「カフェ・ピッツベルニナ」(二)
ティーセットはもうテーブルに並べられていた。フレンチプレスとティースタンドに載せられた菓子が半分ほど姿を消し、とりあえず形式的には「お茶」の形式は整った、と言えるだろう。
亜耶子は結局ウヴァを頼み砂糖を入れ、それも半分ほど減っている。
良い頃合いである事は間違いない。ここまで二人は無言のままで、何のためにこの店を訪れたのか見失いそうな程の時間が経過している。
だがそれでも天奈は亜耶子を促すようなことはしなかった。いつの間にか、その手には文庫本が出現しており本当に亜耶子とお茶をしに来ただけのようにも感じられる。
亜耶子は、本当にそれだけで良いのではないか? とも考え始めていた。天奈のような女性と、特別な場所でお茶をすることが出来た。それだけで十分に価値のある時間を過ごせたようにも感じられたからだ。
店内に流れる曲は、定番ながらもサティ「ジムノペディ」。ゆったりとした時間が流れる。
だが――
「ジムノペディ」が内包する、心地よいだけでは無い歪みが、亜耶子を不安にさせた。そしてフレンチブレスに半分だけ残った琥珀色の液体。その液体に映る自分の口元。
微かに笑みの残滓があった。亜耶子はその笑みから逃れる様に思わず椅子を引いてしまう。それによって奏でられるのは、亜耶子が先程「偽物」と感じた虚ろな響き。
天奈は文庫本に落としていた視線を上げた。しかしそれでも尚、天奈は沈黙を守る。それは亜耶子にある種の安堵をもたらす効果があった。何もかもを口にしてしまうような人物では無いのだと。どんな荒唐無稽な話でも胸の裡にしまったままでいてくれると。
「……あの」
ついに亜耶子は決心した。天奈もそれを感じ取って文庫本を閉じ、小さく頷いて見せる。こんな時でも天奈は声を発することは無かった。
安易な慰めを口にしない。それだけ亜耶子の悩み事に本気で向かい合おうとしている。亜耶子はその信頼感に押されるようにして、さらに話し続ける事が出来た。
「学校で……ちょっと不思議なことがあったんです」
「不思議」
鸚鵡返しに天奈が呟いてしまったのは、その言葉の響きに違和感を感じたからだろう。だが、それも亜耶子にとっては呼び水の様な効果をもたらしたようだ。
「そうです。不思議としか言い様が無いんですけど、でもこれは怖い話だと思うんです」
「そう……亜耶子さんも、あ、ごめんなさい。“亜耶子さん”と呼ばせて貰って大丈夫?」
「は、はい。大丈夫です」
「それでは亜耶子さん。今はまだ怖くはないのね?」
その問いかけは、亜耶子の意表を突くものだったらしい。それほどに追い込まれていた――つまりそれが“怖い”と言うことの証明になってしまったのだが、その一方で、亜耶子は改めて自分自身を俯瞰することが出来たらしい。
俯いてしばらく考え込んだ亜耶子だが、やがて顔を上げ返事をした。
「怖くは……無いと思います。今はまだ」
それを聞いて天奈はゆっくりと頷いた。
「そういうイヤな予感――そういった予兆がある感じかしら?」
「いえ、そんなあやふやな感じでは無いんです。多分、わたしはこのままじゃいけないと思います」
それは天奈にとって予想以上に強い言葉であったのだろう。少し気圧されたように姿勢を正し、正面から亜耶子を見据えた。
「――亜耶子さん。これは私の持論なんだけど……」
「はい」
「あえて、その問題を短い言葉でまとめてみて貰える? それは、亜耶子さんにとっても助けになると思う」
「はい。わかります」
すでに亜耶子の中には天奈に導かれることの快感が芽生えていた。だからこそ素直に応じ、続いて懸命に自分の胸の内で言葉を組み替えていた。
単純に文法上の問題。そしてそれが自分が感じている怖さを伝えることが出来ているのか? そうやって亜耶子は何度も推敲を続ける。
問題点は見えている。それを表すのに適切な言葉も浮かんでいる。
ただ――それを口に出すこと。それがまず亜耶子にとっては怖かったのだ。しかし、その言葉以上に適した言葉が思いつけない。
もう逃げ道は無いのだ。亜耶子はそれを強く感じ、ずっと待ち続けていた天奈に向けて、ようやく言葉を紡ぎ始めた。
「わ、わたしの……」
「うん」
「そ、そうじゃなくて……わたしは呪われてると思うんです。その……わたし自身に」
助詞の選択にすら迷う亜耶子。しかしそれも仕方のない事かも知れない。
確かに短くまとまっていたが、その言葉の意味を咄嗟には理解出来ないのだから。
呪うとは、一般的には他者に向ける“感情”だ。それなのに自分自身を“呪う”――では出発点さえ見定められない。
天奈もすぐには理解出来なかった。いや時間を掛ければ理解出来ると言うものでもないだろう。
だが短くまとめることに意味が無かったわけでは無い。まず亜耶子自身が整理出来たこと。そしてゴールが見定まったこと。
「……まず亜耶子さんの抱えている問題が複雑なことは理解出来たと思うわ。だから次にそれを最初から順番に説明して貰える?」
「あ、あの、大体は叔母に……」
「亜耶子さんに教えてもらうことが大事な事なの。それに亜耶子さんも感じて貰えたと思う。誰かに説明する事は、亜耶子さんの助けになるわ」
「それは……そうですね」
同意するしか無い亜耶子。
そしてフレンチプレスから改めて紅茶を注ぎ、亜耶子は話し始めた。
亜耶子は夏休みの間に、こちらに越してきたらしい。理由は父親の仕事の都合と言う、ありきたりなものだった。
少し違った点を探すなら、その父親が越してくるのが二学期の中程になるという点だろう。だがこれは最初から決まっていたもの。亜耶子の転校への負担を考えて、夏休みの間に転校することになっただけだ。
特別変わったような経緯では無い。ままある、と想像するのに難くない手続きだ。亜耶子は大切に思われている、と言い換えても良いのかも知れない。
「亜耶子さん、ご兄弟は?」
天奈が、そんな想像から自然に行き当たった疑問を亜耶子に尋ねる。それで亜耶子も、こういった説明に意義を見出すことが出来たのだろう。少し照れた様ではあるが、しっかりとその問いに答えた。
「わたし一人です。兄弟はいません」
「そうなのね。そして転校……加路女学院ね。あそこの制服好きよ、私」
「あ、わたしも好きです」
加路女学院の制服は、黒を基調にしたセーラー服だ。三角タイは光沢のある緋色。
格調の高さが窺える仕立てになっている。それを学校側も自覚しているのか、夏場でも黒を選ぶことが推奨されていた。
半袖とはいえ、見ているだけで暑さを感じさせるほどだが、この学院に通う生徒たちは歩いて登校する生徒はほとんどいない。校門から校舎まで。その僅かな距離が、彼女たちが制服を陽にさらす機会でもある。
空調の効いている校舎に入ってしまえば、暑さを感じる暇もないだろう。
だからこその制服デザインと強弁出来る。
「そう。それなら転校自体には問題は無かったのね」
だが天奈がそう結論づけると、亜耶子の表情が曇った。
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