第23話 渡来舞央 ①

「舞央も五歳になったね」


 あれは私が五歳の誕生日の日だった。

 うちは誕生日お祝いというものが存在しないから、家族四人が普通にご飯を食べているだけ。


「そろそろ何か塾を通わせたらどう?」


 どうやら、お母さんからの誕生日プレゼントが塾らしい。


「そうだな。舞央は何かに興味があるのかい? 音楽? スポーツ?」

「う……分かんない」


 お父さんの提案に私は反応が薄い。

 特に興味がないので、五歳の私にとって全部同じ。


「新人はどう思う? 妹に何を学ばせるのがいい?」


 今回お母さんが意見を求めた相手は、今十四歳の私の兄、渡来新人。


 両親が仕事で忙しくて、幼稚園に私を迎えるのもいつも「帰宅部」の兄だった。

 ある意味で、この十歳上の兄が両親より私のことを知っている。


 それともう一つ。

 お兄ちゃんはかなり成績がいいらしい。

 その原因で、随分両親に信頼される。


「バレエがいい、と思う」

「あら。いつも通り『知らない』と思ったら、まさか思う所があるなんて、珍しいね。なに? 妹のバレエ姿が見たいの?」

「別に。女子にそれが将来に役に立つと聞いたから」


 お兄ちゃんはご飯を食べながら、無感情に聞こえる声で返事した。


「んー。新人って、真面目に考えたんだ。あなたはどう思う?」

「いいんじゃない?」


 こうして、お兄ちゃんの一言で、私はタイツとレオパレスが離れない体になった。


 ――――――――


 私が一人でバレエ教室に通うことは流石に心配だ。

 でもお父さんとお母さんがいつものように仕事で忙しくて、


「じゃ俺がやるか」

「いいの? 新人の勉強に邪魔になるんじゃないの?」

「いいんだ。放課のお迎えのついで、みたいなもんだ。それに毎日じゃないし、ちょうど少し休みになる。そもそもくれくらい、俺には大した邪魔にならないと思う。多分」


 お兄ちゃんはそれを引き受けた。


 こうして、毎回私の送りとお迎えを務めるお兄ちゃんは同じバレエ教室に通う子供の親たちに覚えられた。


「おお、才子。今日も妹を送るって?」「いや、うちの子も新人君みたいになったらいいな」……


 お兄ちゃんは成績がいい。

 それはちょっとだけのレベルじゃなく、地元で結構有名な程度だ。


「じゃ、俺はこれで」


 お兄ちゃんの背中を見送って、私はバレエ教室に入った。


 ――――――――


「はい。今日はここで終わり」


 はー。

 やっと終わった。


 最初の新鮮味はもうとっくに消えて、毎回同じ練習を繰り返すばかりだ。

 しかもその練習というものって、ただ足や腰を何度も長時間で無理やり伸ばすことを繰り返すだけ。

 痛みと疲れしか感じない。


 何でこんなことを続けなければならないのかな。

 やめたい。

 この後お兄ちゃんに相談しよう。


 私は迎えに来るお兄ちゃんを待っていた間に、そんなことを考えていた。


 でも、他の子はもう全員教室から離れても、お兄ちゃんの姿はまだ現れなかった。


「あれ、舞央ちゃん、まだ居るの? 今日はお兄ちゃんが来ないの?」

「来る……はず、です」

「多分時間忘れ? 大丈夫、先生が連絡するから」

「いえ、その、大丈夫です。私がお兄ちゃんの方に行きます」

「いいの?」

「ここの一階ですから」

「……確かにね。じゃ気を付けてね」


 そうだ。

 お兄ちゃんはいつも一階のカフェで待っている。

 よく考えたら、わざわざお兄ちゃんが上がる方より、私が一階に降りてそのまま一緒に帰る方が効率的だ。


 そう思って、私は一人で一階のカフェに入った。


「おに……」


 店の角で、お兄ちゃんは鉛筆を動かす姿が目に入った。

 問題集に凄く集中していて、私が隣に来たのも気づいていない。

 計算用紙に、私の理解できない演算が一杯書いてある。


 何だか邪魔しちゃいけない雰囲気なので、私はただそこに立ち続いた。


 そして突然、机に飲み物がが現れた。


「ん? いや、店長? 俺、もう一杯頼んだ覚えがないけど」

「サービスだよ。それより、妹が待っているぞ」

「ん? あっ、やばい、舞央を迎える時間がもう過ぎた……えっ?」


 私の姿が目に入って、びっくりしたお兄ちゃん。


「お前のことを邪魔せず、ずっとそこで待っていたぞ」

「あっ。悪い、舞央。久々の難題で、つい時間を忘れた。今から帰ろう」

「あの、お兄ちゃん? ちょっと相談したいことがあって」

「ん? じゃそこに座ってゆっくり話しましょう。すみません店長、もう一杯ください。で? 相談ことって、何か?」

「あのね」


 私はリンゴジュースを吸った。


「お兄ちゃんって、勉強が好きなの?」


 相談ことって、確かにバレエをやめたいことだったけど、お兄ちゃんの勉強姿を見て、また別の疑問が浮かんだ。


 小学校に入って、私も簡単な勉強のことをやっている。

 でもその勉強って、好きか嫌いかと聞かれたら嫌いなことだ。

 バレエのことと同じように。


 でもお兄ちゃんは勉強に夢中だ。

 放課後、何の部活もせず私を迎えてくる。

 そして一緒に家に帰ったら、直ぐ自分の部屋に入って、寝るまで勉強をする。

 トイレや晩御飯を済ませる時しか出てこない。


 しかも家でだけじゃなく、せっかく外に出ても、このように隙があれば勉強する。


 だから、お兄ちゃんはきっと普通の人間と違って、勉強が好きでしょう。

 じゃなきゃこんなことができない。


