第6話 受け入れざるを得ない事態
「なるほど、洗濯しようとして脱衣所を泡まみれにしたと」
「ええ、漫画みたいな話ですけど現実だったんですよね。大家さんにバレないように隅々まで拭くのが大変でした。ななせさんは拭いてる傍から汚すし、結局夜中に呼び出された私一人でやる羽目に」
「大変でしたね」
ななせが芋虫の中に籠城して出てこないことをいいことに、その真ん前でリョウは蘭子からななせ武勇伝を聞かされていた。
「むー、辱められた」
「は?」
唐突に芋虫の中からそんな声が聞こえてきたのは一通りななせの家事での失敗武勇伝を聞いてからだった。
「あたしの心が辱められたんだよ! よって謝罪と賠償としてここに住ませてもらいます!」
「ああ、そういう……」
おねだりが脅迫に近づいて来た気がする。
「なんと言われてもあんまり長い間泊めるのは問題があるんだよ」
「問題って何さ」
「それは言えない」
「あーもー、じゃあどうしたら泊めてくれるんだよ!」
もはやただの駄々である。
布団の上であおむけになって手足をジタバタとする姿は完全に幼児だ。
配信でこういう姿を見せてくれれば『駄々っ子助かる』『ママー! ママが赤ちゃんになっちゃったー』とか弾幕が飛ぶだろうが、残念ながらここは現実だった。
そうしてしばらくジタバタもがいていたななせだったが、不意に動きを止めて虚ろな目線で天井を見上げる。
ようやく諦めたか、と安堵の吐息をついた時だった。
「じゃあ、あたしこれから毎日リョウちゃんの家の前に来るから」
「は?」
感情の抜け落ちたような声だった。一瞬内容が理解できない。
「泊めてもらえないならあたしがリョウちゃんのストーカーになるから! なんならこれからリョウちゃんの家の前で配信してやるんだから!」
「ちょ、ちょっと何言ってんのさななせ!?」
「あたしはリョウちゃんの事大好きだもん! そのくらいの事簡単に出来るんだからね!?」
確かにななせにはリョウの素顔も家も知られてしまった。やろうと思えばできないことはないだろう。配信も、スマホで音声だけの配信なら可能かもしれない。
もちろんきっと本気などではないだろう。ないはずだ。
だがななせは自称リョウのガチ恋勢である。普段の素行を加味しても、やろうとする姿は想像できてしまう。
「えーと、ななせ? わかってるよね、それ今ななせがされてることと同じことだからね? 相手がどう思うか、ななせなら分かるよね?」
「うん、分かったよ。やってる側は完全に愛ゆえにこうして狂うんだってね」
「ダメだコイツ」
話をするのが遅すぎた、狂ってやがる。
仕方なくこの場で一番冷静に話せるだろう相手、蘭子へと視線を投げて助けを求める。
だが蘭子は深い、深すぎるため息をついて困った顔を向けて来た。
「はぁ、形代さん。すみません、ななせさんも本気で言ってるわけじゃないんです。ただ愛が溢れてしまっているだけなんです。今までよく耐えたと思います。ななせさんへのDMを私は何度止めたことか……」
「え、それ知らないんですけど。どういうことですか?」
「コラボお誘いのDMを送ろうとしているところを止めた回数36回。どれも原稿用紙10枚を超える力作でした。どれも気持ち悪い内容で犯罪ととられかねないので却下しました。また、形代さんとコラボした方たちにチャットを送ってどんな話をしたのか聞きまわっていました。後から謝るのが大変でした」
だからコラボした後少し微妙な反応が返って来ることがあったのか、と以前のことを思い出して腑に落ちる。
「私も今色々と考えましたが、やはりここでななせさんを預かってもらうのが一番安心だと思うんです。彼女の実家もかなり遠い上にお父様とはあまり仲が良いとは言えないので……」
「そう、なんですか……」
リョウ自身は家族との仲は別に悪いわけではない。あまり帰ってこないというだけだ。
母親と姉は、少し苦手に感じることもあるが……。
「ななせさん。ななせさんは本当にここに居たいんですね?」
「……うん」
再度確認を取った蘭子はリョウの前で膝を折って正座して居住まいをただした。
「ななせさんもこう言っているので、お願いできませんか、形代さん。もちろん生活費はお支払いします。ななせさんの給料から天引きで」
