第7話 二度目の人生②(ラファエル視点)



 薔薇園へ向かう間の記憶はまるでない。

 足元がふわふわとしていて、分厚いクッションの上を歩いているかのような心地になる。

 それでもこれが夢ではなく現実であることを、私のエスコートの手を取るブロッサム嬢の手の感触が教えてくれていた。


 ブロッサム嬢の手は指がほっそりとしていて、ひどく柔らかい。私の手と大きさはさほど変わらないように見えるのに、とても繊細なものに感じる。指の白さだとか桃色のような爪だとか、ひどく愛らしい。

 彼女のしっとりとした体温を感じて、ああ、これが女の子の手なのだな、と涙が溢れそうになった。

 母の手の温度さえ知らない、乳母と手を繋いだ記憶もない私には、この手のぬくもりが、前回と今回のふたつの人生を合わせても初めての異性のものだった。


 チラリと、隣を歩くブロッサム嬢をうかがう。その美しい横顔が見れたら、と。

 けれど彼女はずっとこちらを見ていたようで、ばっちり視線が合ってしまった。

 穏やかな表情をしたブロッサム嬢の黄緑色の瞳が柔らかく細められる。

 王宮お抱えの庭師が作りあげた薔薇の楽園のなかで、彼女は花の精霊のようだった。ハーフアップにしたローズピンクの髪を彩るちいさな花たちがとてもよく似合っている。

 目が合ってしまったことが恥ずかしくて、胸の高鳴りが苦しい。それなのにもう一度だけでもその瞳が見たいと、また視線を向けてしまう。


 ーーーなんて綺麗な女の子なのだろう。


 こんなに美しい女の子を、どうして前回の人生で見つけられなかったのだろうか。

 彼女ならば社交界にさえ出てしまえば、その一挙一動に注目を浴びるだろうに。前回はどうしていたのだろう? そんな疑問が頭の中でぐるぐると回る。


 ……ブロッサム侯爵家。

 私はあることを思い出し、ハッとした。

 前回のブロッサム侯爵家には実子が居なかったはずなのだ。


 私の知っているブロッサム侯爵は氷のような男だった。

 早くに愛妻を亡くし、その忘れ形見であった愛娘も流行り病で幼くして亡くしたことにより、二度と笑うことができなくなったのだと聞いたことがある。

 ブロッサム侯爵の願いはただひとつ、早期の隠居だった。亡くなった妻と娘の墓がある領地で、ただ一人静かに暮らしたかったらしい。

 そのため侯爵は遠縁からひとりの男の子を養子にした。

 前回の私は、その彼をよく知っていた。

 ブロッサム侯爵が徹底して詰め込んだ後継者教育には愛情の欠片もなく、使用人たちにはその醜さから厭われ、社交界でも爪弾きにされて。彼の心は凍りついていた。


 ブロッサム嬢は薔薇のつぼみのような唇を開いた。


「本当に立派な薔薇園ですね。一度にこれほどの種類の薔薇を見たのは初めてです」

「…………」

「まぁ、あそこに咲いている薔薇はとても不思議な紫色をしていますのね。なんという種類の薔薇なのか、ラファエル殿下はご存じですか?」

「………」

「ラファエル殿下?」

「……ブロッサム嬢」


 私は前回と今回の人生の違いを探すべく、ブロッサム嬢に問いかけた。


「あなたにご兄弟は……弟はいらっしゃいませんか?」

「え。………いいえ。おりませんわ。一人娘ですの」

「……そう、ですか。あの、今までになにか大きなご病気をされたことはありますか?」

「…一年ほど前に流行り病にかかったことがありますが」


 やはりそうだ。

 ブロッサム嬢は前回の人生では流行り病で亡くなってしまっていたのだ。

 今回の彼女はなぜか生き延び、ブロッサム侯爵は心を病まずにすみ、あの彼も養子にならずにすんだのだ。

 それで今回の私は、ブロッサム嬢に出会うことができたというわけか。

 これほどまでに美しく、それでいて私のような醜い男にも笑いかけてくれる女神のような彼女とーーー。


 私なんかと会話までしてくれる素晴らしい女性だーーーと考えたところで、私はふと首をかしげる。

 初めての恋に舞い上がっていた私の心に、当たり前の疑問が湧いた。

 なぜブロッサム嬢は私に優しくしてくれるのだろう、と。


 彼女の優しい態度は演技には見えない。というか、女性は私を見ると生理的嫌悪でいっぱいになって、私に笑いかけることすら出来なくなるのがふつうだ。だからこそ彼女の優しさは、彼女のまごころそのものなのだろう。

 じゃあ、どうして私などに優しくしてくれるのだろう?

