第25話 渡来舞央 ➂

 ダンスが終わってた後、私はお兄ちゃんの隣で温泉を楽しむ。


「あっ。髪が」

「ちょっと待ってて」


 結い上げた髪が散って、お兄さんがこれから直してくれる。

 ……と思ったが、


「なにこれ?」

「可愛いよ。まあ、舞央の髪が綺麗だからな」


 水面に映るのは、お兄さんが仕上げた二つ結び。


「まあ。お兄ちゃんが好きなら」

「これから髪がどんどん伸びて、どんどん綺麗になるよ」


 バレエをする時は必ず髪を結い上げるのに、何でわざわざ髪を伸ばすの?

 昔からそんな疑問を持っていたけど、今日は何となく、少しだけ理解した気がする。


「でもまさか舞央が合格したのか」

「まさかって、お兄ちゃんは私が落ちると思っていたの?」

「そうよ。この温泉も、実は落ちた舞央を慰めるために予約したぞ。普通はそのまま帰るはずだ」

「ええ? 落ちる前提だったの?」

「だってほら、舞央は背が低いし、あの先生の条件に合うと思わなかった」

「ぐっ」


 お兄ちゃんの発言にちょっと不満があるけど、それが事実だから仕方がないと思う。


「で? どうする? これからあのバレエ教室に通う?」

「ん……お兄ちゃんはどう思う?」

「せっかくの機会だし、逃さない方がいいよ」

「でもそうなると、またお兄ちゃんに迷惑を掛けるし、お兄ちゃんも、今は大事な時期だし……」

「A大のこと?」

「うん」

「それはお前が心配するようなことじゃないぞ」

「でも、私のせいでお兄ちゃんが落ちたら」

「俺さ、結構無力な人間だと前々から思っているが」


 お兄ちゃんは顔を上げ、空に向けた。


「でも勉強だけは、人よりちょっとだけ上手だぞ。中国語でいわゆる『小镇做题家』ってやつ? だから週末でお前に付き合うことくらいで落ちるものか。まあ、本当にそれで落ちたら、俺がそんな程度だってことだろう」


「ただ『小镇做题家』すらでもないってことだ」と、お兄ちゃんは自嘲した。


「そういうことだから、舞央は来週もあの教室に行け」

「うん。分かった」


 白鳥バレエ教室のスケジュールは、週一回白鳥先生の所に行って指導を受ける。それ以外の時間は自主練。


「そしてこれから今日みたいなお泊りなしだぞ。当日帰りでちょっときつくなるんだろう」

「大丈夫」

「あとは、ここの学園の中等部に入ることか……ちょっと難しいな」


 そして小学校を卒業する時、もし白鳥先生の期待に添ったら、本格的に先生の指導を受けるようにそこの学園に入れと言われた。


 でもその星見学園って、上流専門のエリート学園らしい。

 白鳥先生も協力するって言ったけど、それでも私みたいな家庭で入るのはとても難しそう。


「お兄ちゃん」

「どうした」

「月が綺麗だね」

「あっ、本当だ」


 今日はあんまり星が見えない夜だけど、朧な月はとても綺麗に見える。


「だから、今はそんなことを考えなくてもいいよ」

「……まさか逆に舞央にそう言われたんだな。でも確かに、まだ五年があるし、その時また考えよう」


 そのままお兄ちゃんと温泉の中で月見をして、何だか幸せな気分だ。

 そしてこの幸せはある意味バレエのお陰だと思ったら、今まではただ無理やりで続いたバレエがちょっとだけ好きになった気分だ。


 それから数か月あと、お兄ちゃんは無事にA大に合格して、家から出て一人暮らしを始めた。

 そうなったら、流石に毎日下校時間に私を迎えに来ることをやめた。

 でも週末は必ず家に帰って、私を星見市に送って、また一緒に家に帰る。


 そしてある日、白鳥先生は用事で授業を取り消した。

 丁度お父さんとお母さんたちは仕事で家に不在で、家には私一人しか居ない。


 今週の授業がない。何をしようかな。一人で自主練かな……

 あれ? 一人?

 つまりお兄ちゃんに会えないってこと?

 ただでさえお兄ちゃんと一緒に居る時間がだいぶ減ったし、週末にも会えないなんて……


 決めた。


 携帯よし。お金よし……出発!


 お兄ちゃんが言った。文句を言うことより行動する。その方が意味のあるって。

 一人で電車を乗るのは初めてだけど、きっと何とななる。


 お兄ちゃんのアパートに辿り着いたら、電子錠が目に入った。

 パスワードは知らないね。これどうやって入るのか……


 いや。普通にお兄ちゃんに連絡しただけでいいんじゃない?