「ちょ、蘭子さん!?」
「てめーは黙っとけ!」
「はいっ」
いきなり眼鏡を取って阿修羅モードになった蘭子にすごまれて、ななせは布団の上で横になったまま直立不動の姿勢を取っていた。
眼鏡をかけ直した蘭子はまっすぐにリョウを見つめて口を開く。
「お願いします」
最後にもう一度、蘭子は頭を下げて来た。
その様子を見て、リョウは最初に電話を取った時のことを思い出した。
蘭子は本気でななせの事を心配していた。担当マネージャーとしての責任もあるだろう。これまでの事を把握しながら対処できなかったことを考えて後悔もあっただろう。
玄関で会った時、化粧で隠しているようだったが目元が赤かった。
本当にななせの事が大切なのだろう。
だから蘭子も本気でななせを助けたいのだ。
そしてその気持ちはここまで関わった以上、リョウとしても同じだ。
「……どうしても難しいですか?」
顔を上げた蘭子がまっすぐに見て来る。
その表情に、リョウは肯定も拒絶も出来なかった。
「やっぱり、形代さんは優しい人ですね」
「そんな、ことは、ない……ですよ」
結局自分の身に危険が及ぶリスクを気にしているだけだ。
もし男だとバレたら。
だがななせは助けてあげたい。
そう考えると答えが出せなかった。
思考が堂々巡りをしていた。
そうして悩むリョウの前で、蘭子は手元の鞄から一枚の折りたたまれた紙を取り出して差し出して来た。
「蘭子さん、それは?」
視界の端に留めたのだろうななせが訊ねる。
「事務所を出る直前に渡されたんです。ななせさんの事と行先を話したらもしもの時に形代さんに渡すように、と」
差し出された紙を受け取りリョウは紙面に目を落とした。
文字が目に入った瞬間、息が止まった。全身の毛が逆立つような感覚が走り抜け、硬直する。
「ど、どうしたの!? リョウちゃん!?」
余りに異常な様子にななせが勢いよく起き上がって肩を掴んで揺すって来る。
だがそれに答えることすら出来なかった。
「誰からだったの?」
ななせは蘭子に振り返って確認した。
同じようにリョウの反応に驚いていた蘭子が短く答える。
「社長です」
株式会社あすとらる。
その社長の名前は『そらまち青羽』という。
VTUBERブームのきっかけとなったという『始まりの5人』と呼ばれるVTUBERの一人である。現在は現役を引退しVTUBER事務所の社長として忙しい日々を送っていると言う。時折あすとらるの公式チャンネルの配信に現れる以外は。
「あー、そう言えばリョウちゃん『始まりの5人』の中だと青羽さんのこと尊敬してるし好きだって言ってたよね」
そう、ななせの言う通りリョウはいくつかの配信の中でその手の質問にそう答えて来た。
幼い頃、何度も親から見せられて幼児向け番組やアニメなどよりも楽しんでいた記憶が今も残っている。
「そうなんですね。ではこれは……」
「推しに出会えば誰でもこうなる物だよ」
そう言って肩をすくめるのだった。
「でもなんて書いてあったの? 青羽さんにはあたしもまだ直接は会ってないんだよね」
ゆっくりとした動作で近づいて来ると、リョウの手元にある紙を覗きこもうとしてくる。
「だ、ダメっ!」
しかしななせが覗きこむよりも先に、リョウは紙を小さく折りたたむとポケットの中へとねじ込んだ。
いきなりの動きにななせも蘭子も目を丸くしている。
(まずい、不審に思われてる)
「あ、青羽さんからもななせの事をお願いしたいって書いてあっただけだよ。大したことは書いてないから気にしないで!」
「そ、そう?」
無理矢理だったが、ななせは納得してくれたようだった。
何か聞きたそうではあったが、ひとまず受け入れることにした顔だ。
「青羽さんから頼まれたんじゃしょうがないから、しばらく泊まって行けばいいよ」
「え? ホント!?」
ななせの顔がぱぁっ、と明るく輝く。
だが蘭子の方はいぶかっているようだ。いきなり意見を翻したら普通は確かにそう思うだろう。
「ボクも、ななせを助けたいと言う思いは同じですから」
「そう、ですか」
リョウの言葉に蘭子は頷きを返した。どのみちここでリョウが受け入れてくれなければ話は堂々巡りだ。そうする他なかっただろう。
