ出しているという可能性については考えたこともなかった。
「そんな、ばかな。じゃきみは僕がログインしてないときのミルヤなの?」
「まあそんなところ」
ミルヤはそう言って微笑むと、さっきからカウンターの内側で二人を見比べながら待っているエプロンドレスのバーテンダーに向き直って「ヴェルカー、二つ」と言った。
「いや、僕は今なんのデバイスも付けてないよ。BESPはデバイスを通して脳に影響を及ぼすんだからデバイスがなければ作用しないでしょう」
「どうかしら。じゃあタツヤと繋がっていないときのわたしが使うと、どんなふうに作用するんでしょうね」
バーテンダーが両手をふわふわと動かすと、カウンターのなにもなかったところに下から青緑色に輝くグラスが現れた。菱川は両手で自分の顔を撫でくりまわした。
「もしかしてこれは現実じゃない?」
「それはタツヤがなにをもって現実という言葉を使っているかによるでしょうね」
「そりゃ、現実っていうのは仮想世界の外っていう意味だよ」
「アイヴォットはもともと仮想世界の中に作られた別の仮想世界よ。メタバースの中の裏バース。メタ・メタバースとも言えるかもね。だからアイヴォットを出てもそこはまだ仮想世界。じゃあその仮想世界を出ても、その外側も別の仮想世界っていうことはあり得るでしょう?」
菱川が言葉に詰まっているとバーテンダーが「おまたせいたしました」と言って青緑色のグラスを菱川とミルヤの前にそれぞれ差し出した。ミルヤはいつものように、いつも菱川がミルヤとしてアイヴォットに来ているときにするように、グラスの中身を一息に飲み干して目を閉じた。菱川はその横顔を見つめた。ミルヤがヴェルカーを飲み干す様子を見ていると自分の中にひんやりとした感覚が広がるような気がした。それが気のせいなのかいつもの感覚と同じなのかはよくわからなかった。菱川は目を閉じて自分が何を感じているのか確かめようとしてみたけれど、頭部のどこかからひんやりとした感覚が広がっていくような感覚が強まっただけで、結局それが普段アイヴォットでミルヤとして体験しているヴェルカーの効果と似ているということしかわからなかった。目を開くと自分の前にも同じヴェルカーのグラスがあった。菱川は思い切ってそのグラスに手をかけ、唇を寄せてゆっくりと中身を口へ流し込んだ。するとひんやりとした感覚ははっきりと口から感じられ、口の中に冷たい液体が入ってきたと感じた。甘酸っぱいような、どこか苦いような味も感じ、鼻へ抜けるような清涼感も感じた。口の中で一回しした後のみ込むと、液体が食道から胃へとおりていくのを感じた。確かに「飲んだ」という感覚があった。ミルヤとして飲んだ時には感じたことのない感覚だった。
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