17
暗闇に一人。隻腕の男が立っていた。
彼は彰を見つめて腹を指さす。ぱっくりと割れた腹部からは、ドロリと臓物が垂れていた。
――お前が斬ったんだ
男は彰の腕を掴んだ。抵抗できない。そのまま、彼は彰の腕を自身の腹の穴にねじ込む。
グニャリと柔らかい肉の感触。不気味な温かさに背筋が凍りついた。
――俺を殺したな
男の背後に一匹のオオカミが現れた。神々しい白い体毛に浮かぶ、二つの赤い眼球。その瞳の奥には禍々しい闇が沈み込んでいた。
オオカミは牙を剥くと、男の腹を潰すように横から噛みついた。
彰の腕に痛みはない。代わりに芋虫のように、男のハラワタが腕を上ってくる。
――俺を贄にしたな
叫ぼうとするが声が出ない。男の腸はゆっくりと彰の首を締め上げ、そして大きく開いた口の中へと――――
「――…………がはッ! ゲホッ! ゲホッ!」
ひどい寝汗だ。荒い呼吸を整えると、彰はベッドから立ち上がった。カーテンを開けると、西に傾いた月の光が差し込んでくる。
ひっそりと寝静まった寝室。目を閉じると、バラバラに食われていく男の姿が瞼の裏に浮かんだ。同時に蘇る、肉を斬った柔らかい感触。
「ッはぁ……、はぁ……。ははは…………」
思わず乾いた笑いが漏れた。何度も洗った手のひら。だが、それでもあの感触は拭えない。これはいつまで残るのだろうか。
汗で濡れた服を脱ぐと、彰はカーテンを閉めて寝室を出た。
「アキラさ、夢見悪いよね」
着替えて戻ると、リリアが起きてベッドに座っていた。
「ごめん、起こした?」
彼女は半分閉じた目を擦りながら、首を横に振った。
「いや、アタシも寝られなかった。また悪い夢見たの?」
「まぁね」
「やっぱり怖かったもんね。ミコさん」
「その夢じゃねーよ」
帰ってから、リリアがミコトにこっぴどく叱られたのは言うまでもない。小一時間の説教の間、リリアはひたすら頭を下げていた。
ただ、山で本当に起こった出来事はミコトに話していない。魔獣に襲われて、逃げ帰ってきたとだけ伝えていた。
九頭龍に狙われているなどと知れば、ミコトがどれだけ心配するか。これ以上、彼女の負担を増やしたくないというリリアの判断だった。
彰が自分のベッドに戻ろうとすると、リリアは「待って」と制止した。
「そこで寝るの? 寝汗で濡れてるでしょ」
「ほかにどこで寝るんだよ」
リリアは自分のベッドを叩いた。
「お前本気?」
「アキラが嫌なら別にいいけど」
「嫌……じゃないけどさぁ」
彰は少し悩むとリリアのベッドへ向かった。リリアは少し横にずれて横になる。
「……マジで良いの?」
「何人のガキンチョ寝かしてきたと思ってんの。ほら、早く来なさい」
彰は遠慮気味にベッドに入る。ふわりと太陽の香りがした。
目を閉じると、すぐ隣でリリアが呼吸する音が聞こえてきた。彼女の微かな動き一つ一つが、布団を通して伝わってくる。
これでは違う意味で寝られない。
ちらりと横を見ると、リリアはベッドの端でこちらに背を向けていた。
「…………ごめんね」
不意にリリアが呟いた。
「アイツ殺した夢見たんでしょ? やっぱり最後はアタシがやるべきだった。ごめんね」
「……いや」
彰は天井を見上げると「あれは仕方なかったんだ」と呟いた。
あの場面で、もしも彰が剣を振るっていなかったら。おそらく二人とも今この場にいなかっただろう。
それに、まだ息があった男を贄として差し出していなければ――――。
もう一度、彰は自分に言い聞かせるように「仕方なかったんだ」と呟いていた。
「別にお前が責任感じることない。あれは俺が、俺の判断でやったんだ」
「でも……」
「お前だけが背負う必要ないだろ。あれは俺の問題でもあったんだ」
彰はゆっくりと目を閉じる。すると、隣から「ありがとう」という小さな声が聞こえてきた。
再び静まり返った部屋。
目が冴えてきてしまった。ふと彰が隣を見ると、リリアはやはり背を向けて、ベッド端の今にも転がり落ちそうな場所で寝ている。
彰は少し横へ避けると、リリアに声をかけた。
「なぁ、もっとこっちで寝たほうがいいんじゃないか? そこ落ちるぞ」
「ここでいい」
「いや、俺が端で寝るからさ。お前、もっとこっちに来て……」
「いや、ここで大丈夫だから!」
やや語気を強めてリリアは答えた。不審に思った彰は起き上がってリリアの顔を覗き込む。そして、真っ赤になった彼女の顔を見てため息を吐いた。
「お前さぁ……」
「うるさい」
「お前から来いって言ったんじゃねーか。今になって赤くなるなよ」
「うるさいうるさい」
寝ぼけた勢いで誘ってしまったのだろう。そして、今になって自分が何をしたのか理解したのだ。
彰は自分のベッドに帰ろうとすると、リリアもむくりと起き上がって彰の身体をベッドに押し倒した。
「いい? アンタはただのガキンチョだから。悪い夢見て寝られなくなっちゃった、ちっちゃいガキンチョ! この、クソガキ!」
「なんか罵倒してない?」
「ちょっと黙ってて。言い聞かせてるから」
ブツブツと呟きながら、ベッドの端に腰掛ける。しばらく彰がそれを眺めていると、やがてリリアはクルリと振り向いた。
「大丈夫だよー。お姉ちゃんがいるからね」
「お前」
「うっさい」
「…………」
しぶしぶ彰が目を瞑ると、小さな声で子守唄が聞こえてきた。当然ながら、聞いたことのない子守唄だった。
しかし、その歌を聴いていると、不思議と瞼の裏に浮かんでいた光景が霧に溶けるように消えていった。胸に感じる小さな温もりが、ゆったりとしたテンポを刻む。
呼吸を重ねるうちに、彰の意識はストンと心地よい闇の中へと落ちていった。
◇◇◇
東の空が白んできた。もうすぐ夜が明ける。
まとめた荷物を担ぐと、想像以上の重さに思わずよろめいた。やはり二人分を一人で持つのは無理があったか。
「大丈夫? やっぱアタシも持つって」
リリアが心配そうに尋ねる。
あれから一日経ったとはいえ、足はまだ本調子ではないだろう。彰は彼女の背中を軽く叩くと「こんくらい余裕だわ」と答えた。
「もう行っちゃうのね。もっとゆっくりしても良いのに」
エプロン姿のミコトが眠たげな目で言う。起きるにはまだ早い時間だ。子供たちも今頃はまだ夢の中だろう。
リリアは小さな荷物だけ持つと、はにかんで笑う。
「もう十分ゆっくりしたよ。また来るからさ」
「あらそう? アキラ君も怪我大丈夫?」
「お陰様で。もうすっかり良くなりました」
ミコトは「それは良かったわ」と笑う。
「二人とも。街道に出たら、すぐに『行路隊』を見つけるのよ。できるだけ大人数で……」
「大丈夫。分かってるから」
リリアは聞き飽きたといった様子で彼女の言葉を遮る。
魔獣が出るようになった頃から、個人で街の間を行き来する旅人は多くはない。いるとすれば、アクレスのように腕の立つ者か、あるいは金惜しさに賭けに出た者かのどちらかだ。
昨今は、行き先を同じくする旅人同士で隊を作るのが主流だ。用心棒を雇うにも、金を出し合ったほうが安く済む。そうやって複数人の旅人と用心棒で編成された団体は、いつしか「行路隊」と呼ばれるようになったのだ。
金さえ払えば道中で合流もできるらしく、彰もそれを狙っていた。
「それじゃ、アタシ行くから。みんなによろしくね」
リリアは軽く手を振ると、くるりと背を向けて歩き出した。
「ミコトさん。お世話になりました」
「あらあら、良いのよ。またいつでもいらっしゃい」
彰は礼を言って荷物を背負いなおすと、駆け足で後を追う。そして、目の前の小さな背中に話しかけた。
「……っていうか、お前さ。本当に一緒に来るの?」
すると、リリアは振り返ってずっしりとした巾着袋を見せた。
「あのデカい人に結構もらったしさ。ま、カントクセキニンってやつだよ。それに、アキラといると『九頭龍』が向こうから寄ってくるからさ。仇討ちの機会もありそうじゃん?」
「俺は囮か」
「そ。せいぜい目立ってよね」
リリアは楽しそうに笑う。それを見て苦笑いする彰の胸元で、青い宝石が揺れた。
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