第5話 修羅と変態


 ゾクリ、とリョウの背筋を冷たい感覚が走り抜ける。

 ドスの利いた低い声だった。

 そう感じたのはななせも同じだったらしい。

 いきなりカッと目を見開くとばねのように跳ね起きる。一瞬周囲を見回した視線が隣に座る蘭子を捕らえてわなわなと口を震わせた。


「ら、らららら蘭子さん!? ど、どうしてここにいんの!?」


 布団の上で腰を落としたまま後退るななせだったが、その頭をガシッと蘭子の手が掴む。ミシリ、と音がしたような気がしたのは気のせいだろうか。

 犬歯をむき出しにした蘭子が叫ぶようにして怒声を浴びせる。


「お前がいきなり行方不明になるからだろうがこのスカポンタンが! 私がどれだけ心配したと思ってんだアァ!?」

「い、痛い! 痛いよ蘭子さん!? 指、指めり込んでるから!」

「いい機会だ! お前の空っぽの脳みそ搾り取って新しいのに入れ替えてやんよォ!」

「ひぃぃぃぃ!?」


 ななせの悲鳴。

 一体目の前の光景は何なのか、リョウが動くことが出来ない間に事態が勝手に進んでいく。


「えーっと、白橋さんその辺で……」


 流石にこれ以上されたらななせの頭がへこんでしまいそうだったので止めようとして声をかけた。

 すると「あぁん!?」という声と共にギラギラした視線がリョウの方を向く。その瞬間蛇に睨まれた蛙のように金縛りになってしまう。

 だがリョウと視線が合って数秒、無言のまま蘭子は眼鏡をかけ直した。

 すると蘭子を包んでいた怒気のオーラのようなものが霧散する。

 リョウの背中からブワッと汗をかいた。


「す、すみません。ちょっと感情が溢れてしまいまして……」


 頬を赤くしてあわあわしている蘭子には、先ほどまでのヤンキーのような雰囲気はない。やぼったいOLにしか見えなくなっていた。


「ハァハァ、GJリョウちゃん……」


 布団の上であおむけになって荒い息をつくななせがリョウに向かって親指を立てて来る。

 いや、全然GJじゃないし。今のは一体何なのか。


「蘭子さんはね、長い就職活動の末にようやくウチに就職したの。でも素の自分だとどう考えても就職に不利だから眼鏡で自分を封印しているのよ」

「え? 何そのマンガみたいな設定」

「結果的に二重人格みたいになってるんだけど、面白いからいっそウチでタレントにならないってよく言われてるよ」

「そんなこと私に出来るわけないですよ!」

「……」


 手を振って否定する蘭子の様子からは先ほどのヤンキーみたいな印象は全くない。だが配信でその両面を出すことが出来れば確かに人気が出そうな気はする。

 リョウのじとっとした視線を感じたのか、蘭子は慌てて話題を変えた。


「それでななせさん、どうしてこんなことになってるんでしょうか?」


 それはリョウも気になっていたことだ。

 どうしてあの場所にあんな時間にいたのかはリョウもまだ聞いていない。


「……」


 だがななせは口を引き結んだまま喋ろうとしない。

 その様子に蘭子が「はぁ」とため息をつく。


「ななせさん『例の件』ということですか?」

「……」


 この言葉にはななせの肩がわずかに肩を跳ねさせた。

 蘭子の目がわずかに険しくなる。


「……分かりました。対処の方は予定通り進めておきますね」

「うん、お願いしまーす」


 どうやら2人の間では通じ合っているらしい。リョウにはどういった事情なのか全く分からなかったが。


「それで、ななせさんはこれからどうするつもりですか? 家には戻れないんですよね」

「そーなんだよねー」

「前々から伝えている通りこちらで押さえている社宅は今空きがありません。かなり急ぎで探してもらってますけど……それでも条件に合致する部屋が見つかるまでは短くても数日はかかると思います」

