04 Aiko

 カイエンの助手席は、心地良い。

 ただ静かなだけならベンツでもレキサスでもいいんだけど、静かな中に、どこか、生き物っぽい振動というか、躍動みたいなものを、ほんの少しだけど感じる。その微妙な野蛮さが、いい。

 最近の憂鬱さも気怠さも忘れさせてくれる、その僅かな震えに、なんだか身体が優しく火照ってくる感じがする。運転席にいる植草さんとセックスする時と同じ感じの、マイルドとワイルドがいい具合にミックスされた感覚。三人のパパの中では、あたしはやっぱり、植草さんが一番好き。

 「今日は何かちょっと、体調悪かったかな?」

 こう言う勘がいいところも、気遣いも、他のふたりのパパにはできない。

 「昨日ちょっと、友だちと朝まで騒ぎ過ぎちゃっただけ。ごめんね。せっかく植草さんと久しぶりに会ったのに」

 とはいえアタシは嘘をつく。植草さんとの関係は、アタシの中ではあくまで仕事。だからアタシは植草さんには甘えない。弱さは見せない。体調が悪い本当の理由を、打ち明けるなんてしない。

 いつも通り、明治通り沿いの花園神社の前に横付けしてもらうと、いつも通り、『お小遣い』を受けとる。あたしと植草さんにとって、これがスイッチ。それまでほんのり漂ってた、どこかちょっと甘ったるい雰囲気を絶ち切って、他人に戻る。助手席のドアを開けて、すっと素早く、カイエンから降りる。振り向かない。後ろ手にドアを閉める。するとすぐに、カイエンは再び走り出す。この一連が、社会人でいうところの、タイムカードを押すことと同じ儀式。仕事が終わった証。

 アタシはそのまま花園神社の脇を抜けて、ゴールデン街を横切り、歌舞伎町の広場へ向かう。今日は、モエに会えるだろうか。タクヤには? シンイチロウは、ちょっと複雑。

 タクヤに会いたいのは当たり前として、今はすごく、モエに会いたい。

 アタシが抱えるこのもやもやを、ぶつけたい。受け止めてほしい。きっとモエは、アタシの心を救ってくれるはずだから。

 妊娠検査薬で、陽性が出た。

 切羽詰まって産婦人科に行って、止めを刺すみたいに、妊娠が確定した。

 6週目。タイミングからして、タクヤはありえない。ほぼ間違いなく、相手はシンイチロウ。

 産婦人科では、堕ろすには原則パートナーの合意が必要と言われた。それが厳しいのであれば、親を連れてくるように、とも。でも、そんなの無理だ。アタシには本当の意味で、親なんていない。


 アタシが6歳の頃、アタシの本当の母親と父親が離婚した。8歳の時に本当の母親は二人目の父親と結婚して、すぐに死んだ。睡眠薬をいっぱい飲んで、たぶん、自殺。10歳の時に二人目の父親も再婚して、アタシは、家を追い出された。直接追い出されたというより、出ていくように、二人目の父親の再婚相手に仕向けられた。二人目の父親は金銭の援助はするし、親戚を紹介するとは言っていたけど、断った。結局みんな、他人じゃん。少しでも関わりのある二人目の父親以上に、期待できる絆なんてないじゃんか。

 めんどくさい。だから、家を出た。

 最初は行くあてなんかなかった。

 でも、唯一二人目の父親に甘えて維持されてたスマホの回線が、その向こうにあるSNSが、アタシの命綱になった。その命綱を手繰り寄せた先で、アタシは、この界隈に辿り着いた。

 仲間ができた。

 嬉しかった。

 救われた気がした。

 ひとりの時は、アタシはアタシの不幸から、目を背けることができなかった。

 押し付けられる現実を真正面から受け止めて、傷ついて、辛気くさくいじけることしかできなかった。それが、変わったんだ。

 同じような傷を持った同じ年代の仲間とはしゃいでいる間は、そんな傷なんて、見て見ないフリをすることができた。

 すごく、楽だった。

 本当の意味では、なんにも解決できてないなんて、誤魔化してるだけだなんて、わかってる。でもそんなの、望まない現実に、心がとどめを刺されるより、何万倍もマシ。


 モエに会いたくて、広場に行く前にあの映画館脇の路地を覗いた。

 モエの姿は無かった。けどそのかわり、なんだか揉めてるマーキュリーの連中とシンイチロウを見つけた。シンイチロウは嫌がってたけど、両脇を無理やり押さえ込まれ、どこかへ連れてかれそうになっていた。

