点在(一)
亜耶子が越してきたこの街は、かつての武家屋敷を思わせる屋敷が軒を並べている。かと言って、由緒あると言う程の歴史がない事は明白で――歴史を鑑みればわかることだ――それでも贔屓目で見れば、そういった由緒ある屋敷の別宅。
穿った見方をすれば、成金たちが武家屋敷の真似をして街ごとでっち上げた感もある。実際、この辺りが住宅街として造成されたのは昭和に入ってからなのだ。
だがそれでも令和の今となっては、十分に歴史を積み重ねているようにも見えるだろう。
塀、生け垣、そして小さな橙色の花をつけている
亜耶子は自分のその感覚、そして自分の判断がおかしくて、ふと笑みをこぼした。
「――亜耶子さん、何か楽しいことでもありましたか?」
角谷家に仕える運転手の田中が、亜耶子の笑みに気付いたのか、そんな風に声を掛けてきた。学校に通うようになってから、ずっと田中に送り迎えして貰っている亜耶子であったが、話しかけられるのは随分久しぶりだ。
最初は田中もあれこれ亜耶子に話しかけていたのだが、次第に何も言わなくなっていた。亜耶子からの返事が無かったからだろう。
しかし亜耶子の笑みを見たことで改めて話しかけてきたようだ。
田中は五十代で頭髪が随分薄くなった、普通のおじさん、以外には説明のしようがない没個性な見た目だ。銀縁の眼鏡がそれを強調しているようにも感じられる。
角谷家で運転手となって、そろそろ十年。大過なく務めを果たして来ているが、それは特別に田中が優秀というわけでは無いだろう。何かしらのコネがあって、角谷家に拾われた、という辺りが本当のようだ。
朋代は自分の車を持っていたし、今の当主夫婦はそれほど頻繁に出歩いたわけでは無い。ハッキリ言えばかなり暇だったのだろう。
かと言って亜耶子の存在を邪魔に思っているわけでもなさそうで、仕事があることに喜びさえ感じているようだ。
「ええ、田中さん。今日は学校でちょっと」
そんな田中の
「そうですか。それは良かった。こちらに越して来られてから、しばらくはお元気が無いようでしたので」
「そんな……やっぱり環境が変わるとね。心配させた?」
「いやいや。お元気になったようで何よりです。新しいお家に行かれても、たまに遊びに来られるんでしょう? その時は駅……いや、お宅まで迎えに参りますよ」
田中の発言は女の子へ向ける優しさと、主家への
「あ、あの、わたしが新しい家に行くって事は……」
「そう伺ってますよ。何か変更がおありになったんですか?」
逆に亜耶子は田中から尋ね返されてしまった。田中の持っている認識は、越したときに亜耶子が聞かされた情報からアップデートされていない状態のものだったらしい。亜耶子としては直近の美和子の思惑がわかるかと期待したのだが……
「いえ。わたしもそう聞かされています。ただ最近の母の様子が――」
「ああ、なるほど。なんとなく亜耶子さんの仰りたいことはわかる気がしますよ。ですけど、それは私には……」
「そうですよね。すいません。忘れて下さい」
「いえいえ。お気になさらずに。さ、到着ですよ」
亜耶子を乗せた車は、まだ陽の高いうちに角谷家に到着した。予定通りだが、やはり亜耶子はこう思ってしまうのだ。
これでは閉じ込められているのも同然だ、と。しかし改めてどこかに遊びに行くとしても、その伝手が無い。
やはり先日の天奈とのお茶会は特別だったのだ。亜耶子はその想いを強くしていた。
そのまま部屋に戻り、部屋着然としたピンク色のトレーナー。それとデニムのミニに着替える。亜耶子の部屋は八畳ほどだが、和室では無く洋間に改装されていた。
ベッドをはじめとしてごく普通の調度品が並べられており、決して広さは感じられない。元は朋代が使っていた部屋で、家具もほとんど譲り受けた形だ。
着替えながら、ハンガーに吊していた制服を改めて眺めてしまう亜耶子。この制服を着た女の子が、あの教室に出現するという。
曇り空なのか窓から差し込んでくる光にも濁りがある。そのせいか今にも制服から手足が生えて迫ってくるような錯覚を亜耶子は覚えた。しかも、その女の子の顔は自分そっくり。
部屋にはドレッサーもあるのだが、亜耶子はもう一月は鏡を覗いていない。どうしても不気味さが先に立つからだ。亜耶子は我知らず口元を押さえた。
今の自分の境遇に苛立つ亜耶子。わけのわからない“見えない女の子”なんて無視してしまえば良い。そう何度も考えた。だが――それを阻むのがあの櫛だ。
こちらに来てから櫛のことは誰にも言っていない。だから琉架が――クラスメイトが知っているはずはない。それなのに見えない女の子はあの櫛を挿しているという。
どうしたって説明出来ない。だから認めるしか無いのだ。見えなくとも、あの教室に女の子がいることを。
何度目かの建設的では無い結論に辿り着いた亜耶子は、そっと息を吐いた。離れで飼っているのだろう。何かの鳥の鳴き声がやけに耳にこびりついた。
亜耶子はそれを合図として再び動き出す。まず琉架に連絡した。芦切ひなと連絡を取りたい、と。
メッセージを送ってからしばらく待ってみるが、既読がつかないし当然返信も無い。こうなると手持ち無沙汰になるので、亜耶子は宿題に取りかかることにした。
引っ越して最初の頃は前の学校との進行の差に戸惑ったものだが、それは夏休みの間に計算してたこともあって、今は苦労するほどではない。三十分ほどで宿題を終わらせた。
もう一度確認してみたが、やはり既読にはならない。この状態では電話も無駄だろう。いよいよやることが無くなった亜耶子は、天奈にメッセージを送ろうとして――やめた。
結局、夕食の時間まで亜耶子はスマホを触り続ける事で時間を潰してしまった。これだけで割と簡単に時間を潰すことはできる。外出する選択肢もあったが、亜耶子はそれを選ばなかった。
空模様の怪しさもあったし、何より何処に行けば良いのかわからない。それこそスマホと相談すれば良いのだろうが、そういった気力も湧いてこない。
学校での朝のやり取りだけで、随分疲弊していると亜耶子は悟らざるを得なかった。いっそこのまま横になろうか。そんな風に亜耶子が考えた矢先、
「亜耶子さん。ご夕食のお時間です」
布施から声が掛けられた。布施はノックの習慣がない。この部屋は洋間であるのでノックが相応しいのだろうが、そういった習慣は受け付けないと言わんばかりに、布施はノックをしない。
朋代の話では亜耶子だけ特別扱いしているわけでは無く、昔からそうだったらしい。
「ノックしておけば、あとは勝手に入って良い、とかやる人よりもずっと良いでしょ? そういう親が多いんだって」
朋代は、そう言って笑っていたが慣れない亜耶子にとっては、やはり違和感を感じてしまう。そして、その違和感を感じる相手が作るご飯を食べなくてはならないことも亜耶子は負担に感じていた。
美味しくないわけでは無い。むしろ美味しいと感じる。母の料理が恋しく感じるほど子供では無いし、そもそも美和子と布施の味はよく似ているのだから。
でもそれはやはり「家庭の味」ではない。ずっと外食が続いているような感覚だ。
そんな鬱々とした気分で亜耶子が食堂に向かうと、すでに美和子が待っていた。亜耶子にとって救いを見出すなら、食事はテーブルで摂ることになっている点だろう。
祖父母、あるいはそのどちらかが足を悪くして、テーブル席の方が楽だと言うことで、こちらもまた最近改装したらしい。
「朋代は遅くなるらしいわ。先にいただきましょう」
そういった部屋であるのに、美和子はやはり和装のままだ。それにどうしようも無い違和感を感じながら、亜耶子は箸をとった。
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