3話

「寺田先生、近々別の病院に異動になったから。諸々引継ぎよろしく」


  異動の話を聞いたのは今年のはじめ。冬の寒さが特に厳しく、午後には雪が降るとテレビで言っていた。

 麻衣子がこの病院に勤めて数年、いつの間にか先輩から怒られる事もなくなった。患者からも信頼され、「寺田先生なら安心だ」と言ってくれる人もいた。後輩が初めて患者とふれあい戸惑っているのを見ていると、昔の自分を思い出して思わず苦笑いしてしまう。

 定期回診はもうだいぶ前に他の人に変わってしまい、それ以来妹尾と会う事も少なくなった。それでも、麻衣子がちょっと疲れていたり辛い気持ちになった時、気がつくと麻衣子は妹尾の病室の前に立っていた。病室に入ると、いつも優しいセピアの世界と妹尾の温かい笑顔が待っていた。

「なんだまいちゃん先生、また疲れた顔してるな。美人が台無しだ」妹尾はいつも麻衣子を迎え入れ、日々の他愛ない話をして麻衣子の心を癒してくれた。

 麻衣子は異動の話を受け、どうしようかと悩んでいた。

決して悪い異動ではない、仕事を認められての事だと理解している。待遇も給与も今より良くなるし、自分にはもったいないくらいだ。

 そう、もったいない——麻衣子は思った。

 自分はまだまだ半人前だし、そんな良い待遇を受けて良いのだろうか。そりゃ昔よりは色々とうまく出来るようにはなったけど、ここで学ぶべき事はまだまだあるのではないか。

 覚えていない事もたくさんあるし、教わっていない事もたくさんある。先輩たちのように立ち居ふるまうなんて、全然できていないように感じる。

 それに、今自分が診ている患者の事も気になる。いつかは自分の手を離れる事になるとは言え——それがどんな形であっても——出来れば彼らの行く末を見届けたい気持ちはある。もちろん、踏み込みすぎた感情を持ってはいけないのは十分わかっている。しかし少なからずの情のようなものを捨て去る事も、麻衣子にはできなかった。それに……。

 嬉しい、でもどうすれば——麻衣子の頭の中でその言葉がぐるぐると廻り続けていた。

 ふと視線を上げた。いつの間にか廊下に出ていたらしい、ある病室の前で止まっていた。この数年、自分が弱っているとつい足が向いてしまうこの場所に。

 控えめにノックをし、扉を開ける。目の前に広がるのは、いつもと変わらない夕焼けの景色。その中で、ベッドに座る老人はこちらを見ながら、いつものように優しく微笑んでいる。


「おお、まいちゃん先生、久しぶりだな」


 麻衣子は吸い込まれるように妹尾の近くに行き、ベッド脇にあるパイプ椅子に力なく腰かけた。そして黙ったまま何も言えず俯いてしまった。妹尾はそんな麻衣子に声をかける事もなく、ただ静かに麻衣子の傍らに座っていた。

「私…——」やがて、麻衣子がおずおずと喋り出した。妹尾は麻衣子のほうを見ないまま、黙って聞いていた。


「私、今度異動が決まったんです。ここから新幹線で行くぐらい遠いところに。異動自体は凄く良い事で、今よりもずっと良い環境でお仕事できるようになるんです。それはとてもうれしい事なんですけど。でも、私なんかがどうして?って思ってしまって…。まだまだできない事もたくさんあるし、こうやってすぐに悩んでしまうし。新しい環境になって、うまくいく保証なんてなくて…」


 麻衣子の口からぽろぽろと零れ落ちる言葉を、妹尾はただ黙って聞いていた。


「私、不安なんです。今より期待されて、その期待に応えられなかったらって思うとすごく怖くなって…。それよりも、ここでまだまだ勉強して、もっと自信をつけた方が良いのかな、とか考えてしまって。そんなふうに考えてしまう自分が、情けなくて…」


 いつしか麻衣子の目から小さな雫が流れ落ちていた。それは静かに流れて落ちて、膝に置かれ硬く握られた自分の手の甲を濡らした。


「それに……もしこの病院から離れてしまったら、もう妹尾さんに会えない。妹尾さんがいるから、私頑張れたのに。それが、すごく不安で……」


 そこまで言うと、麻衣子はまた口を閉じた。茜色に染まる病室には麻衣子のすすり泣く声だけが聞こえ、夕暮れの喧騒も聞こえてこなかった。

 やがて、妹尾はゆっくりと身体を麻衣子に向けると節くれた細い手を麻衣子の手にそっと添えた。その手は初めて握手した時と同じように硬く冷たかった。しかし何故か麻衣子にはその時はとても温かく、柔らかく感じられた。


