その喫茶店にはメニューがない

嗤猫

来店するのには理由がある

 白い外壁のビルの片隅に、ガラスの扉がある。

 内開きの扉のその先は、白い壁。扉分の奥行と、1メートル程のスペース。

 扉をくぐり、顔を向ければその先に、外壁に隠された階段があることがわかるのだけれど。

 同じく一階を共有するショーウィンドウの入り口とでも認識されているであろう、その先には。


「朧さーん。お腹が空きました!」


 明るい癖毛を長めのツーブロックに切り揃えた、長身の青年が黒い扉から飛び込んできた。

 外から隠すように存在している階段の上には、黒い樫の扉があるのだ。


 白い外壁とは対照的に、黒とスチールで揃えられた小さなカウンターと、目隠しされた応接設備。

 その奥、バックヤードに続く廊下から顔を出した人物は、ため息を吐いた。


「ここ、定食屋ではないんですけれど」

「鍵、開いてる日は利用可能。でしょう?」


 眉を下げ、口角を上げてにこりとお手本のような笑顔を向けながら、青年はカウンターの席に着いた。眉間に皺を寄せ、その様子を眺めていた「朧さん」は、あきらめたように調理台へと向かっていった。

 冷蔵庫から、低温調理した鳥のもも肉を2つ取り出し、皮目にバジルオイルを塗ってトースターに入れたら、トマトをざく切りにしてフライパンに放り込み、バターと塩と少しの砂糖で味を調えてソースを作る。

 ブロッコリーと人参は一口大にした後、電子レンジで蒸しあげ、ベーコンとナッツのオイル和えを添える。

 焼きあがった鶏肉をザクザクと切り分け、調理した全てを大皿に盛り付け、丼に白米をよそってカウンターテーブルに提供する。


「いただきます」


 嬉しそうに割りばしを取る彼の手には、丼が普通の茶碗のように行儀よく納まっている。翡翠色の瞳が細まり、目尻の泣きぼくろが色っぽい。その雰囲気のまま、大盛りの料理が端正な口に消えてゆく。本日も完食するのだろう。


  ※


「内緒話ができる店が欲しくてさ」


 この店のオーナーに声を掛けられたのは一昨年の春だ。

 丁度、何もかもを手放した私に、学生時代同じクラスだっただけの彼が声を掛けてきた。出かけた先のファミレスで。

 見た目が「アレ」な私は、いろいろ印象深かったのだろうが、こちらは何一つ覚えていない。

 胡散臭い以外の何物でもない。それなのになんとなく食指が動いた。

 この場所に案内された時、ここに「居る」自分がストンと腑に落ちた。


 彼の仕事は予想に反し、きちんとしたもので、ただし世間に排出するまではどこにも見せたくないであろう案件であろうと推測される類のものだった。

 好きに書類を広げ、メモやスケッチを書きなぐり、何時間も話せる空間。そういったモノを提供することが私に与えられた業務だった。

 論議に渇く喉を潤し、片手間に補給する軽食や、達成感とともに空腹を満たす食事、乾杯用の酒肴。なんとなくで良い、あくまでも私の感性で用意してくれとの要望だった。


「今日はコーヒーが飲みたいです。」


 食事を終えた青年から声を掛けられ、沸かしていた湯を細口のドリップポットに移す。なんとなく本日はペーパーフィルターで落としたドリップコーヒーの気分だ。オーナーが不定期に利用するだけの、客はめったに来ない店のために大掛かりなコーヒーメーカーを導入する気はない。

 そもそもなぜこの青年はここに頻繁に来るのか。

 いや、昨年の春、オーナーに伴って訪れているので無関係の一般客ではないし、190センチを超すであろう長身に違わない気持ちの良い食べっぷりに悪い気はしない。


 しかし、なぜ。名前を覚えられない・・・・・・・・・私の人間関係は壊滅的だし、特別な料理を提供しているわけでもない。

 これまでの人々のように「そこに在るだけ」として扱ってくれれば良いのに。

 ありがたいという感情と、そっとしておいて欲しいという感情が、心の片隅をチクリと刺すのだ。

 カウンダー越しにコーヒーを手渡しながら、今日もそう思う。


 ※


「ごちそうさまでした。朧さん。ちなみにの名前はノアです。」


 コーヒーカップ毎「朧さん」の手を包み込む。驚き、見開いた藍鼠色の瞳が自分の手に落されている。

 目に感情を灯すのも、それも最近のことで、最初は能面がしゃべっているのかと思った。

「朧さん」は自分より年上で、ほとんど銀のプラチナブロンドを前下がりのショートボブにしている。以前は染めていたらしく、下3分の一ほどアッシュブラウンが残っていて、キツネの尾を逆にしたようだ。

 身長は170センチ位で意外と筋肉質、中性的な顔立ち。彼女・・・胸に結構な質量の脂肪をお持ちなのでそう呼びたいのだけれど、断定するのはいけない気がする、不思議な人物。

 昨年の春、取引先の社長で、ここのオーナーの佐久間さんに連れられて訪れたこの飲食店の従業員は、この店の為に設えられた調度品で、この空間から連れ出したら消えてしまうかのような、その名の通り「朧気」な印象。