「舞央か。来るなら先に言えよ」

「やー、お兄ちゃんの所に行くと考えたら、何も考えられなくなっちゃって」

「まさか一人で来た?」

「そうだよ?」

「まあ、いいや。適当に座れ」

「お兄ちゃん」

「なんだ?」

「これ、なに?」

「何って、普通の扇風機だろう」

「でも、扇風機って普通はここまでの数のものなの?」


 この限られた空間に十台以上扇風機がある。

 そしてあっちこっちに、小さな扇風機付きの知らない何かもあって、他の座る場所がなくて私はベッドに座った。

 部屋中に様々な扇風機の音が混ざって、ちょっとうるさい。


「これか。これはビットコインの採掘だ。最初は普通にCPUでやっていたんだが、最近GPUの方が効率が良いと気付いて、こうして試したんだ」

「ビットコイン?」


 お兄ちゃんは解説を始めた。

 でもその説明に知らない単語が一杯で、私にはちょっと難しかった。


「丁度だから、お前に十枚あげよう」

「いいよ、そんなの。せっかくお兄ちゃんが採掘? したんだから」

「いや、十枚って大した価値がないぞ。多分お前へのお小遣いにもならないくらい」


 そう言って、お兄ちゃんはパソコンを操作し、新しいビットコイン財布を作り上げた。


「ほら。これを覚えとけ。さっき言った秘密鍵」

「ええ……難しいよ」


 難しい英語単語十個以上。まだ小学生の私にとってはちょっと無理だ。


「まあ俺が覚えておくか。そしてここで記録して……よし。もうお前にビットコインを送ったぞ。ほら」


 俺にパソコンを見せるお兄ちゃん。


「お兄ちゃん。これ、十枚じゃなくて一万枚だよ」

「それは一万ミリビットコインで、十枚だぞ。ほら、そのBTCの前にはmがあるだろう? そのmって千分の一の意味ってさ」

「ないよ」

「ない? いや、まさか……」


 お兄ちゃんもまた目をパソコンに向けてチェックした。


「あっ。マジで単位を間違えたのか」

「今返してあげる?」

「いや、そのままでいい。一万枚でも大した価値がないから。それよりこれからはどうする? 何かしないことがあるの?」


 せっかくの機会だから、あの後お兄ちゃんと一緒に水族館に行った。

 ちょっと行ってみたいな、ってお兄ちゃんに提案したら、そのまま初めて水族館を楽しんだ。


 クラスのみんなは全員家族と一緒に行ったことがあるけど、私の場合は、両親が仕事で忙しくて、お兄ちゃんも勉強ばっかりだったし。


「じゃそろそろ帰ろか」


 ファミリーで夕食を済ませて、お兄ちゃんが言った。


「うん」

「送ってやる」

「ん? 一緒に帰るじゃないの?」

「一緒に帰るけど」

「お兄ちゃんの家に?」

「ん? いや、そんなわけがないだろう」

「いいじゃん。せっかくだし。着替えのタイツまで持ってきたし」


 私たちの間にそれが続いて、最後は私に勝てなかったお兄ちゃんは妥協した。


「じゃ俺はこのソファーで」

「一緒に寝ないの?」

「いや、流石に無理だろう」

「あんなソファーこそ、寝る場所じゃないでしょう」


 GPUが一杯置かれたソファー。


「少し片づけたら……ん……無理そうな」

「でしょう?」


 こうして初めて一緒に寝た。

 お兄ちゃんは「今日は特例だが、今後は何があっても絶対男と一緒に寝るなよ」って言った。

 お兄ちゃんって、何を馬鹿なを言っているのよ。

 私はもう子供じゃないし、それくらいは当然分かっている。

 お兄ちゃんも男って、当然分かっている……


 あれ?

 そういえば、お兄ちゃんも男だよね。

 女の子と違って、肩も広いし、体も硬い。


 そんなことがどんどん気になって、私はよく眠れなかった。


 翌日、新人は私を自家に送ってくれた。


 白鳥先生の所を通う為に、毎週必ず新人と一緒に電車に乗る。

 大学生になって、新人は電車の中で勉強することをやめた。

 私も電車の中でバレエの練習ができないし、自然に、毎週の電車時間が楽しいおしゃべり時間になった。


 でも今日は久々に静かな電車時間になった。


「本当にここまででいいの?」

「うん」

「お前、顔色が悪いぞ。やっぱり昨日はよく眠れなかったんだろう?」

「うん」

「俺もだけど……やっぱり自家で寝た方が良かったかな?」

「うん」

「練習なんて一日休んでも問題にならないから、今日帰ったらちゃんと休んで」

「うん」


 本当は新人の言葉が良く耳に入っていなかった。


「じゃ俺はここで。また来週」

「うん。またね、」


 私は改札口で手を振った


「新人」


 その日、私が「お兄ちゃん」と呼ぶのをやめた。


 ――――――――

「小镇做题家」:「小镇」→小さい町。「做题家」→試験問題を解く専門家。

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