見えない女の子(一)

 週末は終わり、天奈からの連絡が無いまま亜耶子は登校することになった。休むことは美和子が許すはずも無く、車で通うのだから途中で逃げることも出来ない。

 先週までは、それが亜耶子を追い込んでいたのだが、今は随分と余裕ができたように亜耶子は感じていた。

 天奈と知り合えたことは、亜耶子にとってはそれほど大きな影響をもたらしていたのだ。鼻歌を歌うまでは行かないが、顔を上げることが出来ただけでも随分と見える景色が違う。

 ロータリーに亜耶子を送ってきた高級国産車がとまり、わざわざ運転手にドアを開けさせること無く、亜耶子は自らの手でドアを開けた。空気がさすがにひんやりとしてきていた。

 すでに衣替えも終わっている。行き交う黒のセーラー服に緋色の三角タイにまで、先週の亜耶子は畏れていた。

 どうかすると“死”を連想させるから。そして緋色のタイは血の色を思い出させる。そういった単純な連想よりも恐ろしかったのは“見えない女の子”も同じ出で立ちであるという事だ。

 何しろ没個性の象徴である制服姿の生徒たちが多くいる。髪が長ければ、後ろ姿は似たようなものになってしまうのだ。

 亜耶子はこの学校に来てから僅か一月半ほど。これでは、後ろ姿だけで判別できるはずも無い。

 髪の長い女生徒が本当に“見えている”のかどうかも――先週までの加路女学院は亜耶子にとって本当の魔窟だったのである。

 だが今は亜耶子は、まだ大丈夫だった。天奈の知己を得たことが、それほどに亜耶子の心を強くしていたのだ。

 だから三階の教室まで向かう足取りも、軽やかでは無かったが、しっかりしたものだった。周囲からの視線に怯えることも無い。

 亜耶子の席は転校してきたときのままだった。それに背の高い方だったので、それで不自由と言うことは無い。

 不自由だったのはただ“見えない女の子”についてだけ。そして、その問題についても天奈が何とかしてくれるはず。

 ――いや自分はただ待っているだけで良いのか?

