帰宅(二)
奥の居間とは庭に面した広縁を持つ二十畳ほどの広間のことだ。広縁との境には障子が設置されていて、灯りが障子越しにボンヤリと光っている。反対側は庭の暗さを呼び込むかのようなガラス戸。
まるで自然の中に無理矢理「調和」という概念を持ち込もうとしているようで、それも亜耶子がこの家に馴染めないと思っている部分だ。たまに遊びに来るぐらいなら、それをおもしろがる余裕もあったのだが住むとなると話は別だ。
父と一緒に住むことになる家は、出来ればマンションが良いと亜耶子は考えていた。一軒家は何か……不気味だ。
それは実家に帰ってからというもの、何だか母の様子が変わっていることも原因だろう。元々、母とは合わないものを感じていた亜耶子だ。それがこの角谷家に越してからは、それが強まったように感じる。
高圧的というか……
「姉さん、ご飯食べてからで良いでしょ? 亜耶子ちゃんもそんなに遅れてないし。ってゆーか、そもそもちゃんと門限決めてた?」
その点、朋代はまったく頓着しない。亜耶子にとっては高圧的な母だが、朋代にとっては姉でしか無い。そしてこの家は慣れ親しんだ朋代の実家だ。亜耶子と同じ感覚になるはずが無い。
無遠慮に障子戸を開ける朋代の姿に、亜耶子は頼もしさを感じていた。恐らく、自分だけではこの障子戸を開けることも出来なかっただろうと。
だが母はそんな亜耶子の胸の内を見透かしているからこそ、朋代を一緒に呼んだのかも知れない。そう思ってしまうと、全てが母の手の内か、と投げ出したくなることも確かな事だ。
「言われなくても、暗くなる前に帰ってくるのが当たり前の事よ」
美和子もまた数年ぶりに帰ってきたというのに、まるでこの家の主のような佇まいだ。いや実質的にはそうなのだろう。亜耶子の祖父母は存命中だが、半ば隠居のような状態だ。
美和子に細々した指示を任せて、食事すら離れに運ばせて、表に出てくることは無い。美和子が戻ってきたことで、これ幸いと角谷家を譲る流れになってしまえば……それを想像するだけでも亜耶子にとっては恐怖だった。
今も利休鼠の和装姿で、真っ直ぐに背筋を伸ばした姿が、自然と人を緊張させている。前の家では普通に洋服を着ていたのに、随分様子が違っている。
髪を鼈甲の髪留めでまとめ、怜悧と呼ばれるような雰囲気を身に纏っていた。
「お帰りなさい、亜耶子」
「う、うん、遅くなりそうだったのは謝るけど、ちゃんと……その、送って貰ったから」
「え? 天奈さん、そこまで来てたんだ。寄ってくれれば良いのに」
「そんな突然の訪問、わかっている方がするはず無いでしょう? ああ、でもそれで聞きたかった話は大体聞いてしまったようなものね」
美和子がため息をつきながらこぼした。
「え? それはどういう……」
「もう中学生なんだし、これぐらいの時間じゃ怒ったりはしないわ。夕ご飯の時間に遅れたわけでも無いし。ただ、お友達に会うとも、何処に行くとも聞いてなかったのよ。こちらに来てからお友達と遊びに行くこともそろそろあるかも知れないけど……」
そう言って、美和子はじっと亜耶子を見据えた。
天奈とのお茶の間にも、こういった状況は多々あったわけだが、亜耶子はそれ以上の居心地の悪さを感じてしまう。
「あ~、そうだったっけ? えっと……」
「朋代。私は亜耶子に聞いているの」
美和子は、ぴしゃりと言って朋代を黙らせた。こういうところが、本当に角谷家の当主のようで亜耶子はますます身を縮こまらせてしまう。だが、それ許してくれるで母では無いし、その辺りの言い訳は考えてあった。
それを懸命に亜耶子は口にする。
「こ、こっちに来て、それでもう向こうには戻らないと思うし」
亜耶子の確認に、美和子は鷹揚に頷いた。
「それで朋代叔母さんに、話を色々聞いて、将来っていうのは早すぎるかも知れないけど、そういう話を聞いてみたくなって」
「そう。そうなのよ」
朋代がそれを援護する。だがそれは、あまり助けにはならなかった。むしろ、亜耶子の嘘の足を引っ張りそうな感触すらある。
とは言っても、亜耶子が何のために天奈と会っていたのかは、美和子に伝えるわけにはいかない。嘘を補強するためにギリギリまで本当のことは言わないとしても、出来るだけ本当のところは打ち明けておきたいところだ。
「それじゃ、お友達に会っていたわけでは無いのね?」
「う、うん」
だからこそ美和子の確認に、亜耶子は正直に答えるしか無い。
「どういう方なの?」
「ああ、それなら大丈夫。私も知ってるし。どっちかって言うと私が紹介したんだもの。御瑠川さん」
「みるかわ……?」
「あ、あの、ちゃんと名刺をくれたの」
結局、ここまで持って来ていたバッグを開けて、亜耶子はもらった名刺を美和子に差し出した。
「そう。それなら安心しても良さそうね。これからも――」
美和子の言葉がそこで止まった。伏せていた顔を上げる亜耶子。そうすると、美和子は今まで亜耶子が見たことが無い表情を浮かべている。
「姉さん?」
朋代も訝しく思ったのだろう。僅かに腰を浮かべて、美和子に声を掛ける。
「いえ……ええ、大丈夫。それでどういうお仕事を?」
「うん。色んな会社の間を取り持ってね――」
今、確実に美和子は何かを誤魔化した。それがなんなのか? どう知った理由かはわからなかったが、確かに美和子は動揺している。
その動揺をもたらしたのは、間違いなく「御瑠川天奈」という名前。
名前だけで、亜耶子が苦手としている母にこれだけの影響を与える。
亜耶子が天奈を尊敬してしまうのも無理からぬ事で、それは同時に、そんな天奈と知り合えたことで亜耶子は自信を持つことが出来た。
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