05 Moe

 新宿駅に背を向けて、東口駅前広場の階段の隅に腰掛け、ぼんやりとアルタのモニターを見上げる。

 今日も風が、そこらじゅうに散らばるネオンの光を巻き込んで、歪なマーブル模様に淀みながら、駅前のこの広場に集まってくる。

 新宿通りを伊勢丹方面から流れてくるそれは、どこかました感じに青っぽく、西口に続く連絡路から弱々しく揺蕩たゆたってくるそれは、疲れた感じに焦げ茶っぽい。そして駅ビルから溢れるように出てくるそれは、無防備に、無邪気に、はしゃぐように、赤っぽく、跳ね回りながら瞬いている。

 その全てが目の前でぶつかって、混ざって、淀みを更に増しながら、ここが唯一の逃げ道だと言わんばかりに、果物屋の脇をすり抜けてスカウト通りに流れ込んでいく。

 普段ならわたしもその流れに乗って、靖国通りを渡り、歌舞伎町へ向かってた。けど、最近はそれができてない。その向こうにある映画館脇のあの路地を、避けてる。

 原因は、マーキュリー。

 目的はわからない。けど、このところやけにマーキュリーの連中がその界隈を彷徨うろついていて、絡まれるのもウザいし、歌舞伎町に入る手前のこの場所で、躊躇って、行き場もなくわだかまっていることが多くなった。

 心配なのは、アイコ。

 もうずいぶん、アイコと会えてない。

 あの子は流されやすいし隙が多いから、マーキュリーの連中の、そんな怪しい挙動に変に巻き込まれてないか、不安になる。とは言えそれが、わたしをあの路地に、或いはアイコが屯しているであろうあの広場に、足を向けさせるだけの動機付けにはなってくれない。私の中ではマーキュリーへの嫌悪感とか拒絶反応のほうが、圧倒的に大きいからだ。

 不意に、すぐ隣に誰かが腰かける気配を感じた。鬱陶しいナンパの類いかと思って気怠く振り向くと、違った。タクヤだった。ごつい黒のブーツとスキニージーンズはいつも通りだったけど、トップスに珍しく真っ白のシャツを着ていたから、横目にはタクヤとは気づけなかった。

 大きく開けられたシャツの胸元の隙間から、やけにくっきりと浮き立った胸筋のはしっこがちらりと見えて、華奢なくせに意外と鍛えてるな、とぼんやり思う。そして、そう言えばわたしは、毛嫌いしているわりに、タクヤの事をあまり知らない、と今更ながら気付かされた。

 「歌舞伎には行かないのか?」

 タクヤの発した声は、周りの喧騒に掻き消されてしまうほどに、ぼそりとして、弱々しい。らしくない。いつもはあんなにへらへらしてるくせに、やけに沈んだ声色。

 「あんたはどうなの?」

 「マーキュリーの連中がやけに広場の外をうろうろしてて、ウザくてさ」

 「そのままそっくり、同じ台詞返すわ」

 「だよな、やっぱそうだよな、モエも」

 黒いマスクの向こう側で、小さく笑んだ気配がした。でも、それもいつものタクヤに比べると、笑っちゃうくらいに弱々しい。

 「なんかあった?」

 普段なら、タクヤにこんな問いかけなんてしない。けど、らしくない軟弱さがどうにも気にかかって、無意識に尋ねていた。

 「うん、まあ、あったな。いろいろあったよ」

 「いろいろって、何だよ」

 「いろいろだよ、いろいろ」

 また、マスクの向こうで弱々しい笑みの気配がする。わたしは埒のあかない会話にいらついて、これ見よがしに溜め息を吐くと、またまなざしを、アルタのモニターに向け直した。

