弱者

 そして月曜日の学校は、さらに亜耶子に対して大人である事を要求した。

 まず靴箱に上履きが無い。代わりに金曜日よりはバリエーションの増えたゴミが詰め込まれている。

 亜耶子はそれに構わずに、近くのゴミ箱から順番に上履きが放り込まれていないかを確認してゆく。もちろん土足のままで。

 相手は

 それが全ては無いだろうが、明らかにこの相手は事が大きくなるのを嫌がっている“ふし”がある。だから、本格的に上履きをダメにしたりはしない。亜耶子の勘違いで済ませる事が出来る範囲に隠すことが精一杯だ。

 もちろん本当に隠してしまうこともしない。あくまで紛れ込んだ、で押し通せるあたりに――そして、その亜耶子の“読み”は的確だった。

 トイレのゴミ箱に上履きが放り込まれているのを亜耶子は発見した。

 ただ壊されてはいないが、汚されてはいる。黒と赤。ごくありきたりなマジックの色で、


 バカ。

 気持ち悪い。

 ブス。

 消えちゃえ。


 などという、ありきたりな単語。

 それを誤魔化すように、いくつも重ねて書き殴られていた。

 それぞれの筆跡は違う。これはきっと、イジメに参加するかどうかを確認するための誓約書みたいなものなのだろう――つまり首謀者、あるいは指導者がいる。

 そして学校から持ち出す物でなければ、制限が随分緩むらしい。逆に考えると、制限が付くものなら、思い切った事はしてこないと言うことになる。

 やはり温い。これではどこまで行っても命を脅かされる心配はしなくて良いだろう。それでも望みを持つのなら、このイジメを指揮している者がいる。

 が何も知らない事はあり得ないだろう。

 そして濡れてもいない上履きに履き替えて、靴は手で持つことにした。靴箱にそれを入れるだけのスペースを作ることが面倒だったからだ。

 ただ、週末を丸々明け渡したのに、この程度の事しか出来ないとは。亜耶子が怒りを覚えるなら、そんなイジメ方の不甲斐無さについてだ。さすがお嬢様だ。

 亜耶子は怒りながら、笑み浮かべた。

 そしてそんな亜耶子を遠巻きに見ているだけの加路女学院の生徒たち。亜耶子はハッキリとわかる蔑みの表情のまま、階段を登る。

 だが、突き落とされることも無い。何しろ誰も亜耶子に近付こうとしないからだ。これでは警戒するだけバカみたいだ。命を狙うなら絶好の機会なのに。

 そのまま2-Cに到着し、自分の席を確認してみると机に書き殴られているのは、語彙の乏しい、定型文の様に感じる幼い悪口だけ。

 全然足らない。どうして親兄弟の……ああ、家同士のいざこざにになるのを恐れているのか。だからこんな中途半端なことになってしまうのか。

 これでは単に、亜耶子を特別扱いしているだけ。亜耶子はまるで幼稚園に迷い込んだような気持ちになる。誕生日に座ることが出来る特別な席。それを飾り立てることとやっていることは変わらない。

 だが、間違った子供たちは叱らなくてはならない。

 亜耶子は手に持っていた靴を自分の机の上に勢いよく置いた。机に悪口を書いた者を、そのまま踏み潰すかのように。

「な……!」

「ヒッ!」「ど、どうして……」

 クラスメイトという集団に堕ちていった人間たちの悲鳴が聞こえる。亜耶子はそれに構わずに、椅子を引いた。当たり前にゴミが載せられている。

 そこで亜耶子は、クラスメイトの一人に名前を与える事にした。

「琉架」

 亜耶子がその名を告げると同時に、教室の空気が瞬時にして濁った。負の感情がどうしても視界を歪めてしまうからだろう。

 そんな空気の名か、亜耶子は琉架に要求した。

「ハンカチ」

「あ、あの……」

「役立たず」

 亜耶子はすぐにそう言い捨てて、自らのハンカチで椅子の上のゴミをはたき落とした。

 琉架を一瞥もせずに。お前はチャンスを捨てたのだと言わんばかりに。

「な、なにを……」

 全然別の方向から声が上がる。圭子だ。そして珠恵も、ハッキリとわかる敵意――いやそれを越える害意で染まった眼差しで亜耶子を睨んでいた。

 だが実際に危害を加える事は無い。ただ吠えるだけの子犬だ。

「何? 相変わらず一緒にいないと何も出来ないの?」

 亜耶子がそういった瞬間、二人の顔が朱に染まった。激昂は間違いないだろう。しかし直接殴りかかってくることは無い。

 なるほど、ある程度の“しきたり”は弁えているらしいが、ここで怒り出すところを見ると、この二人もやはりリーダーでは無いらしい。一体誰なのか――亜耶子が改めてぐるりと教室内を見渡すと、全員がその視線を躱すように身を縮込ませる。

 そのまましばらく睨み合いが続く中、

「――朝礼するわよ」

 木ノ下がそう言いながら教室に入ってくる。同時に、濁ったチャイムの音が聞こえてきた。するとそれを追いかけるようにクラスメイトがあっという間に、それぞれの席に着いた。

