始まり(二)

 何の不思議もない。むしろ亜耶子は納得までしてしまう。学校とはそういう場所なのだから。

 亜耶子は返礼するように振り返ると、笑みを浮かべた。

 クラスメイト――何という、便利な言葉だろう――たちは、全員が個性を捨てたように表情を捨て、ただ虚ろな瞳で亜耶子を観察するだけ。

 まるで機械の群れだ。それは恐ろしく感じるべきなのだろう――通常の状態なら。

 だが亜耶子は、元々自分が自分に呪われていると考えていたのだ。そしてその行き着く先は“死”だと。

 では、このイジメは一体何なのか?

 ゴミを机の中に押し込む? それでどうやって自分の命を脅かす事が出来るというのか。

 温い。あまりにも温い。このクラスメイトのやり口はまったく温い。これでは、呪いもままなら無い。

 つまり、呪いとクラスメイトはまったく関係無いのだ。

 亜耶子としてはただ面倒になっただけ。ただ周囲で子供がはしゃいでいるだけ。すでに大人としての対処を身につけている自分にとっては、本当に取るに足りないような、些細な変化だ。

「は、はははは……」

 だから嗤う事ぐらいは許されるだろう。クラスメイトが感情を殺すというのなら、自分は嗤いでそれに応えよう。

 それぐらいは許されるはずだ。

 嗤いながら、亜耶子の頭の中の冷めた部分が悟る。

 あのタイミングで、話しかけてきた芦切ひな。それに淡口琉架。完全に敵に回った。そう理解出来る。

 時間を稼いで、亜耶子の机、それにロッカーに“いたずら”するための時間を稼ぐことが目的なのだろう。そして廊下に点在していたクラスメイトたちは、全員が見張りだ。

 知っている。亜耶子はそのやり方を知っている。

 だが、それは子供のやり方だ。ずっと前から命の危機に怯えていた亜耶子にとっては、

 ――クラスメイト全員で企んでも、こんな事しか出来ないのか?

 逆に怒りが湧いてくる。でもやはりその感情は、嗤いに収束されてしまうのだ。クラスメイトも、そして自分の状況も。

 嗤う以外に一体何が出来るというのか。

 亜耶子はさらに嗤い続けた。そんな亜耶子の姿を見ている――見せつけられているクラスメイトの視線に感情が交ざり始めていた。

 敵意、だけでは無い。戸惑い、哀しみ、そして恐怖。それはまるで、亜耶子を“見えない女の子”に比するように。

 そしてそれが、この教室の“いつも通り”だということに亜耶子は気付き、また嗤い出した。呪いがどんどん形になってゆく。

 それは本当に笑うしかなくて――

「何? 誰が笑ってるの?」

 木ノ下が教室に現れた。すぐに教室の中の異様な雰囲気に気付く。教室の壁に張り付いていた生徒たち。教室の中央に異様な空白が出来上がっている。

 そして亜耶子が一人、自分の席の前で立ち尽くしていた。この状態では誰が笑っていたのか、訊くまでもないだろう。

 木ノ下と亜耶子の視線が交わるが、木ノ下もまた感情を映さない――いや感情を沈めた瞳で亜耶子を見遣るだけだった。

「……終礼するわよ。席に戻って」

 その言葉に従って、ノロノロとクラスメイトが席に戻ってゆく。まるでパズルゲームのように席が埋まってゆき、学級という名のパズルが完成した。

 まさに学校だった。亜耶子の知る学校だった。

 だから何をしても無駄なのだ。亜耶子はそれを良く知っている。


 靴箱にも、同じ“いたずら”が施されていた。教室と違って、ここなら目も行き届かない。2-C全てが敵に回ったのなら、何も不思議なところは無い。亜耶子はそう判断した。

 結局、温いのだ。ただゴミを詰め込んだだけの“いたずら”では。むしろ、ゴミを用意する方が、よほど苦労しているのでは無いか? と気遣うことすら亜耶子には出来た。

 靴を引っ張り出してみるが、何処にも破損は求められない。ビショビショにされてもいないようだ。

 ただ、埃っぽくなっただけ。一体やる気があるのか? と今度は怒り出してしまいそうになる亜耶子。それを沈めるために、靴をひっくり返して中につまっていた、ゴミをその場にぶちまけた。

 それにつれて奏でられるはずの固い音が聞こえてこない。画鋲の類いは使っていないらしい。ただゴミを詰め込まれただけ。

 本当に何がしたいのか? 亜耶子は舌打ちを一つ。その勢いに任せて靴箱の中に詰められていたゴミを掻きだしてみた。

 やはり固い物はない。基本的には紙の切れ端。それに布だ。となると、昨日の段階で準備していたのだろう。

 ふと思いついて、布を広げてみるが、下着などでは無いようだ。汚れているわけではないし、濡れているわけでは無い。

 虫の死骸が混ざっているのを見つけたとき、亜耶子の口元に笑みが閃いた。「よく頑張った」と言いたくなってしまったのだ。

 そんな亜耶子の姿を、遠巻きに見ている生徒たち。その中にはクラスメイトもいるのだろう。もう亜耶子には見分けが付かないが。元々、名前と顔が一致しない子ばかりなのだ。

 自分と似た、長い髪の持ち主――その長い髪だけが浮き上がって見える。

 このゴミを片付けさせる流れまで用意しているのか? と警戒し、心を強くして構えていた亜耶子だったが、そういった声が上がることは無かった。それどころか、不気味なほどの静けさがある。

 良く晴れた午後の日差しが、逆に違和感をかき立てるような異常な空気。

 亜耶子はしばらく周囲を睨みつけていたが、何処からも声が上がらないのを確認して肩を落とした。説教に現れるであろう教諭の誰かを、憂さ晴らしのためにやり込めようとしていたのに、飛んだ肩すかしだ。

 亜耶子は靴をその場に落とすと、踏みつぶすようにそれを履いた。

 まるで何事も無かったかのように。

 いや実際、亜耶子にとっては何事も無かった事と同然なのだろう。そのまま田中の待つロータリーへと向かう。

 来るべき週末に、何かがあるのか……

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