 「ちょっとシンイチロウ、どうしたの?」

 声をかけるとシンイチロウはアタシの方を振り返った。怯えるような表情が、なんだか、アタシに縋るような表情に変わったように見えた。

 「アイコ、タクヤを呼ん・・・」

 そこまで言ったところで、シンイチロウはマーキュリーのヤツに顎を押さえられた。

 「騒ぐな。言い訳は後で全部聞いてやるから、おとなしくしとけ」

 そう凄まれて、黙りこんで、またシンイチロウの表情は、怯えたそれに戻る。そしてそのまま、引きずられるように連れていかれる。

 「ちょっと待ってよ・・・」

 呼び止めようとした時、後ろから肩を捕まれた。振り向くと、いつのまにかエルメスが背後に立っていた。

 「アイツのことは、俺らに任せるんだ」

 連れていかれるシンイチロウに視線を向けたまま、エルメスが言った。

 凄く、刺々しい目だった。どこかで見たことがあると思い返して、気付いた。二人目の父親の再婚相手。あの女がアタシを見る時の目と一緒だ。

 憎しみみたいな、ある意味ではマトモな感情なんかそこにはなくて、例えば虫を反射的に毛嫌いするような感じの、見つめる対象の存在を真っ向から否定するような、冷たくて尖った、突き放すまなざし。

 ぞっとした。

 記憶と合間って、鳥肌がぶわりと立つのがわかった。

 「何なの? 何があったの?」

 その恐怖を無理やりごまかすように、アタシはエルメスに尋ねた。だからなのか、ちょっとアタシの声はうわずった。

 「アイツは、やっちゃいけないことをやった。だから、もうここに近寄らないように念を押しとくんだ」

 人混みに紛れていくシンイチロウたちを、刺々しい目で見据えながら、エルメスが言う。その、“念”という言葉の部分に、歪んだ力みを感じた。ヤな予感がした。

 「アイツ、どうする気なの?」

 「だから、念を押すんだ」

 「どんなふうに?」

 「アイコは知らなくていい」

 「アタシ、ちょっとアイツに相談したいことあったんだけど」

 「シンイチロウを頼ったって、アイツには何も解決なんてできないよ」

 言って、エルメスはアタシを見た。その時にはもう、さっきまでの刺々しさは、エルメスの目から消えていた。

 「俺でよかったら相談にのるって言ったろ? あんなヤツじゃなくて、俺に話せよ。まあ、アイコが望むならだけど、アイツよりはマシだし、力になれると思うぞ」

 エルメスが、柔らかく笑む。

 この表情かおに、騙されちゃいけない。

 アタシの中の誰かが言う。

 多分、アタシの本能みたいな感じのモノ。

 本当はソレに従うべきだって、わかってる。

 今、目の前で連れ去られていったシンイチロウを見れば、刺々しい目で“念を押す”なんて言われれば、なおさらだ。

 でも、でもさ。

 エルメスの言う通り、アタシの抱える問題を、シンイチロウは何も解決してはくれないだろう。タクヤにはこんなことで頼りたくないし、モエは、話は聞いてくれて、アタシの気を楽にはしてくれるだろうけど、実際に問題を解決してくれるかと言えば、多分無理だ。

 なんだかな、って思う。

 結局のところ、アタシたちガキは無力だ。

 大人の手のひらの上でころころ転がされていないと、生きてけない。

 現にほら、目の前にある妊娠って問題を、なんにもできずにもて余してる。今すぐってわけじゃないけど、タイムリミットだってあるのに、自分だけで、何をどうすればいいかもわかってない。

 だから。

 「じゃあ、相談にのってよ」

 アタシはエルメスに、全てを話す。

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