 席に座りながら、そこまで考えることが出来るようになっていたことに、亜耶子は嬉しさを感じていた。

 興奮していたと言っても良い。

 そういった感情のままで亜耶子は視線を巡らせた。とは言っても目標は一つだけ。

「琉架!」

 クラス中に見せるつけるように亜耶子は琉架の名を呼んだ。琉架の席は窓際の二列目。小柄でおさげな彼女の姿は見間違うはずが無い。

 おずおずと琉架は亜耶子へと振り返った。その眼差しにはいつものように戸惑いが浮かんでいる。あるいは恐れ。会ったときから琉架はずっとそんな目をしていた。

 そして今はクラスメイト全員の亜耶子を見る眼差しは似たようなものだ。今もただ名前を呼んだだけというのに、一瞬にしてクラスの空気が緊張する。

 先週までの亜耶子なら、それによって逆に自分もオドオドしていたのだが、今は違う。

「琉架。話があるの。そっちに行っても良い?」

「う、ううん。わたしが行くよ」

 そんな亜耶子の変化に驚いたのだろう。振り返った眼鏡越しの琉架の瞳には、いつも以上の動揺が浮かんでいた。それを見て、亜耶子の心はどんどん昂ぶってゆく。

 勝った――という表現は確実に違う。何しろ「問題」は何も解決していないのだし、その理由もわからない。ただ、今自分は一人では無い。それが亜耶子を強くしていた。

 琉架が近付いてくる間にも、他のクラスメイトが亜耶子に見せびらかすようにひそひそ話をしているが、それも亜耶子にとって大した問題では無かった。

 今はただ“見えない女の子”について調べなければ。

「えっと……何かな?」

「決まってるでしょ。“見えない女の子”についてよ。今もいるの?」

「そ、それは……」

 琉架は中途半端に答えながら、教室をぐるりと見渡した。

「い、いない……かな?」

「ハッキリしないのね」

「そ、それはそうだよ。わたしはよく見えないことがあるって……」

「ああ確かに、そんな事を言っていたわね」

「ど、どうしたのかな? 亜耶子ちゃん。何だか元気になったみたい。あ、ええと、今まで元気がなかったというわけじゃ無いんだけど」

「そんな風に見える?」

 それは間違いなく亜耶子にとっては喜ばしい指摘だった。原因もハッキリわかる。でもそれを、亜耶子は琉架に告げることはしなかった。

 天奈のことを誰かに教える事が亜耶子にとってはもったいなく感じられたからだ。

 そしてその天奈を喜ばせるために、まだまだ自分には出来ることがある。亜耶子は改めて、次の一手を考えた。

「ねぇ、琉架」

「な、何かな?」

「それで、あの女の子を一番良く見える人って誰なの?」

「え?」

 琉架は亜耶子の問い掛けに固まってしまった。今まで亜耶子からそんな質問をされたことが無かったからだ。

「……それを聞いてどうするの?」

「決まってるでしょ。話をちゃんと聴いてみるのよ。女の子について」

「それは……」

「新堂さんと江波さん? その二人には聞いたことあるのよ。この二人が一番見える?」

「ちょ、ちょっと待って」

 琉架が慌てて亜耶子を押しとどめた。

「そ、それは聞いてみないと……」

「わかった。じゃあ、私が聞いてみる」

「え、え? 亜耶子ちゃんが直接? だ、誰に?」

 亜耶子は、琉架の質問に答える必要を感じなかった。勢いよく立ち上がると二人――新堂しんどう圭子けいこ江波えなみ珠恵たまえの下へと歩を進めた。

 不意を突くつもりは全くなかったし、そんな事が出来ないことはわかりきっていた。二人はずっと、亜耶子と琉架の様子を窺っていたし、そもそもクラス中がそんな状態だったからだ。

 だからこそ亜耶子は今更コソコソする必要を感じなかった。どうせ見られている。それなら見せつけてやるぐらいの心構えでいた方が良い。

 逆に、亜耶子は改めて二人の様子を確認した。

 新堂圭子はショートカットで、身体も大きく男の子のような雰囲気があった。それを後押しするかのように目つきも鋭い。

 この女学院がっこうであるので、身なりはそこまで特徴的では無いが、他校であれば不良めいた制服を纏っていたことは想像に難くない。今も亜耶子を睨みつけている。

 もう一人の江波珠恵はそんな圭子とは一見対照的な雰囲気を持っているように見えた。長いウェーブのかかった髪を真っ白なカチューシャでまとめている。

 目は細く、全体的な身体の線も細い。色素自体も薄いようで、北欧あたりの血が入っているように見えた。

 しかし細い目の向こう側に覗く、やはり色素の薄い瞳は圭子以上に険しい。

 この二人はクラスの中で、本来なら浮いた存在になることが自然であるのかも知れない――亜耶子はそんな風に感じていた。

 だからこそ、琉架以外に“見えない女の子”の話を聞く相手として、亜耶子はこの二人に尋ねることになったのだから。

 しかし今は亜耶子がいる。そして“見えない女の子”もだ。そしてそれは自分にそっくりだと……亜耶子は心の中に芽生えかけた恐怖を無視する。

 その恐怖に比べれば、改めてこの二人に話しかけるハードルは限りなく低い。

「新堂さん、江波さん、聞いていたわよね?」

 亜耶子はスカートを翻しながら、二人が座っている廊下側中央の席へと近付いて行った。そしてスカートが落ち着きを取り戻す前に、亜耶子は二人に上から話しかけた。

「ああ……」

「深草さんの声は大きいからね」

 二人は、亜耶子から目を逸らすようにして声を返す。それは亜耶子に圧倒されているようにも見えたが、亜耶子にそっくりだという“見えない女の子”を恐れてのことかも知れなかった。

 亜耶子はそうと察しながらも、動揺はしなかった。それどころか胸を反らすようにして、さらに二人を睥睨する。

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