「朧さん」は人の名前が記憶できないらしい。そういったことは彼女のせいではないのに、この上背と少し整った顔のおかげで、誰からも色々な感情を向けられてきた自分のプライドを刺激した。


 佐久間さんにお願いしたら、とても面白そうにこの店への出入りの許可をくれて、少し昔話を聞かせてくれた。入学早々、制服がスカートであることをからかわれていたこと、プラチナブロンドを黒く染めていたこと、女性からモテていたこと。佐久間さんとは殆ど接触が無かったこと。

「どうして探し出してまで、ここで働くよう口説いたのですか?」

 佐久間さんは笑って、「俺の描いた絵を、とても柔らかくて良い絵だって褒めてくれて、あいつが描いた空が、灰色だったから。」と答えてくれた。後は、あいつが話してくれるようになるまでがんばれ。と言葉を結んだ真面目な顔に、どくり。と心臓が跳ねた。


 恋愛感情とは、究極の自己満足である。と言うのが持論だ。

 生理的欲求を解消するのがそれほど難しくないせいもあって、相手の理想を演じる事が煩わしいとさえ思っている。

 それなのに、あの無機質な藍鼠色の瞳にどう映っているのか知りたくて、その結果に動揺してしまうだろう自分が居るのに気づいて、気づいて…

「未知の存在に対する好奇心に違いない。もっと理解すればきっと。」


もう1つの可能性に背を向けた。


 今日も黒い樫の扉の前で、ちょっと躊躇している自分が居る。この扉は実は2つの鍵が無いと開かない。

 1つは自分の持つ、外からの鍵で、もう1つは内側から開閉する鍵。佐久間さんからこの鍵を渡されているのは現在のところ、自分だけと言われている。

 佐久間さんが店を利用する時は、事前に連絡するから、内鍵が開いていない事は無い。

だから、内鍵が閉まっている場合、朧さんが不在か、自分が拒否された時。


 仕事場所が固定されていない事を良いことに、環状線の反対側から、3日と空けずに通っている。打ち合わせの時は、ここに通える様に、30分以内の駅周辺を指定している。

…自分の執着心を自覚して、膝から崩れ落ちそうだ。


 キーホルダーに付けるのは違う気がして、ネックレスチェーンに通している鍵を使うと、何事も無く扉は開いた。


 今日のカウンターの向こう側には、子どもの握りこぶし位の既に焼き目が付いた肉が、5つ並んでいる。朧さんは肉をカッティングボードに乗せると、薄くスライスしていった。少しグレーのピンク色の断面から、透明な赤いドリップが滲んでいる。

 大皿に白米を丸く盛り上げると、スライスした肉で覆い尽くし、山の頂上にちょっと凹みを付けて温泉卵を落とす。

周囲の余白には、セロリと大根と人参のスティック、薬味皿に刻んだショウガの甘酢漬け、胡麻や浅葱。レモンを効かせたマヨネーズソースと醤油とニンニクの甘辛いタレ。

に特盛りにされたローストビーフ丼に上がるテンション。


「初めてここを訪問してから1年経った方には、ちょっと食事を豪華にと。佐久間から言われています」

「Ohh…そうデスか。ありがとうございます。いただきます。」


 肉は薄く下味が付いていて、そのまま食べても美味しい。歯を立てると僅かな弾力を返すが、ハラリと噛みきれる。口直しにショウガを白米に乗せてひと口。飽きない。美味しい。卵を崩して醤油ダレを垂らし、肉でご飯を包んで。美味しいんです。でもなんかヤルセナイ。


 ※


「ご飯の量が多いので、お肉のおかわりも遠慮なくどうぞ」


 彼は、牛肉が好きだと言っていたので、ローストビーフ丼を用意した。いつもの笑顔を貼り付けているが、好きなメニューの時は、身体に纏う雰囲気が少し明るくなる。今日もカウンター越しの手元に向けられる視線は、キラキラとしていた。なんなら、小花を振りまいていた。

 なのに。

 流れるような箸の運びで、美味しい。と呟きながら食べているのに、少ししょんぼりとしている。彼の期待を裏切ってしまったのだろうか。意見を聞いて改善したい。こんなときはどのようにコミュニケーションするのが正解か?わからない。


は常連さんですから、お好きなものを用「!名前!!!」」

「え?はい。頻繁にお会いしている方は顔と名前の記憶が一致しますので。お呼びして良かったですか?」


 そう。顔という画像記憶と名前やプロフィールといった文字記憶の関連性が保てない。個々には覚えているのだ。情報が上書きされずに1ヶ月経つと、関連性が、その後文字記憶が、半年も経つと薄ぼんやりと輪郭が残る位になってしまう。に限定して。


「美味しいです。おかわりください。頻繁にお伺いするので、これからは名前で呼んで下さい。」


 ハッと彼に目を向けると、先程の雰囲気はどこかに消えて、食べ始める前のほわほわとした気配。


「「良かった」」


 ほっと息を吐いて、小さく呟いたお互いの声は相手の耳には届かなかった。


自分の事で精一杯の二人のお話し。

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その喫茶店にはメニューがない 嗤猫 @hahaneko

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