「だよねー」


 言葉は軽いがななせの顔が曇る。

 蘭子も持ってきていたカバンからタブレットを取り出して何事か調べながらため息をつく。


「あの、それで結局どうしてこうなったのか教えてもらってもいいかな?」


 流石に見かねてリョウが口を出すと、2人ともはっとした様子で振り向く。


「あ、リョウちゃん」

「そ、そうでした。すみません、事情も説明せずに」

「いえいえ。それで、どうしてこんなことに?」


 その言葉にななせと蘭子が顔を見合わせて、口を先に開いたのはななせの方だった。


「まぁ何というか、こじらせちゃったファンがいたのよ」

「っ……あぁ、なるほど。つまりストーカー化したと」


 ななせはさらりと言ってのけたが、リョウはすぐに察した。


「端的に言えばそうなります」


 蘭子の声は疲れがにじんでいた。相当粘着質な相手なのかもしれない。


「いつの間にか家まで特定されててさ」

「家バレしたの!?」


 なら家に帰れないと言うことも分かる。

 だがそこでリョウはあることに気が付いた。


「ちょっと待って、じゃあ深夜に家を飛び出してきたのって……」

「うん、リョウちゃんの配信の後半らへんかな。そのあたりで家凸されてさぁ」

「何それ信じらんない……」


 家凸をしかもそんな深夜にするなど非常識を越えて狂気の域だろう。

 隣でその話を聞いた蘭子も頭痛を押さえるかのようにこめかみを指先でトントンと叩いていた。


「警察には?」

「元々相談はしてあったんです。ただ、今のところ実害が出てないってことで警察も本腰を入れて対応はしてくれていないくて……」

「もう実害出てるじゃないですか。深夜に家凸されて、恐怖を感じて家飛び出して来たんだよね。その時に警察に連絡は?」

「もーね、怖くて何にも考えらんなくなっちった」


 そう言ってななせは小さく笑うが、その時の恐怖は想像に難くない。

 何しろ財布も持たずにスマホだけもって着の身着のままで家を飛び出してきているのだ。どれほどの恐怖だっただろうか。


「そういえば、どうやって家を抜け出して来たの? 玄関にはストーカーがいたんだよね?」

「あーそれね。テンパり過ぎててベランダからひょいっと」

「ベランダから!?」

「いやー、部屋が二階でよかったよ」

「二階からって、飛び降りたの!?」


 えへへー、と照れたように笑うななせだったが、その笑顔にはどこか痛々しさを感じてしまう。


「リョウちゃんはそう言うの大丈夫?」

「え?」

「だってリョウちゃんこんなに可愛いしさ」


 隣に立つ蘭子もうんうんと頷いている。二人とも完全にリョウの事を女の子としてしか見ていない様子だった。

 そのことに若干傷つきながらも思い出すのは高校の頃の事だ。

 あの時もよく知らない上級生から告白の手紙を下駄箱に入れられ、無視したら下校中に路地裏でいきなり壁ドンされたのだ。実際に後を付けられて行為に及ばれたのは今のところその時だけである。


