メダカ

北緒りお

メダカ

 透きとおった針が刺すような川の冷たさの前に、体の感覚はすっかり失われてしまい、小さな体についていてる尾ひれがちゃんと動いているのか、胸びれは広がっているのか、それすら自分で感じられないぐらいに冷え切っていました。それでも、川の流れるままに下流を目指してどれぐらい経ったのでしょうか。

 それはまだ、夏の真っ盛り、太陽の日射しがまっすぐに小川を照らし、まるで切り抜いたような影が川底に落ちるような日でした。狂気のような日射しをさけるために水草の陰に集まっていたなかに、この小川で長老のメダカがまざり、周りにいる今年孵化したばかりのメダカに話をしている所でした。

 長老は長く生きているだけあって、体も一回り以上大きく、尾びれも胸びれもひらひらと大きく、体の割に大きな目の縁には鱗に光が当たって乱反射したかのようなきらきらとした縁取りがあり、小さなメダカたちは敬意のまなざしをもってその話に聞き入っているのでした。

 長老メダカは言います、いまは暑くて暑くてしょうがないけれど、真冬になると空からそれはそれは冷たくてけれども真っ白なのが降ってきて、木々や草花、川の中が冷たく固まってしまうと。けれども、空から降ってくるのは真っ白でふわふわとしたタンポポの綿毛みたいなやつがあって、水に着くと音もなく水の中に入ってきて姿が消えてしまうのがあると稚魚たちに言っていました。

 水草の木陰に集まったメダカたちはほとんどが今年卵からかえった子たちです。おなかについていた卵の名残が消えて、やっと泳げるようになった子たちにとっては、その話はおとぎ話のような空想の世界の出来事と思っていました。

 この子達は空から降ってくるものといえば、雨ぐらいしか知りません。雨の降る日は水は濁り、水面はびたびたと雨粒が打つ音でうるさく、さらには小川の流れも急になるので、メダカたちにとっては雨というのはやっかいなものだと思っていました。

 長老がいうには、真冬の綿毛は、どんなに降っても水面にふれると水の中に音もなく吸い込まれて消えてしまうのだけれども、地面に降ったのは少しずつ外を白く染め上げていくのだと教えてくれました。

 ただ、その時期になると枯れ葉の陰や泥の中に埋もれて、じっと春を待つ時期なので、眠くて眠くてとても外を見ていられないとも長老はいっていました。

 長老はたまたま、ちょっとだけ眠りが覚めて、そのときに見た真っ白な風景を教えてくれていたのです。

 太陽がじりじりとメダカたちの川を照らし続けた夏が終わり、蝉が鳴く時期が過ぎると、いよいよメダカたちは春までの眠りの季節になります。よっぽど天気がいい日か、季節はずれに暖かい日でもない限りは、流れがないところに体をおいて、一日中寝て過ごして春を待つのです。

 皆が自分の寝床を探して水草の根元や、ザリガニが掘って放りっぱなしにした穴や、石の裏に体を潜ませようとしているときに、夏に聞いた冬の綿毛を診ようと一人がんばっているメダカがいました。

 この小川は、真冬でも広葉樹がじゃまして空が隠れています。メダカは皆が眠るための準備をしているこの時期に、背の高い木々が少なく川幅の広い下流に降りていこうとしていたのです。

 メダカの旅はゆっくりと、でも少しづつ確実に前に進んでいました。

 生まれ育った小川、小川と言うよりは水路といった方が正しいような細い川から徐々に広い所に移動し続けて数日たったある日のこと、一休みに入った石の裏にヌマエビがいました。メダカを見たヌマエビは、目だけをこちらに向けて話しかけようとしてきました。ヌマエビもメダカ同様、春までうつらうつらしながら過ごすつもりでこの石の裏にいたのです。そこに、下流まで泳いでいこうとしているメダカが現れたのですから、驚かないはずがありません。堅そうな殻に覆われた頭からピンと出っ張った目で、こちら珍しそうにながめながら、でも、体はそのままの向きでゆっくりと話しかけようとしてますが、眠気に勝てないで目だけがこちらを向いています。川の生き物は冬のあいだはほとんど動くことがなく、寝てすごすのが常識なのです。

 メダカも、それはわかっていました。ひれを動かそうとしても、感覚が鈍っていて水をかいているのか、そもそもちゃんと動かせているのかが判らなくなり、まっすぐ泳いでいるつもりなのに、夏みたいにすいすいと進めないで、ちょっと進んでは止まってしまう。頭もちょっぴりぼうっとして、時々目の前に薄いもやがかかるようにして、すうっと眠りに落ちそうになる。

 そういう体の変調を押し切って、冬の綿毛を見に行こうとしていたのです。

 長老メダカに聞いた話はいつまでも頭の中に残っていました。そして、その話を繰り返し自分の中で唱えてみて、川辺一面が真っ白になって陽の光できらきらときらめく世界を思い描いていたのです。

 このメダカが生まれ育った小川は春になると一面のタンポポが川沿いを覆い尽くします。卵からふ化したのはちょうどタンポポが花を広げている頃でした。

 やっとおなかについた卵の名残がすっかり消えて、ピコピコと泳げるようになったぐらいでしょうか、今まで黄色い花をつけていたのがふわふわとしたまん丸に姿を変えた頃でした。タンポポの綿毛が風に吹かれて空一面に飛んだことがありました。どこまでも続く青い空に、薄く綿を広げたように、空を包むように流れていく綿毛の群れ。

 いくつかは水面に落ち、目の前で見ることができました。あまりにも軽すぎるタンポポの種は、水面に着いても沈むことはなく、綿毛と種が水の上にちょこんと置いてあるように見えました。

 小さな口でちょっとつついたぐらいでは水の中に入ってこないのですが、そのときに感じた真っ白な綿毛のやさしい繊細さ、そして春の陽気。水中から見たきらきらと光る綿毛の美しさがメダカのはじめての感動でした。

 寒くなった冬でも見られる、そしてタンポポと違って一面につもってあたりを真っ白にしてしまうのだったら絶対に見てみたい。その一念で川を下り、普通だったら野鳥に見つかりやすいので避ける危険な場所まで一気に泳ごうとさせた原動力だったのです。

 でも、初めての冬に対してこの小さなメダカは無知でした。寒さで体はほとんど動かず、眠くて眠くて目はほとんど利かず、かろうじて聴力だけが、メダカに残された感覚といっても正しいぐらいでした。

 メダカは、春に聞いた水面に綿毛が落ちる音、それだけを頼りに、川の流れ逆らう事もなく下流へ向かっていたのでした。

 春に聞いたタンポポが水面に着く音、それは音と言うにはあまりにも小さく注意していても聞こえないぐらいなのですが、真っ白な綿毛に見とれて、それが水面に着いた瞬間にはっきりと聞き取れたような気がしました。

 川の外は連日の冷え込みで、明け方には霜柱が立ち、水たまりの表面にはうっすらと氷が張るぐらいになっていました。

 メダカは泳ぐと言うよりは、流れの中で少しだけ体を震わして、それで本流に近づこうとしながら下流への旅を続けてきました

 あたりはすっかり木々の影も薄くなり、冬の太陽が直に体を照らすのが感じられるような見晴らしのいい所でした。

 流れのある川は凍る事はありませんでしたが、いつ氷が張ってもふしぎではないぐらいに冷え切り、そして川の中にいる生き物はほとんどが冬の眠りの中でまどろんでいました。

 いつもの、冬の澄み切った晴れとは違う、どんよりとした曇り空の下、いつもよりも寒さが増した川底で、メダカは全身が固まったように凍えてしまい、自分の力でできる事と言えば、流れの中に雪の音がしないかを意識するぐらいでした。

 朝から降り続いた雨は、止む事もなく夜になり、辺り一面が冷たく濡れ、川底にいてもしんしんとした寒さにかろうじて残っていた意識も、ほとんど消えそうになった頃です。

 もう、何が夢で何が現実か判らなくなって、冷え切って動かなくなった体が自分のものではなくなったように感じたそのとき、水面にふれる綿毛の気配がしました。

 耳を澄まそうにも全身が自分のものでない位に凍えて音がしているのかも判らないぐらいだったのに、はっきりと春先に聞いた綿毛が水面に付く音を感じたのでした。

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