「ありがとうな、まいちゃん先生。そんなふうに言ってくれて。俺も先生と話すのはすごく楽しかったし、救われてたよ」


 妹尾は麻衣子の手に触れたままそう言った。麻衣子は力なく頭を横に振る。自分は妹尾に助けられてばかりで、救った事なんてない——そう思った。


「先生には、よく娘の話をしていただろ?実はな、あれは全部嘘だったんだ」


 麻衣子は思わず顔を上げた。妹尾は穏やかに微笑みながら麻衣子の顔を見ている。妹尾の手に、少しだけ力がこもった。


「本当は娘はもうずいぶん昔に死んじまったんだ。交通事故でな、旦那も孫も、みんな俺より先に逝っちまった。俺は仕事仕事でなかなか娘に構ってやれなくてな。結婚して家を出てからは、本当に話す機会がなかった」


 妹尾はいつしか、茜に染まる窓を見つめていた。光に照らされ細めながら遠くを見るその目は、穏やかだけどとても悲しそうに見えた。


「あいつが死んで、もっと構ってやれば良かったと思ったよ。もっとたくさん話しておけば良かった、とね。毎日のように後悔したよ。娘にしてやりたかった事、してほしかった事、それがもう二度と叶わないって思うと、本当に辛かった」


 そこまで言うと妹尾はまた麻衣子の方を向き、より力強く麻衣子の手を包んだ。麻衣子もいつしか、妹尾の手を強く握っていた。


「だからな、まいちゃん先生。先がわからなくて不安な事はたくさんあるだろうが、後悔の残るような事はしちゃいけないよ。俺みたいに、あの時ああしていれば、なんて言うような事はしちゃいけない」


 妹尾の声は強く、そしてどこまでも温かかった。麻衣子は妹尾を見つめたまま、自然と小さくうなづいた。窓の外では、夕日がゆっくりと沈み始めていた。


「大丈夫だ、まいちゃん先生ならきっとどこへ行ってもうまくやれる。こんなに優しくて頑張り屋の先生なんだ、きっと大丈夫だ。俺が保証するよ」


 そういうと、妹尾は握っていた手をそっと離して麻衣子の頭を優しくなでた。細く痩せた手で何度も何度も、まるで自分の娘にそうするように。

 いつしか、病室は夕暮れの茜色から、夕闇の紺色へと変わっていた。もうすぐ、夜が来る。


「妹尾さん、ありがとうございます」


 夜が近づく病室で、麻衣子はまた静かに泣いた。そんな麻衣子を妹尾は優しく見つめながら、いつまでもその頭を撫で続けていた。



 その日から、麻衣子は異動に向けて準備を始めた。通常の仕事に加えての準備だったので大変だったが、不思議と嫌な気持ちにはならなかった。むしろ、忙しい事を前向きにとらえられるようになり、慌ただしい中にも充実した日々が続いた。

 麻衣子はどんなに忙しくても、患者と触れ合う事をやめなかった。忙しい時ほど親身になって彼らの言葉に耳を傾けるよう努めた。そうする事で、少しでも患者の不安を和らげる事が出来れば。それが今出来る精一杯の事だと麻衣子は思った。

 あの日から、妹尾と会う事はなかった。時折病院内を歩きながら病室のネームプレートを見てみるが、何故か妹尾の病室を見つける事はなかった。

 やがて冬が過ぎ、桜の芽がほころび始めたころ、麻衣子の異動日が正式にきまった。仕事だけでなく、身の回りの準備も進めていった。引っ越しの準備や転居手続き、各所への連絡。家でも病院でも目まぐるしく日々が過ぎていき、あっという間に異動日が来週に迫った。明日からは異動の準備期間なので、この病院で仕事をするのは実質今日が最後となる。

 あらかた引継ぎも終わり、あとは細々とした手続きだけになっていた。少し時間が出来た麻衣子は、最後の回診へと向かった。

 窓を見ると、既に日が傾いて空は澄んだ春の青色から、柔らかなオレンジ色に変わりかけていた。青とオレンジのグラデーションがゆっくりとその形を変えていく様はとても美しかった。

 麻衣子は病室を一部屋ずつまわり、回診と別れの挨拶をしていった。何人もの患者から礼を言われ、中には涙を流してくれる人もいた。自分が思っている以上に患者から信頼されていた事を知り麻衣子は驚いた。自分はちゃんとあの人達と向き合えていた——そう思うと、麻衣子の心に喜びがあふれだした。

 一人一人丁寧に回診をし、病室を出ると空はすでに完全な茜色に染まっていた。少し時間をかけすぎたかもしれないけど、最後だし仕方ない——そう思い、麻衣子が廊下を歩きだした。だいたいの人への挨拶は終わった。しかし、まだ一人だけ挨拶できていない人がいる。その人にもちゃんと別れを告げないと、きっと後悔する。麻衣子は廊下を進んでいった。

 なんとなく予感はあった。しばらく歩いてふと目を上げると、見慣れた病室の扉があった。

他の病室より少し古ぼけたドアを麻衣子は軽くノックした。そしていつもと同じように「失礼します」と声をかけてからゆっくりと開ける。そこにはいつもと変わらないセピアの世界が広がっていた。そしてその世界で一人座っている人物が、こちらを見て優しく微笑んだ。


「久しぶりだな、まいちゃん先生」

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