「そ、それで!? それでどうなったの!?」

「期待してるところ悪いんだけど、ボク空手と剣道をやってたから」


 元々自分の容姿にコンプレックスがあり、少しでも男らしく見られたいと言う思いから始めた武道だったが、いつの間にかそう言う面でだけ役に立つようになっていた。


「ちょっと蹴り上げたら地面にうずくまって静かになったよ」

「うわー、いたそー」

「顔の割にえげつないですね形代さん」

「いきなりそんな行為に出る相手に容赦する必要ありませんから」


 そもそもあの頃リョウは制服であるブレザーにスラックスだったのだ。女子と勘違いする要素はなかったはず。未だに疑問である。


「現実逃避はそのくらいにしましょう。実際どうしますか? ホテルでも取ります? 一応経費で会社から出せますが」

「んー、長期間になると流石に迷惑でしょ。それに配信ができないし……事務所の近くでホテルが取れたら配信は事務所で出来るかな?」


 名案を思い付いた、という表情のななせだったが蘭子が首を横に振った。


「ダメです。事務所の場所は公になっていますから、安全面の問題からしばらくななせさんを事務所には近づけられません」

「そっかぁ、そりゃそうだよね」

「私の家は手狭の上家族がいますから、ちょっと厳しいですしね」


 うーん、と2人ともうなりながら考え込んでしまう。

 困っている2人を前にして、リョウとしては助けてあげたい気持ちはあった。だが、リョウの秘密は絶対に明かせない物だ。万が一知られてしまう危険性を考えるとその提案を簡単に口には出せない。


「いっそのこと、ここに住ませてもらうってのはどうかな?」


 だがその一番恐れていた提案はとても軽い口調でななせの口から飛び出して来た。


「だ、ダメですよななせさん! 他所様のVTUBERさんに迷惑をかけるのは」

「えー? でもどう考えてもここがベスト、というより条件的にパーフェクトなお家では?」


 そう、それはリョウも感じていたことだった。

 家までやって来たと言うストーカーも流石に昨日まで関係のなかったリョウの家をすぐに特定できるとは思えない。

 同業者であるため配信も可能である。

 リョウの家族はほとんど帰ってこないため部屋は余っている。


「それにこんなに可愛いのに、男の人を黙らせられるくらい強いんでしょ? ねえリョウちゃん!」

「え、うわっ!?」


 的確に突き刺さる正論がリョウの思考を奪った瞬間に、ななせがリョウの頭を抱きしめて来る。


「ね? お願いだよリョウちゃん。休止の発表はしたけどあたし配信できないと死んじゃうかもしれないし」

「ななせさん、回遊魚じゃないんだから……」


 蘭子も突っ込みを入れているが積極的に止めようとはしていない。彼女も理由を挙げられて、確かにこれ以上の場所を思いつかなかったのだろう。


「基本的に干渉はしないって誓うからさ、いいでしょ?」


 子どものようなおねだりを続けるななせ。


「置いてくれるだけでいいから、ね?」


 そう言いながらあまり大きくはないが、しっかりと柔らかい自分の胸に頭を掻き抱く。

 だが、頷くわけにはいかない。

 頷くわけには……。


「……ちょ、ちょっととりあえず離れてくれないかな?」

「やだ! 頷いてくれるまで放さないんだから!」

「えぇぇ……?」


 ぶんぶん頭を振りながら拒絶をあらわにするななせに呆れ声しか出てこない。


「いや流石に困るし」

「い、一緒にいたらオフコラボし放題だよ?」

「うーん、ボクオフコラボはしないって決めてるから……」

「じゃ、じゃあ放送の動画をまとめたり編集したりするよ!」

「自分でできるしねー」

「だ、だったら配信のサムネとか幾らでも作るから!」

「それも自分で作れる。というかこういう時って普通料理とか掃除とか……家事を代わりにやるからとか言う物じゃないの?」

「あ、ななせさんは家事全般からっきしですよ。何もできません、この人」


 蘭子の言葉に自分の体を抱きしめているななせから「ぴしり」という音が聞こえた気がした。その瞬間に体を抱きしめていた腕がほどけて後ろから倒れ込んだ。

 ようやく解放されたことに安堵しながら蘭子に視線を向ける。


「そうなんですか?」

「正直よく今まで一人暮らしで出来ていたと思うレベルです」

「そこまで言わないでよお……」


 弱弱しい声で言いながら布団の中に潜りこんで赤く染まった顔を隠した。

 その様子を見て、思わず連想したのは自分の姉。


「ああ、ウチの姉と同じタイプの人なんだね」

「呆れ声が突き刺さるぅ!?」

「ななせさん、気持ちよくならないでください」


 芋虫のようになった布団から「でへへへ」という締まりのない笑い声が聞こえてきて、リョウは蘭子と顔を見合わせあってため息をつくのだった。

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