「一応最終確認ですが本当によろしんですか? この数時間で分かったと思いますけど……この子はかなりの生活破綻者ですよ」
「まぁ、何とかなりますよ。うちの姉も相当でしたし」
今の自分がこんな格好でいる原因の9割は愚姉のせいだ。
苦笑を浮かべるリョウに蘭子は「あなたも苦労して来たんですね」とため息をつく。どうもこのマネージャーさんとは仲良くなれそうな気がする。
「それではすみませんがリョウさん、ななせさんをよろしくお願いします。ななせさん、身の回りの荷物はこの後私が取りに行ってこようと思ってますけどそれでいいですか?」
「あ、うん。お願い」
「それじゃ、着替えとか以外で持ってきてほしい物があったらスマホのメモに書いてください」
「わかった」
そう返事をするななせに蘭子は自分のスマホを差し出す。ぽちぽちと打ち始めるななせを脇に、リョウは蘭子に話しかけた。
「今から家に行って大丈夫ですか?」
もしかしたらまだストーカーが周辺をうろついている可能性もある。
遭遇してしまった場合を考えるとかなり危険に感じられた。
「一度社に戻って男性社員を連れてきますよ。それに帰りはもう一度社に寄って車も変えるようにします。追跡の心配もそれでほぼなくせるかと」
確かにそこまでやれば大丈夫だろう。
しかしそこで不安な表情をしたのは蘭子の方だった。
「だから私が心配なのはリョウさん、あなたの方です。ななせは顔がバレています。ななせが今借りている部屋は一つ隣の町です。よほどの偶然でもない限り犯人と遭遇することはないかと思いますけれど、相手はかなりの粘着体質のようです。外に出るときは用心してください」
「その犯人の目星は?」
「まだ何とも。ななせが部屋にいる時間に直接やってきたのはこれが初めてのケースなんです。これまではメールや手紙や電話、あとは不在時間を狙って家のポストをあさるなどがあったようで……」
「かなり悪質ですね。相手は何を求めているんでしょう」
「……その、どうやら相手の頭の中では『ななせと付き合っている』ことになっているようで」
「はい!?」
あまりにぶっ飛んだ内容にリョウも驚きを隠せない。
「好きだとかガチ恋だとか誰かと付き合ってるのが許せないとかじゃなくて!?」
「本人の中ではそうなってるみたいですね。ほとんど脅迫まがいの手紙やメールの文面からすると」
「気持ち悪い奴ですね」
吐き捨てるように言ってやると蘭子が少し驚いたようだった。
「リョウさんでもそんな表情するんですね」
「え?」
「すみません。いえ、リョウさんの印象や話し方があまりにも配信上の姿と同じなもので。何となくリョウさんはそんなことは言わないタイプかと思ってました」
「別にそんなことないですよ。ボクもただの人間ですから……。それに、配信のアバターには表現できる表情にも限度がありますからね」
現在のトラッキング技術でカメラの前にいる人間の表情を、限りなく同じように配信上のアバターに反映させることは出来るようになった。だがそれでも設定していない表情は造れないし反映されることもない。
そんな様子のリョウに蘭子がほほえましい笑みを向けた。
「そうですね。でもリョウさんが本人もこんなに可愛い女の子だなんて……あ、いえ飲酒配信をしていましたし成人はしているんですよね? 女の子って言うのは失礼でしたか」
「え!?」
蘭子の一言で、リョウの体は硬直した。
「そうだよねー、女の子なのは配信で見てそう思ってたけど、まさか中の人までこんなかわいいなんてさ、じゅるり」
「こらこらななせさん。手を出してはいけませんよ。スキャンダル的な意味でもリョウさんが女性なのは安心ですしね」
「あっあっあのっ」
「犯人の特定や証拠集めには数日以上はかかると思いますので、それまでの間ななせさんのこと、どうかよろしくお願いします」
蘭子は深々と頭を下げた。
「これからよろしくね、リョウちゃん!」
「あ、はい……。どうぞよろしく」
もう自分が男だと言えない空気だった。
背中にかいた嫌な汗の感触に震えながら、リョウは頷くしかできなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます