03 Moe

 ―――この家は、お兄ちゃんの呪いにとりつかれている。


 ただいま。

 玄関を開けて、声に出さず、心の中だけでそう呟く。

 声に出す必要なんてない。だってこの“ただいま”は、ここにいるけどここにいない、お兄ちゃんに向けてるものだから。

 23時。久しぶりの帰宅。

 玄関から延びる廊下の向こうの、リビングの灯りはまだ点いていた。

 でも、人の気配はない。

 これ。これなんだ。

 この、気配がないってのが、異常。

 だってお父さんもお母さんも確実に、そこに居るんだから。

 脱け殻。

 そんな安っぽい比喩が、今のあの二人には、気持ち悪いくらいぴったりと嵌まる。

 そのリビングに玄関から向かって、左右の部屋。

 右が、わたしの。

 左が、お兄ちゃんの。

 わたしはこの家が支配されてる、空っぽのようで重たい、乾いているようでぬめりとした、得たいの知れない空気から逃げるように、左の、お兄ちゃんの部屋に飛び込んだ。

 真っ暗。

 でも、何がどこにあるかなんてことは、悲しいくらいに、わかってる。

 だから、ベッドはここ。思いきり、ダイブ。

 埃が舞う。

 その、埃の乾いた匂いのほんのわずかな隙間に、ほら、まだ、ある。

 甘酸っぱい、お兄ちゃんの匂い。

 布団に顔を埋めれば、その匂いは、少しだけ存在感を増して、わたしの鼻のずっと奥に、弱々しい刺激を残す。その刺激が、からからになっていた、わたしの中の何かを充電する。

 この匂いは、貴重だ。なぜならこれの発生源は、もうこの世には存在しない。

 2年と少し前。

 お兄ちゃんは、死んだ。

 お兄ちゃんは、たぶん、わたしが殺した。


 16歳でサッカーの世界でプロデビューをして、17歳で日本代表に呼ばれる。

 それがどれくらいすごいことなのか、サッカーにぜんぜん興味のないわたしには判らない。けど、世間の誰もが、もちろんパパとママも含めて、奇跡の子だと、お兄ちゃんを称えた。

 サッカーの事なんて何もわからない。そんなの関係ない。それでいい。そんなの全然関係ないところで、わたしだって、お兄ちゃんが好きだった。大好きだった。でもわたしの好きは、世間で言われているような、普通の妹の兄に対する好きとは、ちょっと、いや、だいぶかな、ズレてた。


 わたしにとってお兄ちゃんは、オスだった。


 何でか、なんて、そんなのわかんない。

 だってお兄ちゃんを見てると、常識とかモラルとか、理屈とか理性とか、そーゆーの、マジで全然役に立たなくて、わたしの意思も意識もコントロールできないところで、お腹の下の方の、ずっとずっと奥の方が、ぐじゅぐじゅと湿って、熱を発してくるんだから。

 もうね、どうしようもないんだ。


 そしてお兄ちゃんも一緒だったってこと、わたしは知ってた。


 もちろんお兄ちゃんはそんなこと一度も、口にしなかった。

 でもさ、わかるじゃん。わかっちゃうじゃん。そんなの。

 お兄ちゃんがわたしにむけるまなざしの指す方向と、それが宿す熱と湿り気を見れば、そんなのオンナなら誰だって、わかる。

 わたしもお兄ちゃんも、頭では理解してた。こんな気持ち、誰も認めてなんかくれない。認めないどころか、きっと誰もが嫌悪して、罵倒して、排除する。全世界がわたしたちの敵になって、わたしたちを、わたしたちのこの気持ちを、抹消しようと躍起になる。素直なだけなのに。自然に湧いて出たものなのに。でも、きっとそうなる。だからわたしは、わたしたちは、この気持ちを、静かに、こっそり、大切に、誰にも悟られないように胸の奥に押し込めて、暖めて、育んだ。そのつもりだった。それがずっと続くと、続けられると思ってた。

 でも違った。

 続かなかった。

 わたしがそれを、ぶち壊した。


 12歳。

 中学に入ってすぐ。

 初潮がきた。

 わたしを見るお兄ちゃんのまなざしに、それまでにないぎらつきを感じるようになったのも、その頃。

 それまでは弱いものを守る、みたいな、どこか柔らかみを感じさせていた視線の質が、がらりと変わった。今ならその正体がなんだったのか、はっきりとわかる。紛れもなくそれは、オスの本能だ。

 とは言えお兄ちゃんは、その、沸き上がってきてしまう、どうしたって制御することなんてできない本能ってものを、必死に、世の中に溢れた倫理観なんていう借り物の自制心で覆い尽くして、隠そうとした。

