2話
麻衣子が妹尾に会ったのは、まだこの病院に配属されてすぐの頃だった。
医師になって初めて配属されて、右も左もわからない中で必死に仕事をこなした。知識として理解している事でも患者の姿を目の当たりにすると戸惑いを隠す事ができず、患者を不安にさせてしまう事もしばしばだった。
世間的には女性の社会進出が進んできているとはいえ、まだまだ医局によっては男性優位な傾向もあり、女医だというだけで疎まれたり、馬鹿にされたりもした。
仕事が出来ない分他の雑作業を手伝う事で補い、その結果残業も続き、夜勤じゃない日でも帰れない事がしょっちゅうだった。あの頃は医師でありながらも心身共にぼろぼろだった、と麻衣子は当時を振り返る。
麻衣子は、ある区画の定期回診を任されていた。自分の担当ではなかったのだが、失敗の尻拭いをしてくれた先輩医師に押し付けられるような形で、数日前から請け負った仕事だった。
病室を一部屋一部屋廻り、体温や脈拍などを確認してチェックリストに記入する。その際に患者とコミュニケーションを取り、何か変化はないかと確認。それを日報にまとめて担当医師に伝える。
協力的な人も居れば、まったく協力してくれない人も居る。そういう人にも根気強く声をかけて、些細な事でも聞き漏らさないようにする。そうでないと、何か体調が急変した時に的確な処置ができないからだ。神経も使うし気も遣う、見た目に反して過酷な仕事だった。
その日麻衣子はとても落ち込んでいた。小さなミスで先輩に怒られたり、患者からいわれのない罵倒を受けたり…様々な事が重なって、とても明るく患者と接する気力がなかった。
いつも以上に淡々とチェックをこなし、患者との会話も上の空だった。いつもは笑顔で答えてくれているご婦人からも「先生、聞いてますか?」と軽く注意されてしまう始末だ。患者にさえ注意されてしまう自分にも、どうしようもなく落ち込んだ。
私、この仕事向いてないのかもしれない…——やるせない気持ちのまま、顔をあげる事もなく流れ作業のように次の病室をノックする。
「失礼します、定期回診です」事務的な声掛けとほぼ同時に扉を開ける、とその時——
「なんだい先生、俺より具合悪そうな顔じゃないか」
しわがれているが温かみのある声に、麻衣子は顔を上げた。
夕日でセピア色に染まった病室、揺れるカーテン、時代遅れのブラウン管テレビ、古臭いベッド、そしてそこに座ってこちらを見ている老人。妹尾はその時も今と変わらない姿でそこに居た。
「あ、すみません。えっと……妹尾さん」
ベッドわきに置かれたファイルを見ると、名前欄には「妹尾 正」と書いてある。初めて見る名前だった。
「なあ」と妹尾が声をかけた。
「あんた、初めて見るな。名前はなんていうんだ?」
「あ、えっと、寺田と言います。今日から妹尾さんの定期回診をさせていただきます」
「寺田さんか。下の名前はなんていうんだい?」
「え……麻衣子、と言いますけど」
「じゃあ、まいちゃん先生だ」
妹尾はからからと笑いながら、細い腕をこちらに伸ばして麻衣子の前に手を差し出した。突然の事でしばらくわからなかったが、すぐに握手を求められているのだとわかり麻衣子はおずおずとその手を取った。手は枯れ木のようにかさかさで、冷たかった。
「俺は妹尾正って言うんだ。よろしくな、まいちゃん先生」妹尾はそう言うと顔のしわをさらに濃くするように笑った。
あっけにとられていると妹尾は「さて、先生も忙しいだろうし、早く始めようか」と促された。麻衣子は慌ててペンを取り、チェックリストにチェックをしていった。
麻衣子はこんなに友好的な患者に初めて出会った。もちろん優しい人もたくさんいる。しかし、どんなに優しい患者であっても、最初は緊張と自分の身体への不安で、自然と相手に壁を作ってしまうものだ。その壁をゆっくり取り払い信頼してもらうために麻衣子達は彼らに何度も何度も声をかけ、話を聞いていくのだ。
なのに、この妹尾という老人は最初から心を開いてくれているように麻衣子は感じられた。まるで見舞いに来た旧友に自分の体調を話すように質問に答えてくれる。しかも、その声からは不安や恐れがまったく感じられない。天気の話でもするように自分の不調を伝えている、麻衣子にはそんなふうに見えた。
すべてのチェックが終わり、ファイルを戻して「では、今日はこれで終わりです」と言うと、妹尾は「わかった。ありがとう」と少し禿げかけている頭を下げて、また微笑んだ。感謝の言葉をかけてくれる患者はもちろんいるが、何故か妹尾からの言葉は麻衣子の荒んだ心に優しく響いた。
「明日もまた来ますので、何か変わった事があればすぐに教えてくださいね」
「ああ、わかったよ。すまないね、先生も忙しいだろうにこんなじいさんの世話させちまって」
「いいえ、私なんてこれくらいしかできませんから」
小さな溜息と一緒にそんな言葉が麻衣子の口から漏れ出した。何気ない、本当に自然に飛び出た言葉だった。言った後で「何故こんなに卑屈な言い方をしてしまったのか」と、麻衣子は心の中で自己嫌悪した。
妹尾は少し黙っていたが、やがて静かに言った。
「まあ、先生にだって色々あるわな」
そしてポケットから何かを取り出すと、それを麻衣子の手に握らせた。手をひらいてみると、小さなミルクキャンディーが一つ。
「疲れた時にはこれ食べると元気になるんだ」妹尾はそう言って、また優しく笑いかけた。
麻衣子は妹尾の顔を見る事が出来ず「では、また明日」とだけ言い残して、急いで病室を出た。そうしないと、あの場で泣き崩れてしまいそうだったからだ。久しぶりの労いの言葉に気持ちの整理をつける事ができなかった。
自分を労わり、心配してくれる人がいる。そう思うとそれまでささくれ立っていた気持ちがすーっと軽くなっていく気がした。
麻衣子はしばらく妹尾の病室の前にしゃがみ込み、静かに涙を流した。
それから毎日、定期回診の一番最後に妹尾の病室へ行き、そこでチェックをしながら立ち話をする事が麻衣子の日課になった。
妹尾の部屋はいつ行っても西日のセピアに彩られ、そこではすべての時間が止まっているように感じられた。妹尾は麻衣子の問いに答えながら、時折自分の話をするようになった。妹尾には娘が居り、良く見舞いにきては色々と世話をしてくれる、と彼は言った。
「娘に甘えるなんて父親としては情けないけどな」はにかみながら笑う妹尾を見て、麻衣子は少し可愛らしいと感じた。
「今日娘がリンゴを剝いてくれたんだ。うさぎ型に切ってくれてな、あんまり可愛いから食べるのがもったいなかったよ」
「今日は娘の旦那が一緒に見舞いに来たんだよ。ありゃ良い奴でな、娘も良い男を捕まえたなって思うよ。本人には言ってやらないけどな」
「娘に勧められた本を読んでるんだ。この年になると長く読むのは苦労するが、温かくて、優しい話なんだ。今度まいちゃん先生にも貸してやるよ」
妹尾の話には、いつも娘が出てきた。娘の話をする時の妹尾は本当に嬉しそうで、娘の幸せを心から願っているだろう事が見て取れた。
娘さんは、本当に妹尾さんに愛されてるんだな——麻衣子は幸せそうに話す妹尾の笑顔を見ながらそう思った。しかし麻衣子がこの病室でその娘に会う事は、一度もなかった。
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