慈善のスープ粥

 ああは言ってみたものの、さてどうするか。

 確かな案があるわけではなかった。市場であれこれの食材を見れば、何か気の利いたひらめきが出るかと思ったが、あいにく今は収穫祭の期間中だった。一週間続く祭りの初日、市場は祝いのための食材を求める人々でごった返していた。

 少し歩くだけで人に押され、人を押し、ぶつかられ……とてもじゃないが、ゆっくり食材を吟味してる余裕はねえ。

 疲れ以外に得るものもないまま市場を抜けると、目の前に、薄汚れた麻や綿の服をまとった連中が群れをなしていた。こっちは貧民街じゃあなかったはずだが……と辺りを見回して、合点がいった。居並ぶ貧民たちの先頭で、鉄の大釜が湯気をあげている。鶏のスープの匂いが、かすかに漂ってきた。大釜の周りでは、神父やシスターが声をはりあげて人の整理をしている。


「ラウル店長~。おひさしぶりです!」


 教会関係者の中に、俺に向けて手を振っている奴がいる。見れば、俺が店を持っていた頃に雇っていた助手料理人のひとり、マウロだった。


「もう店長じゃねーよ。しかしマウロ、おまえの新しい勤め先が教会だったとはな」

「いえいえ、雇われたのは貴族のお屋敷ですよ。ただ、勤め先の主人が熱心な信仰者でしてね、教会で人手が要る時にはこうして駆り出されてます。ま、善行を積めると思えば悪くはないですよ」


 言いつつマウロは、小さな玉杓子で大釜の中身をすくった。一舐めして頷くと、傍らのシスターに手で合図を送る。シスターが声を張りあげた。


「みなさん、デリツィオーゾ聖教会の名において、ただいまから粥をお配りします。我ら、神の御前にあっては皆等しく兄弟。聖なる父の恵みを分け合い、その恩徳に感謝いたしましょう」


 長たらしい言葉の間に、別のシスターが粥を配り始めた。見た目と匂いから判断するかぎり、オーツ麦を鶏の(それほど濃くはない)スープで煮込んだ、ごくごく簡素な粥だ。けれど、やせ細った手で椀を差し出す人々は、その一杯を宝石のように捧げ持ち、時に涙を浮かべながら感謝の言葉を口にしていた。


「感謝するなら父なる神にお願いしますね。俺は、天からのお恵みをただ分けているだけですので」


 礼の言葉に、笑いながら答えるマウロを見ていると……不意にうらやましくなった。

 これほどに感謝され、命の糧となり、魂の修養にまでなる料理を、俺は作っていない。作る立場にない。

 俺のなすべきは、身に帯びた技芸を磨くこと。磨き抜いた技で、誰も見たことのない高みへ達すること。

 しかし、そこに待っているのは何だろうか? これほどに純粋な感謝を、俺は受け取ることがあるだろうか?


「どうされました?」


 マウロが話しかけてくる。


「ん、ああ……俺はきっと、地獄に落ちるんじゃねえかと思ってな。飽食の罪で」


 大釜に群がる人々を前に、自然に浮かんだ考えだった。木や陶器でできた粗末な椀に、湯気をあげる粥が注ぎ入れられていく。木でできたものの中には、いたずら描きが刻まれているものもあった。使ったのは石の破片か、それとも他の鋭いものか。拙い描線で、果物や野菜、小麦の穂が彫り込まれていた。

 刻んだのは願望なのか、祈りなのか。胸の奥が、少しばかり痛い気がする。


「地獄が怖いんですか、ラウル店長?」

「だからもう店長じゃねえって……ま、怖くないって言っちまえば嘘になるが」


 俺は決して信心深い方じゃねえ。だがこの国にいるならば、嫌でも聖教会の教えの下で生きなきゃならねえ。炎や氷で満たされた地獄の様子は、子供の頃からずっと目にし続けてきた。

 溜息をもらした俺に、マウロは小声で囁きかけてきた。


「だったら、地獄でも料理を作ればいいんじゃないですかね?」


 心臓が、大きく跳ねた。


「できんのかよ……地獄の森じゃ、林檎が灰で、苺が硫黄でできてるって話だぞ?」

「ラウル店長なら大丈夫ですって。きっと地獄の悪鬼も喜ぶ料理が作れますよ」

「無茶言うんじゃねえよ……」


 不意に、肩を強く叩かれた。


「俺、天国へ行きたいです。俺の腕じゃあ、地獄でなんてやってけませんからね……でも、店長ならできる気がするんですよ。灰の林檎のアップルパイも、硫黄の苺のジャムも、店長なら」


 どん、と、今度は背中を叩かれた。


「行けるところまで行っちゃってください、店長。店長はどこにだって行ける人です。俺たちのことなんか放っておいて、誰の手も届かないところにまで」


 マウロの言葉にどう答えればいいか、俺はわからなかった。

 高みを目指して技芸を磨いた、その果てに何があるのか――ぼんやりと考えながら、俺は無言のまま、粥を受け取る行列をただ見つめていた。

 やせ細った一人の少女が、両の掌にすっぽり入るほどの木の椀を差し出した。側面には苺や林檎、梨や葡萄がぎっしりと彫り込まれている。描線は他の連中よりも滑らかで、形の取り方もしっかりしたものだ。男子でさえあったら、工房に弟子入りすればひとかどの職人になる可能性もありそうだった。

 少女の椀に、粥が注がれる。瞬間、少女がわずかによろけた。こぼれた粥が一筋、白い筋を描いて、葡萄の彫り物の上を伝い落ちていった。

 瞬間、俺の中でひらめいたものがあった。

 大小さまざまなカボチャ。とりどりの外見。活かす方法が、いま見つかった。

 頭の中が激しく回りはじめる。用意すべき食材は何か、調味料は何か、手順をどうするか――沈んでいた心臓が一気に目覚め、全身に熱を送り出しはじめる。


「店長、何か思いつきましたね?」


 マウロが笑う。


「お、わかったか?」

「店にいた時からそうでしたからね。新しい料理を思い付いたら、店長、目の色が変わりますから」


 我が意を得たりという風に、マウロは笑った。


「どうです、今でも地獄は怖いですか?」

「ま、怖くないって言っちまえば嘘になるが――」


 俺は拳を掲げ、天へ向けて突き出した。


「――心配すんのは、まずこいつを仕上げてからだな。でなきゃ死んでも死にきれねえ」

「ああ、やっぱり店長だ」


 マウロが右手を差し出してくる。水仕事で荒れた手を、俺は強く握った。


「店長はそれでいいんです。天国へは俺が代わりに行っときますんで……店長は地獄でもどこでも、やりたいように突き進んでいってください!」


 えらく無茶苦茶なことを言われている気がする。

 だが、反論する気にはならなかった。

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