第41話 一歩、前へ

 涼しい風にしばらく当たり、落ち着いてきた頃、ふと手を掴んだままだったことを思い出した。

 

 汗をかいたせいで逆に冷えすぎたのだろうか、その手の温もりになんとなく名残惜しい気持ちは感じながらも、ずっとそうしているわけにもいかないので手を放すことにする。



「あっ」



 だが、その瞬間透が大きめの声をだし、そして自分の手を見つめた後、先ほどまで俺が掴んでいたところへ反対の手をそっと添えた。



「悪い、痛かったか?」


「そうじゃないんだけど…………ううん、大丈夫。ほら、あそこ空いてるから座ろ」


 

 思案気に何かを考えていたような彼女は、いたずらを思いついたような顔をして俺の手を強く掴んだ。

 


「あ、おい」


「ほらほら、早く」



 戸惑う俺を彼女が楽しそうに引いていく。先ほどまでとは真逆の光景の中で、しかしその笑顔だけは変わらないようだった。


 楽しそうなら、まぁいいか。

 

 そして、そのままボックス席に俺を座らせると、彼女は二人の荷物を反対側の席に置いて隣に座ってきた。

 


「ふふっ。楽しいね」


「なんか、近くないか?」



 彼女が自分の領土をどんどん広げ、必要以上に二人の体が触れ合う。

 腕全体が触れ合うほどの距離で体温が混ざり合い、徐々にどちらのものなのかわからなくなっていく感覚の中、楽し気な声が耳元で囁かれ、脳が揺さぶられる。

 

  

「これくらいがちょうどいいんだよ」


「…………まぁ、いいけどさ」




 肩に乗せられた頭から垂れた髪が首元をくすぐって、漂う甘い香りが嗅覚を満たす。


 何とも言えない感覚が頭を支配していく中、でもそれは決して不快なものでは無くて、俺は不思議な居心地の良さを感じていた。

 

 悪くないな、こういうのも。


 そして、俺達は特に何を話すでもなく、黙ってただお互いの存在を確認し合って時間を過ごした。






◆◆◆◆◆






 

 何度か乗り換えをした後、単線のディーゼル列車を降りると彼女の実家の最寄駅にようやく到着した。  


 まさに、田舎って感じの場所だ。


 蝉達の声が、自分の家の近くとは比較にならないほどの密度で鳴り響いていて、そこに壁があるようにも感じる。


 改札すらないホームに少し驚いているとそれに気づいたのか、透がクスクスと笑っていた。



「ふふっ。すごい田舎でしょ?」 


「ああ、ちょっとびっくりした」


 

 周りには自然が溢れており、遠くで軽トラが走っているのが見えるが、ほとんど人通りは無い。

 

 とりあえず、彼女が何かの小屋に近づいていくのでそれについていく。

 


「次のバスは…………うん、一時間ちょっと後だね。よかった。なんとか、夕方にはつけそう」

「なるほど。まぁ、よくわからんし任せるよ」


 

 茶ばんだ時刻表を見るとどうやら、三時間に一本しかバスが走って無いらしい。あまりにも不便な交通事情に若干苦笑する。


 だが、時間もすっかり昼過ぎだ。さすがに腹が減ってきた。



「どこか飯食えるところあるか?」


「ふっふっふ。それなら大丈夫だよ。ちゃんと誠君のためにお弁当作ってきたから」


 

 得意げな顔をした透は、保冷バッグを取り出すと、シートを広げたベンチにそれを置く。

 割と大きなキャリーケースだなとは思っていたが、そんなものまで入っていたとは気づかなかった。


 

 ただ、サイズ感が少しおかしい。

 彼女がいつも学校に持ってきていた弁当箱はそれこそ、手のひらに収まるくらいの可愛らしいものだったはずだが、今目の前にあるのは小さめの重箱といっても過言ではないような大きさだった。



「なんか、デカくないか?」


「…………ははは、ちょっと、張り切り過ぎちゃって。ちょうどこれ実家に持って帰るところだったし」



 目を逸らしながら透がそう答える。


 蓋を開けると、中身も色とりどりの物が並んでいてかなりの手間がかかっていることが一目でわかった。

 一体何時に起きて作っていたのだろうか。それに、崩れないよう持ってくる間もある程度気を遣わなければいけないし、重かったはずだ。


 

 目の前にある大きなお弁当。それには彼女がかけてくれた手間と時間、それに真心が詰まっているように感じられ嬉しく思う。



「ありがとう。すごい、嬉しいよ」


「ほんと!?よかったぁ」


 

 心底安心したような顔をする微笑ましい彼女の姿に、自分でもわかるほどに頬が吊り上がっていくのがわかる。そして同時に優しい気持ちに包まれ、心が温かいもので満たされていった。