「いや、全然?」


 お兄ちゃんもリンゴジュースを一口を吸って、軽く答えた。


「というか大嫌いだ」

「じゃ、じゃなんでお兄ちゃんはこんなに勉強に夢中するの? こんな場所でも、勉強するなんて」

「こうするしかないから」

「えっと……」


 意外な答えが理解できなくて、私は小首を倾げた。


「勉強って、全然大したことじゃない。でも俺にできることがこれしかないんだ」

「で、でも、みんなはお兄ちゃんが凄いって」

「じゃ考えてみろ。勉強ができるとどうなる?」

「それは、いい大学に入って、いい職を手に入って……」

「そして父さんと母さんみたいに、それくらいのお金の為に仕事で毎日忙しくて? 舞央は本当にそれでいいと思っているの?」

「えっと……パパとママみたいな、ちょっと、嫌だな」


 我が家は貧乏とは言えないが、決して上流世界の住民じゃない。

 そしてお父さんとお母さんは仕事でそんなに忙しくて、子供に関わることがちょっと欠けていると思う。

 少なくとも、こうしてお迎えをお兄ちゃんに任せているのはどうかと思う。


「まあ、別に父さんたちが悪いことじゃない。俺らの生活も父さんたちのお陰だ。でも俺が目指したいのはそんなじゃなくて、その……そんなに働かなくてもお金が一杯があることだ」


 私にはちょっと理解できないが、お兄ちゃんは何か凄いことを私に教えているのは薄々感じた。


「でも勉強しかできない俺は希望が薄いんだろう。舞央とは違って」

「私?」

「そう。舞央が今やっていること、俺の勉強より価値があるかもしれないぞ」

「そうなの?」


 また小首を倾げた私。


「いい? 舞央は女だ。女だから、違う方法でそんな目標を実現するのも可能だ。それが上流世界の男と結婚することだ。それを実現する為に、成績より女の魅力が重要だ。そして今の舞央がやっているバレエっていうのは、最も女の魅力を磨くものらしいぞ」

「でも、女の魅力って?」

「もちろん見た目が一番だ。男は誰でもブサイクより美人を自分の妻にしたいから」

「う……」


 何だか、私にはまだ完全に理解できないけど、お兄ちゃんが「教育に悪い」ことを教え込んでくれた気がする。

 でも同時に、この世にこんなことを教えてくれる人は多分お兄ちゃんしか居ないと何となく思った。


「で? 相談ことってまさかこれ?」

「う……うん! じゃそろそろ帰ろう、お兄ちゃん?」


 お兄ちゃんはあんなことを言ったから、私はバレエをやめることをしなかった。

 むしろお兄ちゃんが無理やり勉強しているように、もう少し頑張りたいと思う。

 好き嫌いに関わらず。


 そのあと、私は両親に頼んで、いくつのものを買ってもらった。

 そしてその頼みの結果、私の部屋がこんなことになった。


 大きな鏡。クッションとほかの簡単なトレーニング器具。

 バレエ教室にあったものは大体ここにも見える。

 ちょっと狭いけど、大体の練習はできる。


 勉強は学校と家だけでやれることじゃないって、お兄ちゃんが示してくれた。

 バレエも、バレエ教室だけでやれることじゃないもの。


「今日も始めようか」


 毎日家に帰ったら、お兄ちゃんが勉強を始め、私はバレエの練習を始める。

 バレエ教室に行かない日でも練習する。

 小学校の勉強はまだ簡単だから、あんまり時間を取らない。

 その分、バレエを練習する時間が増える。


 最初は辛いと思う時期もあった。

 でも、ストレッチの痛みって、数学問題のように複雑な方法も必要ないし、ただ少し耐えるだけで終わる。

 バレエの練習も、ただ毎日同じ動きを繰り返すだけなので、勉強みたいに毎日新しいものを覚えることより全然楽だ。


 こんな簡単なこともできなかった私は本当にどうかと思った。


「舞央ちゃん、凄い才能だね」


 結果、私のバレエを先生は褒めまっくてくれた。

 バレエ専用のトウシューズを履き始めてもいいって先生は判断した。

 でも履き方は難しくて、いつもお兄ちゃんがしてくれる。


 そしてある日、お兄ちゃんは一階のカフェからここに呼ばれた。

 私と一緒にチラシを目に通しながら、先生の言葉を聞いている。


「だから、私的には、こんなチャンスを逃がすのが絶対惜しいと思うよ」


 どうやら、世界有名な元バレリーナ、白鳥しらとり先生が自分のバレエ教室に生徒を選抜中、みたいな話。


「お兄ちゃんはどう思う?」


 帰り道で、私はお兄ちゃんに聞いた。


「舞央は? 興味がある?」

「ちょっとあるけど、でもほら、その星見ほしみ市って結構遠いし、学費も絶対高いし……」


 星見市はあの白鳥先生の住む場所。

 そこで先生はバレエ教室を経営し、同時に地元の学園のバレエ部を指導するらしい。


「そんなこと、受けいれてもらったらまた考えてもいいよ。でもそうか。興味はあるか。じゃ次の週末、一緒に行こう」


 お父さんとお母さんはどっちも出張する予定。

 そして私みたいな子供を一人でそんな遠いところに行かせない。

 つまり、お兄ちゃんが同行しなければ私は選抜に参加できない。


「でも、お兄ちゃんはもう受験生だし」

「二日くらいは大丈夫だ。それにほら、新幹線にも勉強ができるし」

「……うん」


 でも、お兄ちゃんと初めて二人きりの旅行……みたいなシチュエーションになると考えたら、私は断る言葉が出なくなった。

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