 でもそんなの、滴る水を手のひらで完璧に溜め込んでおくことが無理なのと一緒で、隙間から絶えず、漏れ落ちてしまうものなんだ。

 わたしはわたしで、身体の変化に心が引っ張られたのか、以前にも増して、そのお兄ちゃんのまなざしの変化に、それを必死で覆い隠そうと悶える姿に、過剰に反応した。欲情した。抑えられなかった。

 そうなんだ。

 最後の最後でがまんできなかったのは、わたしの方だ。

 普段は所属するプロクラブの宿舎で寝泊まりをするお兄ちゃんが、休暇で家に帰ってきていたある夜、わたしはお兄ちゃんのベッドに潜り込んだ。

 ぴくりと身体が震えたから、お兄ちゃんが起きてることはわかった。

 布団の中の暗がりに、気配だけで目の前に隔たる背中。

 酸っぱさの中に、ほんの少し甘ったるさを忍ばせた、お兄ちゃんの匂い。

 背中に掌を添える。

 固い。けど、モノには再現できない微妙な弾力が、わたしの手を押し返す。

 そのまま、抱き締めようとした。でもそれを、お兄ちゃんの声が弾き返した。

 「だめだ、モエ。だめだ」

 お兄ちゃんの声は震えていた。

 「だめ?」

 「だめだ」

 「どうしても?」

 「どうしても」

 「どうして?」

 「もしこれに耐えられなかったら、世界がみんな、父さんも母さんも、きっと誰も彼も、俺たちのこの気持ちを押し潰そうとするんだ。そのほうが俺は耐えられない。ひっそり隠してさえいればこの気持ちを生き延びさせられるなら、俺は、絶対そのほうがいい。だから、だめだ」

 やっぱりお兄ちゃんも、わたしと同じだった。それがすごく嬉しかった。でも、この先ずっとわたしの内側から沸き立つ本能を押さえ込まなければいけないと思うと、気が遠くなった。

 お兄ちゃんの背中は、小さく震えていた。

 その震えはわたしの本能を、お兄ちゃんの本能をも、拒絶していた。

 わたしにはそれがわかった。わかってしまった。

 だからその時のわたしは、お兄ちゃんの部屋を出てくしかなかった。


 その二週間後、お兄ちゃんは死んだ。

 心臓麻痺だった。

 過度なトレーニングが原因だと、医者は言った。

 ばか。

 走っていれば、追い縋ってくる本能から逃げきれるとでも思ってたの? 

 そんなの絶対無理だって、知らなかった?

 わたしは知ってた。


 そんなふうに追憶に寄りかかりながら、お兄ちゃんの残り香から何かを充電していた時、急に、部屋の灯りが着いた。

 かと思うと、もの凄い力で、後ろから襟首を引っ張りあげられ、ベッドから引きずり下ろされて、そのまま投げ飛ばされた。

 壁にどんと、背中がぶつかり、わたしはしゃがみこんだまま、身動きが取れなくなる。

 衝撃で目がちかちかする。

 その視界の中に、誰かがぬっと入り込んでくる。

 誰だかは、わかってる。

 いつものこと。

 お父さんだ。

 「だからお前の部屋はあっちだって、何度も言っただろう」

 言いながら髪の毛を鷲掴んで、わたしに無理やり正面を向けさせる。

 目の前に、お父さんの顔。

 その顔の、瞳をじっと見つめ返す。

 艶のない、黒。

 まるでそこに穴が開いたような、深くて、光を反射させない、黒。

 わたしはそれを見ていつも思い知らされる。

 まるでお兄ちゃんの残像にまとわり付くように飛び回る、ハエだか蚊だかを振り払う程度の無関心さと、無感情さ。それはわたしを本当の意味で、痛めつける。

 お父さんはそのままぐいっとわたしの髪の毛を掴んで持ち上げると、反対側のわたしの部屋までわたしを引きずって、投げ入れた。

 そして背後で、ぱたん、と閉められるドア。

 この、ぱたん、が、ばたん、だったら、まだ、救われたのかもしれない。

 お兄ちゃんの呪いに取り憑かれて感情をなくしたお父さんとお母さんは、それまでわたしに向けられていたふたりの感情なんて、お兄ちゃんに向けたそれのオマケだったとでもいうくらい、露骨に、そうやってわたしの存在を無自覚に否定する。

 ぶっちゃけ、しんどい。

 だからお兄ちゃんの匂いで何かを充電したわたしは玄関のドアを開けて、襲ってくる虚無感からにげるように、あのマーブル模様の風が溜まる界隈に、再び足を向けた。

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