 ボリュームが上がってきた周りの喧騒に合わせるように、風の淀みが複雑さを増していく。

 22時過ぎ。

 この街に留まるか、家路につくか。

 行き交う人々のそんなせめぎ合いで、新宿のこの場所が、一日で一番ざわつく時間帯。

 正直、わたしはこのざわつきが嫌い。

 ここに留まることしか選択肢の無いわたしの存在を、嘲笑っているように聞こえるから、だから、嫌い。

 「なあ、モエ」しばらく黙っていたタクヤが、唐突にわたしに呼び掛ける。「どこに行く当ても、やることもないならさ、ホテル行こうぜ」

 また始まった。

 こいつの悪い癖。

 だれかれ構わず、ヤろうとする。

 こんな、落ち込んだ風なときでも。

 イラつく。

 「何度も言うけどわたしは絶対、あんたとヤんないから。ちょっと落ちてると思って気にかけてやったらそれ? ふざけてんの?」

 棘のある声をぶつけた。その瞬間、タクヤの目が、すっと深くて濃い蒼で淀んだ。

 「やっぱ、そう思っちゃうよな。でもオレ、わりとマジで言ってんだ」

 「どういう事? わたしに惚れてるとか、そういうヤツ? だとするとマジキモいんだけど」

 「違う、違う、それは全然無い」

 やけにきっぱりと言い切るから、カチンと来て、反射的に平手でタクヤの後頭部を叩く。ぱちんと小気味いい音がしたのと同時に、痛ってぇ、とおどけた感じにタクヤが返す。少しいつもの、タクヤらしいちゃらちゃらした雰囲気が戻ってきて、わたしは思わず吹き出してしまった。タクヤも、笑い声をあげる。ちょっとだけ、一年前の、あの界隈が盛り上がってた時みたいな雰囲気が漂ってきて、それが嬉しくも、寂しくも感じた。

 「性嗜好障害」

 ひとしきり笑ったあと、タクヤが言った。

 「せい、しこう? 何? それ」

 聞いたことの無い単語に、わたしはしどろもどろになって、その意味を尋ねる。

 「簡単に言うとセックス依存、みたいな? オレ病気なんだよ」

 それをわたしに伝えるタクヤの真意を掴めず、わたしは眉をしかめる。そんなわたしを一瞥してから、タクヤはまなざしを夜空に投げた。

 「オレんちってさ、親が全然仕事で帰ってこなくて、で、中学の時にマンションの隣の部屋に住んでた家族の、長女、なのかな、アラサーのオーエルがいてさ、しょっちゅうオレんちに忍び込んでくんの」タクヤは、“オーエル”という普段自分が口にしない単語を、たどたどしく発音しながら、続ける。「中学生なんてエロいことに無防備に前のめりじゃん? それをいいことにさ、そいつオレとヤりまくんの。そんなの、猿みたいな性欲した中学生からしたら麻薬みたいなもんで、ドハマリしちゃうじゃん。でも、どっぷりハマったタイミングで、そいつ結婚して家出てったんよ。盛り上げるだけ盛り上げられて放置されたもんだから、なんかその時からオレ、心、歪んじゃってさ」

 そこまで言い切ると、タクヤはまた、わたしにまなざしを戻した。

 「だからさ、モエ、ヤらして」

 「アホ」

 言って、わたしはもう一度、タクヤの頭を叩く。イテテ、と頭を擦りながら、タクヤがまた笑う。でもさっきのそれと比べると、随分と乾いた笑い声。その雰囲気で、わたしは何となく察する。今タクヤがわたしに伝えたことは多分、本当のことだ。

 「こんなの、誰にも言ったことなかったんだけどな。オレこれに言わせるってさ、やっぱモエは他のヤツらとはちょっと違うわ」

 言いながら、タクヤは座ったまま上半身を仰け反らせて、また夜空を仰いだ。そして唐突に、それまでには感じさせなかった、どこかぴりっと緊張した雰囲気を沸き立たせた。

 「お前はやっぱ頼れる。だからさ、オレに協力してくんないか」

 「協力?」

 話が読めない。わたしは、眉間の皺を更に深くする。

 「シンイチロウがマーキュリーの連中に拉致られた」

 尖ったまなざしを空に向けたまま、タクヤが言った。

 「え? どういうこと?」

 「何かトラブったんだろうけど、詳しくはわかんねえ。ただあいつら、とうとう形振なりふり構わなくなってきた」

 風の淀みを乱反射させるタクヤの目の中の光が、鋭さを増す。

 「あいつらはあいつらが正しいと思う正義? みたいなもんをオレらに押し付けて、オレらが作った世界を壊そうとしてんだ。親が身勝手にオレらを世間に放り出して、行き場もなくてさ、でも生きてかなきゃいけないから、何の力もないガキが寄り添って、ようやくあの映画館脇の路地に自分らだけの世界を作ったわけじゃん? でも今度は、オレらを見捨てた大人たちの価値観で、勝手にワルモノやら不純やらってレッテルを貼り付けて、土足でそこに入り込んできたくせに、そんな自覚も無しに、オレらを助けてるつもりで、英雄気取りで、実は、潰そうとしてる。マーキュリーの連中なんて正にそうじゃんか。もうオレそういうの、我慢できねえんだよ」

 タクヤは立ち上がり、広場の短い階段を降りきってから、わたしを振り向いた。

 「オレと一緒に、マーキュリーをあの界隈から追い出そう。モエ、手伝ってくれ」

 今まで見たことのない熱が、タクヤの瞳に宿っていた。それに気圧されたのか、わたしは半ば無意識に、こくりと頷く。

 タクヤの背後を流れるマーブル模様が、ぐにゃりと大きくひしゃげた、ような、気がした。

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