 それだけは練習していたのだろう。亜耶子の机を隠すつもりでもあったのか。だがそれも無駄な努力だ。綺麗に席に座ってるだけでは隠せるはずもない。

 それに学校はこんな時に何もしないと言うことを、クラスメイトはわかっていない。そこが亜耶子にとっては本当に嗤うべきところで――

「……出席を取ります」

 木ノ下は早々に判断したようだ。

 この教室にイジメは無いと。

 そしてソレは正しい認識だ――亜耶子は自分の席に腰を下ろし、悠然と名前を呼ばれるのを待った。

 転校生である亜耶子は、一番最後に呼ばれることになる。それまで……いや、相手がしっぽを出すまで、待っていれば良い。

 ……どうせ、命を脅かされることは無いのだから。


 そして水曜日。概ね、似たような手筈で亜耶子は再び水を被せられた。

 今度はゴミを被せられたあとだから、見た目はさらに悲惨な事になっている。

 だがそれでも、亜耶子の瞳に変化はなかった。変わらずにクラスメイトを見下ろしている。

「あんた……一体何なのよ!? 何が目的なの?」

 今度のわかりやすい変化は、水をかけた相手がわかっていることだろう。

 鈴原芽依。

 火曜日に黎子が視線で助けを求めた相手。そして恐らくは、イジメの首謀者だ。思い返してみると、琉架に何かの指示を出していたような記憶もある。

 亜耶子があまりにも動じないので、逆に追い詰められているのか、ツインテールに結わえた幼い髪型に醜悪さを感じさせるほど、その表情は歪んでいた。

 元々アンバランスな子であったのだろう。亜耶子の揺さぶりで、精神のバランスを保てなくなっている。

「とりあえず、わたしの運転手にどう言い訳するのかが見物ね。さすがに怪しく思うんだけど」

「くっ……」

「まさか考えてないの? まぁ、好きにすれば良いわ。あなたが、いえ、あなた達が六月に起こったことを教えてくれるなら、言い訳を一緒に――」

 一息に恫喝しようとしていた亜耶子は、教室の空気がいきなり硬質化したことを感じた。いや単に固くなったわけでは無い。いきなり刃を突きつけられたような。

 敵意、害意、そして――殺意。

 とうとう、そこまでの感情に発展したのか。いやこれも未来からの呪いがついに成し遂げた結果なのか。

 命を脅かされる。

 亜耶子は今、それを強烈に感じ始めていた。このままでは殺される。だがクラスメイトに殺されるなら、見えない女の子が出現した理由は一体何だ?

 クラスメイトが誰も知らない、あの櫛を……それに六月って……

「あんた……やっぱり……」

 殺意の籠もった眼差しで芽依が亜耶子を睨んでいる。しかしクラスメイトに殺されるなら、別にどうということは無いのだ。

 呪い。

 見えない女の子。

 それがどうしてもノイズになって、亜耶子の心をかき乱す。

 だからこその「呪い」なのか。

 そして、その呪いの形を見続けていたクラスメイトは――そこまで考えて、亜耶子も気付いた。このクラスもまた、呪われていると言うことを。

 そして、その呪いから逃れるために亜耶子を生贄にしようと考えたのではないか?   

 何しろ同じ顔――らしいし、そこに突破の糸口を求めたのかも知れない。

 そしてそれは……恐らく「当たり」だ。確実に、この教室にかかっている呪いは自分に関係がある。

 亜耶子は確信した。呪いと、クラスメイトが間違っている事に。

 今更、自分を殺してもどうにもならない。問題は六月だ。それを口にしない。

 そのまま、クラスメイトが自分を殺してしまえば……恐らく呪いは完成する。

 それはそれで胸がすく想いだが、やはり殺されるのはイヤだ。どうしようも無く、当たり前にイヤだ。

 だからこそ――

「――シャワー使えるのよね?」

 いきなり、亜耶子の瞳が冷めた。

 どちらにしても、こいつらには自分は殺せない。それは喜ばしいことであるはずなのに、やはり蔑んでしまう気持ちもある。

 どうしても失格なのだ。こいつらは。つまりこれ以上相手をする必要は無い。相手をするのなら……

 亜耶子は鼻で笑った。クラスメイト全員を侮辱してることがわかるように。

「わたしは良いけど、このままじゃ、あなた達が破滅よ。親切に教えてあげる――ね? 鈴原さん」

「ど、どうするつもり?」

 返事が出来るだけ立派だと褒めるべきなのか。恐らく今は、首謀者である事の恐怖が襲いかかっているに違いない。

 首謀者はいつしか、そういったプレッシャーに襲われることになるのだ。

 亜耶子はそれを知っている。

 だからこそ、亜耶子は――

「わたしは特に何もしないわ。勝手に怯えていれば良い」

 そう。

 何もしないのだ。

「も、もう止めて!!」

 誰かの声――ひなの声だ。

 また何かを見てしまったのだろう。亜耶子はそれを捨て置いて、教室をあとにした。教室の外には、青ざめた表情の木ノ下がいる。

 その姿を見ても、亜耶子の心は騒がない。


 ――そんなものだろう。


 そういった、慣れ親しんだ諦めがあるだけだった。

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