海が聞こえた家
一日二十日
海が聞こえた家
私はここにいる。もうずっと前からここで見守ってきた。街を、海を、人々を。
始まりは随分と昔になる。人の月日で言えば、一人分くらいだろうか。
私はここに生まれた。
初めて陽の光を浴びた時のことを今でも覚えている。
私の目の前には私と似たような形をしたのがいくつもいた。
『やあ。これからよろしくね』
『お互い、守っていこうね』
彼らはそう言った。
『うん。これからよろしくね』
私はそう答えた。
生まれてすぐに、私には守るべき人たちができた。
その人たちは私より随分小さかった。それに皺があったり、雨の粒みたいに小さい人もいた。私はそれが不思議だった。
けれど、だからこそ守ってあげたかった。
その人たちはとても弱いから、私が守ってあげようと思った。
夏の暑さから、そして冬の厳しい寒さから、私なら守ってあげられた。
人間は不思議だった。小さかった人が大きくなったり、途中で人がいなくなったりした。逆に人が増えることもあった。
とてもとても不思議で、そして大事だった。
年を重ねて、それが人間という生き物だということがわかった。
生まれて生きて、そして死ぬ。それが人間だった。
私は尋ねた。
『私たちは死ぬことはあるの?』
向かいにいるその形は言った。
『そうだなあ。ないことはないだろうなあ』
歯切れの悪い答えに、私は質問を重ねた。
『どうして?』
彼は低い声で言った。
『人間が必要だと思ってくれれば、生きることができるし、不要だと思えば死ぬ、のだろうな。それに、どうしようもない時だってある』
私は悲しくなった。
一丁前に、死ぬのは嫌だった。
『どうしてだい?』
『だって、守れなくなる。あの人間たちを守れなくなってしまう。それは嫌だ。とても悲しい』
私の答えに、彼はにっこり笑って言った。
『そうかいそうかい。私も同じだよ』
街は静かだった。人々の話し声が聞こえて、笑い声が聞こえた。それを海の音が包んでくれた。
ここは海が見える街だ。私は、この場所以外を知らないけれどこの場所が好きだった。海が好きだった。
そして私が守る人々も、海が好きだと言った。私の前ではしゃぎながら、そう言っていた。
年月は巡った。人々が朝、挨拶をするように私たちも近所に挨拶をした。
『やあ。今日も良い天気だね』
『そっちの下の子はどうだい。元気か』
『ああ。元気さ。お母さんに叱られて、ふてくされてるけどね』
『そうかいそうかい。じゃあ、しっかり見守ってやらないとな』
『ああ。もちろん』
毎日、いろんな声が聞こえていた。私はそれが好きだった。
私たちと彼らと、そして海の音。私はそれが大好きだった。
随分長い年月が巡ったある日、そう、とても寒い3月の日だった。
穏やかな日差し、穏やかな日常の延長線上だった。
私のところには、海が好きだと言っていた子がいた。彼ももう随分と大きくなっていた。
昼下がりだった。
私は今まで感じたことのない衝撃を感じた。
身体中が揺れた。バキバキという音が聞こえた。私はとてつもない恐怖を覚えた。生まれて初めて、恐怖を知った。
しかし私は思い出した。
彼は私の中にいた。自分の部屋で彼は昼寝をしていた。
彼の命が危険だった。
私は必死に耐えた。ミシミシという音が聞こえた。けれど、怯むことなく支え続けた。
衝撃に何度も折れそうになったけれど、私は諦めなかった。彼がいる限り、捨てることはできなかった。
彼は私が守ってきた家族だ。大事だ。守らなければならないのだ。
頑張れ、頑張れ。私は唱え続けた。
初めて私は自分を鼓舞した。今まで、彼らをそうしたことはあったけれど、自分でそうしたことはなかった。
揺れが止んだ。
長い長い揺れだった。私はひどく疲れて、一息ついた。
少しすると彼が外に出てきた。とても不安そうな顔で耳に四角い何かをあてている。
よかった。彼を守ることができた。
私は、ホッとした。
『みんな、大丈夫?』
私は問いかけた。
『こっちは大丈夫』
『うちも大丈夫だよ』
声がして安心した。
しかし、声がした。
『向かいが倒れてる』
『こっちもだ』
私は動揺した。
しばらくして地面が割れるような音がした。
海が迫ってきた。
それは、何もかもを飲み込んでいった。
人を、私たちを、街を飲み込んだ。
そこに、私が好きだった海の面影はなかった。
徐々に海は近づいてきた。とても大きな音が鳴っていた。叫び声も聞こえた。
それは私の足元にまでやってきた。
日が昇った時、目を覚ました。
けれどそこは、もう私の知っていた景色ではなかった。
美しい街だった。青い空と青い海、そして穏やかな人々の景色。
今やその全てが、失われていた。
眼前に広がっていたのは瓦礫の山。黒々とした景色だった。
私は呼びかけた。
『みんな、大丈夫か』
応答がなかった。
私は見渡した。
いつも会話をしていた彼らの姿がどこにもなかった。探しても探しても、見つからなかった。あるのはただ、瓦礫の山だった。
変わってしまった。何もかも、なくなってしまった。
そして私は気づいた。
身体が思うように、動かない。
立っていなければならないのに、うまく力が入らないのだ。
身体が、軋んだ。
震災にあってしばらくした後、私たち家族は家を壊すことを決意した。
しょうがないことだった。劣化が激しく、このまま住むことは危険だと判断されたからだった。
躊躇いがないわけなかった。けれど、どうすることもできなかった。
元々祖父の代に建てられた家だったから地震が来た段階で壊れてもおかしくなかったと業者は言っていた。あの時、家には受験を終えた長男がいたから、不幸中の幸いだった。
「それじゃあ、よろしくお願いします」
私たち家族は、家の前でそれを見届けることにした。
家族は避難ができて津波の影響を受けなかった。失うものは多かったけれど、誰一人欠けることがなかったのは何よりの幸福である。
けれど、周りの人々はそうではなかった。近所で仲の良かった老夫婦は逃げ遅れて流されてしまった。会社の人も、何人かいなくなってしまった。
涙が溢れて、溢れて。
街も様子を変えた。あれほど美しかった街並みは、今やその面影すらない。泥にまみれた瓦礫があるだけだった。
重機が動く音がする。
私は、小学生の娘の手を握りながらそれを見守った。
祖父が建てた家だった。私の母もここで育ち、そして、私もここで育った。
家族で団欒した茶の間、兄弟と布団を奪い合った寝室、少し閉まりづらい玄関。
初めて歩いた日も、喧嘩をした夜も、ずっとここだった。
私たちを支えて、守ってくれた家。
何もかもが想い出で、失いたくなかった。
ぼろぼろと頬を何かが伝った。娘の手を握る手に力が入った。夫が肩を支えてくれた。長男は、妹のもう片方の手を握った。
ミシミシ、という音を立てて空間が崩れていく。
人がいた空間が失われていく。
想い出も、消えてしまう。
薄れゆく意識の中で、声がした。
目を開けて、周りを見渡す。
目の前には、家族がいた。
彼らは泣いていた。理由はわからない。
あの日が過ぎてからずいぶん、私の身体は日に日に悪くなっていった。軋んで、そして壊れていった。
そして理解した。
私は、死ぬのだと。
あの日彼が言っていた死だ。
けれど、その彼ももういない。
彼もまた、死んでしまったから。
津波で流されて、彼は死んでしまった。
私がいた場所は少しだけ高いところだったから、津波の影響を受けなかった。けれど、彼らはそうではなかった。
しかし、生き延びた私にもまた、死が迫っている。
既に身体の半分がなくなった。もう少しすれば、私はいなくなる。
不思議だった。痛みはなく、意識が薄れていくのを感じるだけだ。
私は、家族を見た。
家族は欠けることがなかった。あの日、長男を守ってやれて良かった。でなければ、こうして家族が揃うことは二度となかったのだから。
私は笑った。
家として、家族を守れた。
『よかった』
私は言った。
家族に向けて、正面から話すのは初めてだった。
『みんな生きてて、よかった』
私は自分が崩れる音を聞きながら伝えた。最期だとわかっていたからだ。
『ごめんね。守れなくて』
バキバキと音が聞こえる。
『下の子が大きくなるまで、いや、もっとずっとその先も、守っていきたかったんだけど、できないから』
屋根が崩れた。意識が飛びそうになる。
『ごめん、ごめんね』
必死に伝える。もう時間がない。
『でも、ありがとう。君たち家族と過ごせて楽しかった』
身体が一際大きな音を立てた。
最期だ。これが最期だ。
『ここにいられて、幸せだった』
何もなくなってしまった。
涙だけが溢れた。家族全員、泣くばかりだった。
それでも、生きていく。生かされた以上、しがみついて生きていくのだ。
それでも不思議だ。家から声が聞こえたような気がした。
幸せだったと、ありがとうと言っていた気がした。
私も、私たちの方こそ。
家族を見てくれて、守ってくれて、愛してくれて。
ありがとう。
きっといつまでも忘れない。
この街で、この家と過ごした。
もう二度と元に戻ることはない。
同じになることはない。今度は以前よりももっと素敵な街になるだろうから。
それでも、忘れない。
ここにいたこと、ここにあったこと。何一つ、忘れはしない。
語り継いでいく。
伝えていく。
どれほど辛く、悲しくても。
生きている限り、這い上がるしかない。
人間に与えられた最後の力はきっと、どん底から這い上がるために、起き上がる力だ。
だから生きていく。生きて生きて、生きるしかない。
愛する家があった場所を離れ、新しい道へ歩き始める。
海の音が、遠く聞こえた。
海が聞こえた家 一日二十日 @tuitachi20ka
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