第三章 ピッチャー交代
男はバッターサークルに到着すると、素振りを始めた。
マスコットバット2本を握りしめ、ゆっくりと、確実な軌道を意識して振っている。
一回、二回。
5回目の素振りを始めようとした時、相手チームのベンチから監督が出てきた。
「ピッチャー交代!」
大きな声の後は耳打ちするように、審判に告げている。
審判はマスク越しでも分かる、驚いた仕草でウグイス嬢がいるボックスに走った。
「ピ、ピッチャーの・・・
こ、交代を申し上げます・・・」
いつにない、うろたえた声に観客がざわめく。
それは、次のアナウンスで、一瞬、沈黙に変わるのだった。
「ピッチャー・・・小島に代わって・・・・
お、大谷・・・ピッチャー、大谷」
それは、何秒のことだったろうか。
一分、それ以上に感じた。
【えっ・・・えぇっー・・・?】
近所の大学生だろうか。
ジャージにサンダル履きの二人組は、素っ頓狂という表現がぴったりの声を出している。
他の観客達もざわめいていた。
いくら、秋季キャンプ前の二軍の練習試合とはいえ、プロの試合が無料で観れるということで、足を運んでいる。
しかも今日は、あの名物監督「新庄剛志」が采配しているのだから、猶更だ。
球場はロッテのホーム、マリンスタジアムで行っている。
だが、さすがに平日ともあって、何万人もの収容を誇る観客席は、閑散としていた。
しかし、ウグイス嬢のアナウンスに、各所から囁きが重なっている。
「ま、まさか、なぁ・・・」
「ジョーク、ジョークさ・・・」
お互いを納得させるように、話している。
「だいいち、ロッテ側だぜ。日本ハムじゃない」
声高に言う、一人の言葉に、みんなが頷いている。
その時だった。
ロッテ側ベンチの奥から、スリムなシルエットが姿を現した。
身長193㎝、体重93㎏。
大谷ファンなら、暗記している理想的な体形だ。
【おぉ・・・お・・・・
おおおおおおおぉー・・・・】
呻き声は、徐々にグラデーションを帯び、やがて、叫びに変わった。
「おおたに・・・・おお、大谷だぁっー・・・」
一人の叫びは二人に、そして、何百人と伝染していく。
凄まじい歓声が、まるで何万人もいるかと錯覚するほど、みんなが叫んでいた。
「まさか・・・まさかぁ・・・」
自称、「大谷の心の奴隷」と呼んでいるサンダル学生が涙をにじませている。
スーパースターが目の前にいる。
2021年のメジャーで。
打者として、打率.257、46本塁打、
100打点、26盗塁。
投手として、9勝2敗、防御率3.18、156奪三振。
まさに、二刀流。
世界で只一人の、スーパーヒーローなのだ。
軽いキャッチボールを始めた大谷に向かって、男は鋭い視線で睨んでいる。
それに気づいた大谷は、帽子をとりながら、ペコリと頭を下げた。
ふたたび上げた口元から、白い歯がこぼれた。
吉岡が大谷翔平と4年ぶりに再会した瞬間、であった。
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