届け、私の思い
霜月かつろう
第1話
こんなことならもっと体育の授業を真面目に受けておけばよかったとか、運動部に入ってランニングの少しでもやっておけば違ったのかなとか。そんあことを思いながら、これであってるんだっけと頭を悩ませながら手に持っている袋を思いっきり前方に向かって投げる。
届け、この思い。
そう願いを込めたその袋はかろうじて放物線を描いて空へ舞っていった。
数十分前。映像で見ているのとは随分とかけ離れている光景に絶望していた。それこそ練習してくればよかったと思ったくらいだ。
中は寒いのでお気をつけてお入りください。夏場だと言うのに入り口で係の人がそんなことを言うのはここがアイススケートリンクだからだ。
ここで推しのあの人の滑りを見られるのだと思うと心臓の鼓動が頭蓋骨を揺らしているようにすら錯覚する。
初めて映像で見てからもう3年。いよいよ間近に迫ったその待望の時間を待ち構えている。
でも。氷が観客席からあんなに遠いなんて聞いていない。これじゃあ届かないかもしれない。そう不安になる。
フィギュアスケートに滑り終わった選手に向かってプレゼントを投げる習慣があると知った時は自分の手で届けられる素晴らしさに心踊ったし、いつかやるものだと瞬時に判断していた。
そうして推しの好きなものを必死にリサーチして。投げれば届く席を確保するの2年を要した。しかし、まさかだ。
ここでこんな罠が待ち受けているなんて。
映像で見ている分には簡単に届いてたいたはずの客席から氷までの距離が実際に目にしてみると途方もなく遠く感じる。
まさか遠投の練習が必要になるなんて思いもしない。だって映像で投げているのはほとんどがおばちゃんに見えたからだ。彼女らが届かせられるなら私もできるだろうと高を括っていた。
しかし、そんな不安は演技が始まれば頭のすみから追い出されていく。推しが動くだけで心が跳ねるのがわかる。心臓から血液が一気に送り出されて体中が熱くなる。
でも、それは一瞬のこと。拍手とともにあたりがざわつき始めて何人かが立ち上がる。遅れまいと一緒になって投球のポーズをとる。
そこでやっぱり不安に押しつぶされそうになるのだ。届かなかったらどうしよう。でも、投げない選択肢はない。これを推しに届けるのだ。
思いっきり振りかぶって。そうして放り投げた。
届け、私の思い。
それは、意外なほどにも飛びすぎて。推しの頭にコツンと当たってしまった。
頭が真っ白になる。わたわたと四肢を動かすけれど。そこからどうしていいのかわからない。
ふと。推しと視線が交わった気がして身体が固まった。
ニコリ。
笑いかけてくれたその推しの姿を見て。そこからの記憶がない。どうやって家路に付いたのかも覚えていない。
気がついたら映像で推しの滑りをぼーっと眺めていた。
もしかしたらあれは夢だったんじゃないかと思い始める。きっと思いは届かなかった。そう思いながらずっと推しを見続けた。
でも、それも一晩だけだ。翌日のニュースの見出しを見て血の気が引いて現実に呼び戻された。
届け、私の思い 霜月かつろう @shimotuki_katuro
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます