⑫レンタカー

「紅美?・・・少し、落ち着いたら?」

 水曜日の午前十時少し前。

 リビングのソファーで雑誌をめくっていた母が、あたしを振り返った。

「だって・・・」

 あたしは、着慣れないワンピースに先程から着心地の悪さを覚えていた。

「やっぱりジーパンにしようかな・・・」

「中村くん、もう来るわよ?」

「やっぱ、着替えるっ」

(中村じゃないっつーの!)と心でツッコミを入れながら、あたしはリビング階段を駆け上がる。

ブーブー、ブーブー・・・

「紅美!」

 リビングのテーブルの上のあたしのケータイが鳴ったのとほぼ同時に、母が叫んだ。

「ケータイ、鳴ってるわよっ」

「あぁ~ん、もうっ!」

 上がり掛けた階段を下りるあたしに、「自分のせいでしょ?」と母は冷ややかな口調で呟いた。

「・・・はい、紅美です」

 初めて出る絢さんからの電話に、少し緊張する。

「・・・あの・・・少し待ってもらえますか?・・・はい、すぐ出ます・・・ごめんなさい」

 電話を切ると母に、「早く着替えてらっしゃい!」と急かされた。


 いつもの薄ピンクのニットとジーパンに着替えてすっきりしたあたしは急いで下階に降り、テーブルの上のケータイをデニムのショルダーバッグにしまった。

「いってきます」

「気を付けなさいね?」

(何に?)

 と思ったが、時間が無いのでスルーする。

 靴箱から滅多に履かない余所行よそいきのローファーを取り出し履き、そして、玄関に取り付けられてある全身鏡の前でささっと自分を整えた。


 玄関ドアを開けると、アプローチの向こうにある門のかたわらにシルバーの神々しい車が停まっているのが見えた。

(軽四じゃないんだ・・・しかし、えらく派手な車だなぁ・・・)

 そう思いながら門を出て、再度車を確認する。

(ん?・・・)

 何かがおかしい。違和感を感じる。だけど、その違和感の正体は判らなかった。

 やはり髪の毛をぼさぼささせた絢さんが、あたしに微笑みかけた。あたしも微笑み返す。全ては順調だった。だけど・・・違和感は拭えない。

 あたしは、車の左ドアの前に立った。そして、ドアを開けようとしてびっくりした。そこには絢さんが座っていた。

「ぇ?」

 思わず声が漏れた。

 ウィーンと窓が下がる。

「左ハンドルだから、紅美ちゃん、右だよ」

「え?!」

 どうやらそれは、外車の様だった。瞬間、違和感の謎が解けた。

「ぁ・・・ごめんなさい」

 何故謝ったのか判らなかったが、自然に口からその単語が出ていた。

 あたしが右側に回った時には、内側から絢さんがドアを開けてくれていた。

「あ、ありがとうございます・・・お邪魔します」

「あはは・・・家じゃないんだから」

「あはは・・・ですね」

 この時のあたしの緊張は、最高潮に達していた。

(ちょっと待って~・・・外車をレンタルしたの?!・・・めっちゃ張り切ってるじゃん)

「じゃ、出発するよ?」

 言いながら、絢さんは車を優しく発進させた。

(初めて乗る車の筈なのに、なんか慣れてる気がする・・・いつも、これ、レンタルしてるのかなぁ・・・)

 そんな事を思いながらぼーっとしていると、「どこ行きたい?」と不意に訊かれて少し驚いた。

「え?」

「ん?・・・行きたい所、ないの?」

「ぁ・・・絢さんとなら、どこへでも」

「昭和の歌のタイトル?」

 絢さんは大きく口角を上げて微笑んだ。唇の隙間から見えた歯が綺麗だった。

「あ、えっと・・・ドライブとか、初めてなので・・・」

 と口籠るあたしに、「そうなの?!それは光栄だねぇ」と言って「じゃあ、海行く?」と続け、チラっとこちらを見た気がした。

 あたしは硬直状態のまま、真っ直ぐ前を見据えていた。膝に乗せたバッグを持つ手に力が入る。

「海ならやっぱサザンだね!」

 大きな道路での信号待ちの時にそう言うと絢さんは、どこから出してきたのか一枚のCDをカーオーディオの中に滑り込ませた。暫くすると、桑田佳祐のしゃがれた、それでいて心地良い歌声が流れて来た。聴いた事ある曲だけど、タイトルは判らなかった。

(サザンのCDまで準備してたの?・・・最初から、海の予定だった?!)

 程なくして、車はそのまま高速に乗った。

「あのぉ・・・」

 無言に耐え切れずあたしは、口を開いた。

「ん?何?」

「外車って、レンタルでもやっぱ高いんですか?」

 メールではタメ口でいけたのに、リアルだとどうしても敬語になってしまう。

「さぁ・・・ま、多少は高いんじゃないのー?・・・知らないけど」

「え?!・・・知らないんですか?」

「うん、知らないよ?」

「じゃあ、この車はお友達か誰かのですか?」

 失礼、という感覚の無いまま、あたしはごく自然にその台詞を口にしていた。

「へ?」

「あっ・・・ご家族とか?」

 あたしは当たり前の様にその台詞を口にして、首を少しだけ左に向けた。

 絢さんは前を向いたまま目尻を下げた。

「えっと・・・紅美ちゃん?」

「はい?」

「これ、俺の車だよ?」

「?!」

 驚き過ぎて声が出ない、というのをあたしは初めて経験した。と同時に、恥ずかしさで穴があったら入りたくなる、というのも初めて体験した。

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