 同情から優しくするにしたって、今日が婚約者候補選定のパーティーであることを考えると、日が悪すぎる。こんな日に私に優しくしたりなどすれば候補に選ばれてしまうかもしれないのに。そして私はすでにそのつもりになっている。


 もしかしたら、と私はおそるおそる彼女に尋ねた。


「ブロッサム侯爵家は長年中立派を維持していたと思うのですが……」


 もし侯爵の指示でブロッサム嬢が私に近付いたのだとしたら。それは願ってもないことになる。

 私自身がブロッサム嬢に愛してもらえるだなんて、そんな夢は見ない。

 でも利害の一致で、彼女自らが私の正妃になることを受け入れてくれるのなら。こんなに都合のいいことはない。


「え、あの、」

「ブロッサム領の税収はずっと安定していますし、侯爵家にも借金などはなかったはず。ブロッサム侯爵にもお会いしたことはありますが、少なくとも、王宮の権力争いに積極的に関わるタイプだとは思っておりませんでした」

「違います……! いや、父は確かに権力争いに自ら首を突っ込むような人ではありませんが……!」


 ブロッサム嬢は嘘が下手なようだ。

 彼女がちいさな顔をふるふると首を横に振るのにあわせて、彼女の髪がふわふわと揺れる。いつかその髪にも触れさせてもらえたら、と私は恋い焦がれる。


「……私は酷く醜いでしょう?」

「そんなことありませんわ、殿下。絶対にそんなことはありませんっ」

「いいえ、世辞はいいのです。自分が影でなんと言われているかなんて知っていますから。化け物、シュバルツ王の再来、……異形の王子だと。

 母でさえ私を生んだことを後悔していますし、使用人たちですら私に触れるのを嫌がっています。

 ブロッサム嬢も先ほど見たでしょう? 私の姿を見て倒れた令嬢たちの姿を。あの会場には正妃派の家の子供たちも居たはずなのに、あなた以外は誰も私に近寄っては来なかった……」


 私は他者からの悪意に慣れている。だから今更あなたの可愛らしい嘘などで傷付きはしない。あなたの思惑がなんであれ、私のものになってくれるのならそれでいい。

 そんな気持ちを込めて自分のことを話した。


「あなたの望みは、次期国王の正妃ですか? それならそれで、いいのです」

「ちが……っ!」

「私に触れても微笑んでくれる女性がいるとは、夢にも思っていませんでしたから」

「わたしは殿下のお姿をとても好ましく感じていますわ!」

「あなたの慰めさえうれしい……」


 私の境遇がよほど彼女の同情を引いたのだろうか。ブロッサム嬢は一生懸命に優しい言葉をかけてくれる。私はそれがただただ嬉しかった。


「ブロッサム嬢?」

「わ、わたし、わたしは……」


 涙目でこちらを見上げてくるブロッサム嬢が可愛らしくて、もうこのまま彼女に騙されたって構わないと心の底から思った時。


 遠くの方から、憎い異母弟が私を呼ばう声が聞こえた。





 オークハルトまでが彼女を婚約者候補に選んだのはさすがに誤算だった。どの令嬢でも選び放題のくせに、と腹が立つ気持ちを抑えられない。


 それでもまぁ、オークハルトはどうせ今回も学園に入学さえしてしまえば、例の男爵令嬢と出会って『真実の愛』とやらに目覚めるのだろう。前回はそうだったのだから。

 ……けれどなぜか、嫌な予感は拭えないのだけれど。


 それでも今はまだ王位継承順位は私の方が上なので、余程のことがない限りは私がココを娶れるだろう。そこに彼女の心がなかろうと。

 …………。

 胸の奥がチクリと痛くなる。


「それにしても素敵な方でしたね、ブロッサム嬢は」


 パーティー用の衣装を脱がせ、入浴の介助をしてくれているフォルトがはしゃいだ声を出し、湯煙にけぶる浴室に響かせた。

 護衛の騎士たちと共に私の傍に居たフォルトは、ココをしっかりと観察していたらしい。好感触のようだ。


「エル様が幸せになってくれることが私の願いです」

「ああ。いつもありがとう、フォルト」

「オークハルト様に一歩も譲ってはなりませんからね。例えブロッサム嬢のお心がオークハルト様に傾かれても、陛下に勅令をいただければ問題ありませんから」

「……わかっているよ」


 私の幸せを願ってくれるフォルトですらこの台詞だ。


 わかってる。わかっているんだよ。


 異形の私なんかが、春の妖精のように美しいココに愛してもらえるだなんて、夢見てはいけないことは。

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