礼拝堂(二)

「あれ? 深草さん。どうかした?」

 ひなは、ここでもあっけらかんと亜耶子に尋ねてきた。しかしそれは、ひなさえ亜耶子の変化に気付いたと言うことだ。亜耶子は懸命に頭を振りながら、何とか言い訳を考える。

「ご、ごめんなさい……芦切さんの説明が上手いから、ちょっと想像しすぎちゃったみたい。それで、別に櫛だけが浮かんでなかったのよね」

「ああ、そういう……まぁ、そうね。実際は櫛を取り巻くモヤがあったわけだけど。最初はよくわからなかったし。わたしはそういうモノが見える性質たちだったから。特に珍しくは無かったのよ。この学校で見たのは初めてだったけど」

「霊感とか……そういうものよね。それじゃ、やっぱり霊……なの?」

「ごめん。それはわからないわ。ただ、わたしはそんな風に感じた」

「そうか……」

 亜耶子としても、それ以上は追求のしようがない。

「そ、それからしばらくあとだよね? みんなが見るようになったの」

 会話が止まったことを気にしたのか、琉架が声を出した。それにひなが鷹揚に応じる。

「そうね。ああ、その点で言えば霊では無いのかしら? みんなが見えるって言うのはやっぱり変だと思うし」

「それは変なんだ……でも、それはそうよね。全員が見えてるんだから……」

「そう。だから深草さんが転校してきたときは、ビックリして、何となく納得しちゃった。でも、よくよく考えたら納得出来るはずはないのよね。全部とにかく、話がおかしいんだし」

「ああ、それは、そう思ってくれるのね」

 それを安心のための材料とするのは、明らかに間違っていると亜耶子もわかっていた。しかし、わかっていてもなお、どうしても安堵してしまう。この不条理を感じるものが一人だけではないという、何か道連れ的な感覚が。

「でも、どうしようもないでしょ? 結局わたしは見ている事しか出来なかったんだけど……」

「あの悲鳴ね」

 ひなはどんどんと話を先にすすめた。亜耶子もそれに釣られるように、応じてしまう。どのみち、あの悲鳴については聞かなければならないのだ。

「そう。ああっと、多分わたしが一番って事で、話を進めてるんだけど――」

「そうだわ。確かにその話があったわね。でも、それで間違いないんじゃないかしら? 最初の櫛が見えたりとか……」

「でも、あれは見やすいんだよ?」

 ひなは、あっさりと亜耶子の言葉に疑問を差し挟んできた。

 櫛にこだわりすぎてしまった――一瞬、亜耶子は目を逸らしてしまったが、すぐに言い訳を思いつく。

「く、櫛じゃなくて、最初に見えたのが芦切さんだってこと」

「ああ、そっちか。うん、そう考えると確かにわたしかもしれないね。一番良く見えるから、一番先に気付いた」

「それで良いと思う」

「でも。それだとねぇ……」

 初めてひなが言い淀んだ。そこで亜耶子はひなの向こう側に座っている琉架に視線を向けた。それに対して、琉架は首を横に振って応じる。琉架もそこから先はよくわからないらしい。つまり悲鳴を上げるような“何か”を見ていない、ということだ。

 こうなると是非にもひなから話を聞き出さなければならない。

 亜耶子は覚悟を決めた。

「聞かせて。知っておかないと、どうしようも無いと思うし」

「それはそうだと思うんだけど……気持ちの良い話じゃ無いよ?」

「それは最初から、そうだと思うわ」

「そんなに聞きたい? それじゃええとね……まずね、制服がボロボロなのよ。わたしが見た時は」

「ボロボロ? この制服が?」

 亜耶子は制服の裾をつまみ上げた。

「うん。まぁ、破れたりはしてないんだけど……汚れてるって言った方が良いのかな? そんな感じ」

「じゃ、じゃあ、それで悲鳴を?」

 琉架が割り込んで尋ねてきた。

「ああ、琉架ちゃんは見えなかったんだ。場所も……例のがまず教室の前に現れてね」

 ひなが唾を飲み込んだ。

「最初は、いつも通りフラッとしてたのよね。それはまぁ、授業中だし、無視するしかないでしょ? そうしたら、わたしの前で止まってね。それで凄い顔で――」

 そこから先は説明の必要は無いだろう。

 どうしようも無くそれを想像してしまった亜耶子は、自分の身体を抱きしめてしまう。自分と同じ顔をした得体の知れないモノが、恐ろしい表情をしている。

 それはやはり、なにかの予知……あるいは予言。

 つまり、これから先の未来において自分が――

「ねぇ、深草さん。やっぱり危ないんじゃないかしら?」

 まさに亜耶子が思い浮かべていた懸念を、ひなは口にした。亜耶子はハッとなって思わずひなを見つめてしまう。

 ひなが悲鳴を上げてしまった表情とは、まさにこうであったのでは無いかと思わせるほど切迫した表情で。

 ひなもまた息をのんだ。まるで自らの恐怖の記憶を思い出したように。

「亜耶子ちゃん、やっぱり止めた方が良いよ」

 琉架もまた、ひなと同意見であるようだ。だが、それを受け入れたとして、いったいどうすれば「止めた」ことになるのか。そこがまずわからない。それにやめたとしても……

「わたしは休んでたから見てたわけじゃないんだけど、新堂さんたちとケンカになりかけたんだって?」

 ひながさらに言葉を重ねた。

「ケンカというか……確かに、雰囲気は悪くなったと思うわ。でも、それは……」

 自分が呪われているかも知れないのだから、空気が悪くなっても、それは無視しても仕方ないだろう。現に、あそこで揉めたからこそ、亜耶子はひなから話を聞くことが出来たのだから。

 亜耶子の結論としてはそうならざるを得ない。

「ああいうことを止めろってことなら、わたしはそれは出来ない。芦切さんの話を聞いて尚更そう思った」

「……でも、何だか刺激してるみたいなんだけど」

 ひながそれでも反論してくる。亜耶子はそれに苛つきながらも、努めて冷静に心の内でひなへの反論を組み立てようとした。それは先日、天奈に言われた「大人の対応」というものを思い出した事も大きい。

 亜耶子はしばらく黙り込み、今までの出来事を思い返してみる。その時、書見台に残したままの文献に目がいった。そのページを開いたのは完全に偶然だ。強いて言えば真ん中ぐらいを目指したという理由しか無い。

 開かれたページに載せられていたのは、ロシア正教において重要な役割を果たすイコンの写真だった。黄金で飾られた、かなり豪華な物。

 その中で聖人――なのだろう――が、やはり聖書を開いている姿が写されている。亜耶子はそれに天啓を受けたわけでは無いだろうが、そこでページを捲るように、自分の記憶を順番に並べる事に成功した。

 ひなの言っていることは確かに説得力があったのだが、やはり順番がおかしい事に気付く。

「――確かに、わたしは教室の雰囲気を悪くしたのかも知れないわ。それが、その女の子に悪影響を与えたのかも知れない」

「なら――」

「でも。芦切さんが、その怖い女の子を見たのは、それよりも前になるわよね?」

「あ……」

 そうなのだ。ひなの言うことは確かに正しいように思えるのだが、現象としては矛盾を抱えている。

「そ、それだと……どうなるのかな?」

 琉架が、心配そうに尋ねてきた。亜耶子はそれに対して切り捨てるように応じた。

「とにかく、今の段階では手遅れということなんでしょうね。今更わたしが“止めた”としても、結局女の子の変化は止められないんだから」

 それは恐怖を感じるべき結論なのだろう。だが、いまさらそれを言っても仕方がない。何らかの対処の仕方があるとするなら、それはもう天奈経由でしか現れてこないのではないか?

 そういった覚悟が亜耶子に変化をもたらしたのか、ここでも亜耶子は琉架とひなを圧倒してしまった。刹那のこととわかってはいるが、亜耶子は昂ぶる。そして安定した心の余裕が、再び天奈の言葉を思い出させた。

「――ありがとう、芦切さん。それに琉架も。もうそろそろ時間ね。帰りましょうか」

 そう言って亜耶子は一人で立ち上がり、書見台の上の書籍を閉じた。ひなに聞くべき事は聞いた、と宣言するかのように。

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