  


「えっ」



 だが、何故か急に透が驚いたような声を出した後、その頬をわずかに赤く染めた。

 なんだろう、穴が開く位の勢いでこちらの顔を見ていたが何かついているのだろうか。



「顔になんかついてるか?」


「え、いや、なんでもない!」


「ん?なんだよ」


「ほんとに何でもないから!ほら、早速食べて」


 

 彼女は、誤魔化すように箸を押し付けてくる。

 どうやら、話すつもりは無さそうなので、俺は聞くのを諦め弁当の方を覗きこんだ。

  

 呆れるくらい、俺の好物ばかりだな。


 たぶん、母さんに聞いたのだろう。そこには、バランスは考えられながらも俺の好物がたくさん並べられていた。


 とりあえず、無難に卵焼きを一つ摘まんで口に運ぼうとすると、緊張したような強い視線が箸にずっと張りついてきて思わず笑ってしまった。



「ははっ。そんなに見られると食べづらいだろ?」


「あっ、ごめん。見ないようにするから、早速食べて」

 

 

 それで気を付けているつもりなのか、相変わらずこちらを見続けている様子に苦笑しつつ、俺はそれを口に入れる。


 ほんのりとした甘みに、仄かなしょっぱさが丁度よく混ざり合っていてとても美味しい。



「美味いな。さすがだよ」


「そう?やった!」


 

 そして、その言葉に安心したのか、彼女も弁当を食べ始めた。


 しかし、どれを食べても本当に美味い。器用なのはわかるが、たぶんちゃんとした料理の先生がいるのだろう。



「料理は、家族に教えて貰ったのか?」


「うん、お祖母ちゃんが教えてくれたの」



 ここに来るまでに、両親は既にいないこと、祖母に育てられたことだけはなんとなく聞いていた。だが、周りに人がいることもあってあまり込み入った話はしてこなかったので改めて聞くことにする。

 


「どんな人なんだ?」


「うーん、少し気難しいかな。でも、とっても良い人だよ」


 

 彼女がその祖母のことを本当に好きなことが伝わってくる。

 ここまで真っ直ぐに育ったのは多分その人のおかげなのだろう。



「心が読めることは伝えてないのか?」

 

「…………うん。言ったら、心配させちゃうから。意地っ張りだから絶対顔には出さないだろうけど」


「心配するのは当然だろ?」


「はは、そうなんだけどね。でも、自分の年齢もあって私が一人残されることをずっと気にしてるような人なんだ。だから、これ以上負担をかけたくないの。出来るだけ、長く生きて欲しいから」


  

 寂しそうに笑う彼女の胸中はとても複雑なのだろう。

 誰だって寿命には勝てない。考えたくなくても、その現実にいつか直面するのは確実だ。

 

 でも、家族に負担をかけず、長生きして欲しいからと自分の苦しみを自分の中だけに閉じ込めておける彼女は本当にいいやつだと改めて思う。



「透は、やっぱり優しいな」


「え?そんなことないよ。誠君のがずっと優しいもん」


「どっちが優しいかなんてのは関係ないし、比べるつもりもない。ただ俺は、透が優しくて、本当にいいやつなんだって改めて思っただけなんだ」


「………………なんで、誠君はそんなに素敵な言葉をいつも私にくれるの?」


 

 潤んだ熱を帯びた瞳がこちらをジッと見つめる。

 以前に比べればその闇は薄れた。だけど、ずっと心の中にあったそれはすぐに消えるものではなく、彼女は自分自身をまだ信じられていないのだろう。

 誰かと比べることでその価値を測ろうとするところにそんなことを思わされる。



「そんなの決まってる。透がその言葉に見合うほどに素敵な女の子だからだ」



 知れば知るほど、彼女の魅力に気づかされる。

 皆が褒める外見なんてものは正直どうでもいい、そんなものがいいなら人形でも抱きしめておけばいい。


 俺は、ただその内面に強く惹きつけられているのだ。

 そして、気づくと、もっと知りたい、もっと近づきたいと思わされている。

 

 まだ、その気持ちは俺の全体を覆うようなものではないけれど、徐々にそれは大きくなってきているという確信がある。




「…………あーもう。ほんと、ずるいなぁ」



 呆れたようで、嬉しそうで、照れたような、様々なものが絡み合った顔で笑う彼女に抱いているこの気持ちがなんなのかはいまいちまだわからない。

 


 彼女だけじゃない。俺の方にしても、尊敬、友情、同情、責任感、それこそたくさんのものが混ざり合ってしまっているから。



 だから、俺はそれをはっきりとさせていきたいと思う。


 彼女が俺にとってどんな存在なのか、自分でも知りたいと強く思うから。


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