母娘
そして破滅の木曜日が来た。
救急車を呼ばれることも無く、田中に抱えられて角谷邸へと戻って来た亜耶子は、奥まった部屋に運ばれ、布施の監視下に置かれることとなった。
奥まった部屋とは美和子が使っている奥の居間のさらにその奥。陽当たりも悪く、元は座敷牢だと言われても納得出来そうな部屋だ。大きさは六畳ほど。
亜耶子はその部屋に運び込まれ、今は布団に寝かされているが、時折妙な笑い声を上げている。本当に布施の監視が必要なのかどうか。
少なくとも逃げ出す事を用心して、布施が監視に回されているわけでは無いだろう。まず亜耶子には逃げるという発想があるとは考えづらい。人は誰も「自分」からは逃げられないのだから。
だが当然、そんな状態の娘をあっさりと受け入れられる母親はいない。
殊勝と言うべきなのか、加路女学院からは要領を得ない連絡はあった。しかしそれは単純に、
「亜耶子が奇声を発し、人事不省にに陥ったようなので家に帰らせた」
という見た目でわかるような事を言語化しただけの報告であった。どうして亜耶子がこんな状態になったのかは、一欠片も説明されていない。
美和子が納得出来るはずも無かった。
しかし他の伝手と言われても……田中は連れ帰ってくれただけでも、感謝こそあれ叱責しては的外れだ。田中は別に亜耶子の「お付き」だったわけではない。あくまで送迎してくれていただけだ。
それでは他に説明してくれそうな人はいないのか。確か淡口琉架という名の友達がいたはずだ。
しかし、娘の「友達」に連絡を取ることを美和子は躊躇ってしまう。もしかしたら? という予感がある。
しかし、このままでは……美和子はせめて説明して欲しかった。
だが逃げるようにして実家を頼り、その挙げ句にこれでは……
美和子の思考が袋小路に追い詰められたその時、呼び鈴が鳴った。和風の角谷邸にはそぐわない、電子的に作り出したがらがら声のような呼び鈴だ。
来客に気づけるようにとの配慮がされたものだろうが、気に障る音である事は間違いない。
美和子は無視しようかとも考えたが、布施はそれを許さないだろう。あくまで今の自分は仮初めの存在なのだ。布施に頼み事をしている現状で、無視は許されることでは無い。
美和子は仕方なくインターホン向かい、来客者を確かめた。荷物が来ただけであれば助かるのだが……
しかしインターホンに映る人物はワンピース姿の女性だった。リネン地のグレー。緩やかなドレープを纏っている。
美和子はある予感を抱きながら、尋ねる。
「どなた様ですか?」
と。
そして、女性は答え合わせをするように、こう答えた。
『――御瑠川天奈と申します』
そのタイミングで、もう一人がインターホンのカメラの画角に割り込んできた。
事務的なチャコールグレイの三つ揃いのスーツ姿。
切り揃えられた髪にキッチリと七三分けという、形式は整っている。
もちろん髭も綺麗にあたられているのだが――どういうわけか、真っ当な社会人には決して見えない。
天奈を受け入れた段階で、美和子は悟らざるを得なかった。
この男は――
『初めまして。俺は青田です。今、貴家が抱える問題について、説明させていただくべく参上しました』
名乗られてしまった。
やはりこの男は「青田」だ。
角谷家と古い付き合いのある月苗家。
その月苗家において、ほとんど賓客扱いされていると言われている男だ。何か重大な問題を学生の身で片付けてしまったとも……
そして御瑠川天奈という女性と青田は、随分親しいという話も美和子は聞いている。何故このタイミングで? と美和子は呪いたくもなったが、この二人ならば、という期待もある。
それを見透かしたように、青田はさらに話し続けた。
『ある程度のお時間いただきたい。御瑠川がある程度は調べていたんですが、間に合わなかったようです。ですが、事ここに至るまでの経緯も説明できるかと』
「ご、ご存じなのでしょうか? 青田様に御瑠川様も」
美和子は思わずインターホンに縋ってしまった。「説明」こそが美和子が最も欲していたものだからだ。まずそれがわからなければ、手の打ちようがない。
――「手の打ち方」を間違えるわけにはいかないのだ。いや手を打つべきかどうかさえも、現状ではわからないことばかりなのだから。
そして、それに答える天奈の言葉は確かに的を射たものだった。
『そもそも、この問題について最初に亜耶子さんから相談を伺っていたのは私なのです』
最初。
その言葉が持つ魔力に、美和子は引きずりこまれた。そして――
「お、お入り下さい」
『では、お邪魔します』
美和子の躊躇いを踏み潰すように、青田が即座に了承してしまった。もう、引き返すことは出来ない。
二人を奥の居間に案内し、茶の用意をして美和子が腰を下ろすと、青田がまず儀礼的に、
「お構いなく」
と応じた。
これで角谷邸への訪問――その主体となっているのは青田らしいと美和子は悟らざるを得なかった。
床の間に正対する場所に腰を下ろすのは青田。その斜め後ろに天奈が控えている。
二人とも座布団を外してはいたが、細かいところで礼儀に適っていない部分があった。半端に知っているのか――
「どうぞ。おかけ下さい」
仕方なく美和子がそう告げると、二人とも座布団に腰掛け直した。
何か、ずっとプレッシャーを掛けられているような錯覚を美和子は感じる。
まず二人とも茶に手をつけない。まるで敵地での振る舞いのようだ。
そして青田の姿勢。あまりに整いすぎていて、正対する美和子はずっとダメ出しをされているような……そんな気弱な心が美和子を苛んでいた。
「手短に済ませましょう。気持ちの良いお話では無い」
出し抜けに青田は始めた。
美和子はその宣言に言葉を失った。
「ですから俺を憎んで下さって結構。娘さんを今の状態に追い込んだのは俺ですから」
「な、なに……を……」
さらに続けての犯行声明。
これでは美和子の心が保つはずがない。
「娘さんには適切な療法を。どのみち彼女は学校に馴染めるような状態では無かった。それはわかっていたはず。それを押しきったのは……まぁ、その点はよろしいでしょう。結局、誰もが被害者。そういう形に落とし込んで差し上げます。いや全員が加害者とするべきかも知れませんが」
青田の長広舌が始まった。
もちろん、美和子にはそれを留める方法も気概も無く。
ただただ、青田の「説明」を聞き続けた。美和子はある程度の事情を知っていた事も手伝い――ある意味では首謀者でもある――二時間ほどで青田の言葉は止まる。
それでも角谷邸の中庭は完全な夕闇に沈んでいた。すでに空には星が瞬いている。
「――全てが手遅れになるかどうかは、あなた次第でしょう。もう一度、ご自身を見つめ直すことをお勧めします。あなたは“母”であることに甘えすぎている。それは今の日本では許されないのですから」
それが“とどめ”だったのだろう。
完全に抜け殻になった美和子は、青田の言葉に反論出来ない。いやその前に反応すら出来ない。
深草家の母娘はこの日、青田によって両者とも壊されたようなものだ。
しかし青田の胸に悔恨の感情は無い。それはずっと傍らにいた天奈も同じ事だ。
「お暇するとしよう」
「そうね」
振り返って話しかける青田の言葉に、天奈が即座に反応したのがその証だ。
二人は美和子の反応を待たずに、勝手に角谷邸を辞去することにした。
ただ、奥の部屋にいるであろう布施にだけ、その旨を告げて。
残されたのは手も付けられないまま冷め、澱で濁った茶だけだった。
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