16
「トチガミって…………」
彰の胸の中から外の様子を窺ったリリアは、そこで言葉を飲み込んだ。
トチガミ。
それは、ミコトの描いたおとぎ話に出てくる、オオカミの姿をした怪物の名前だ。現実に存在するはずがないということは十分わかっている。
だが、それでも思わず彰が「トチガミ」の名前を呟いてしまったのは、目の前に現れたオオカミの姿が、まさしく物語に出てきた「トチガミ」の姿とそっくりだったからだ。
その白い毛並みをした巨大な獣は、赤黒い眼を大きく見開いて二人を見つめていた。その瞳の奥は、まるで深い穴のように真っ暗で、見ているだけで吸い込まれそうな不気味な引力を持っていた。
目を合わせてはいけない。
本能的に感じ取ったリリアは、すぐに顔を下へ向けた。
落ち葉を踏みしめる音が聞こえる。そのオオカミはゆっくりと近づいてきていた。そして、血生臭い息を吐きながら二人のニオイを嗅ぎ始める。
彰はその獣に背を向け、自らの身体を盾にリリアを庇っていた。
背中を冷や汗が伝っていく。
その獣が放っているのは、野生の肉食獣とも、そして魔獣とも違う異質な気配だった。姿形は狼だが、その中身は間違いなくこの世のものではない。
何か生物の理の外にいる者が、獣の身体を操っているように感じた。
『オマエ……』
突然聞こえた声に、彰が体を強張らせたのが分かった。
声の主はこのオオカミだ。唸り声を無理に言語化したような声で聞き取りづらいが、確かにオオカミが言葉を操っていた。
『ア……、ヴゥ…………』
再びオオカミが唸った。
『ナゼ……、ココ、イル…………』
なぜ、ここにいる。
その問いかけは彰に向けられたものだった。果たして「なぜ山にいるのか」なのか、あるいは「なぜこの世界にいるのか」なのか。
彰はリリアを庇いながら、何も答えずにジッとオオカミを見つめていた。
その間も、そのオオカミは『オマエ』と『ナゼ』をブツブツと繰り返している。
ささやき声が聞こえる。「人ではない何か」の声が。
森全体がざわめいている。姿は見えないが、巨大な思念が渦巻いているのを肌で感じる。
リリアは縋りつくように彰に抱きつくと、そのまま意識を失った。
◇◇◇
温かい。
――怪我ぁ無ぇな?
小さく頷くと、揺れる背中にしがみつく。
「…………お父さん」
ぼんやりした頭を上げると、まだ山の中にいるようだった。生い茂る枝葉の隙間から丸い月が見える。
「おっと、起きたか」
「あれ…………」
どうやら彰に背負われているらしい。のんびり歩いているところを見ると、あのオオカミからは無事に逃げ切れたのだろう。
血と汗の混じった、懐かしいニオイがする。リリアは一つ息を吐くと、温かい背中に体を預けた。とにかく全身が重かった。
「……トチガミは?」
「ん? あいつは山に消えてったよ」
「何もされなかったの?」
彰は黙って頷いた。
あの不気味な気配は残っていない。吹き抜ける秋の風に、心地よく響く虫の音。まるで何事もなかったかのように、いつもの山に戻っていた。
「なぁ、リリア…………」
しばらくの沈黙の後、彰がポツリと呟いた。
「悪かった。お前のこと何も知らないくせに、ズケズケと偉そうなこと言って」
「え? …………あぁ。アタシもごめん」
何故こんなことになっていたのか忘れていた。そもそもの原因は、口喧嘩の末にリリアが孤児院を飛び出してしまったことだ。
思えば、リリア自身も彰のことを何も知らずに罵ってしまった。非はどちらにもある。怒りはとうに収まっていた。
火照った体を秋風が撫でる。彰の背中が、自然と父の背中に重なった。
リリアは黙って彰の背に頭を預ける。
「……リリア?」
「ん?」
「その…………、お前が良ければなんだけどさ。お前のこと……、とかこの世界のこと、俺に教えてくれないかな?」
リリアは少しの間黙って背中で揺られていると、彰の耳元で「良いよ」と呟いた。
「アタシの好きな場所があるの。そこの背の高い木があるでしょ? そこを左に曲がって」
「え、帰んないの? この世界って、魔獣とか出るんだろ?」
「そのときは背負って逃げてくれるでしょ?」
彰は「はいはい」と笑うと、言われた通りに道を曲がった。
獣道のような場所をリリアの指示に従って進んでいくと、やがて満月の望める崖に出た。眼下には明かりの灯った孤児院が見える。
リリアは彰の背中から降りると、おもむろに着ていた上着を脱いだ。月光に照らされた褐色の肌の上に大きな九頭龍の刺青が這っている。その刺青の一部には、消そうとしたのか大きな火傷の痕が残っていた。
「これ見てどう思う?」
「え………………、まぁ、綺麗な体だと思う」
「か、体じゃなくて! これ! 刺青!」
「え? あぁ、そっちね!」
「はぁ…………、バカじゃないの」
リリアは大きなため息を吐いて上着を着た。
「異世界人だって聞いて納得いったけど、会ったときから変だとは思ったんだ」
「何が?」
「全然、普通に接してくるからさ。アンタの居た世界って、墨入れてるヤツって珍しくないの?」
「珍しくはないかな。まぁ、多数派じゃないけど」
彰が答えると、リリアは少し悲しそうに「そうなんだ」と答えた。
「この世界はね、刺青してるヤツは白い目で見られる…………、白い目どころじゃないか。もう人間として扱われなくなるんだ。何かするたびに『スミイリのくせに』って」
「……どうして」
「この世界で刺青してるのは『犯罪を犯したヤツ』か『犯罪を犯そうとしてるヤツ』の二通りしかいないから。刺青って消えないでしょ? だから、罪人だとかが烙印として入れられたり、ヤバいことやる組織とかが『誓いの証』として体に刻むの。九頭龍とか、まさにそうだよね」
リリアは彰の隣に腰を下ろすと、黙って月を見上げた。彰もその場に座り込む。触れ合う左腕に微かな体温を感じた。
「誰に入れられたんだ? その刺青は」
しばらく答えはなかった。
「……小さい頃に入れられたんだ」
「小さい頃?」
「アタシさ…………、拾われたんだ。九頭龍に」
リリアはじっと遠くを見つめると、そう呟いた。
――――
森に建つ掘立小屋に、バタバタと大粒の雨が打ち付ける。小屋の中では、雨音に紛れて、パチパチと金を床に並べる音が響いていた。
「ねぇねぇ、とーちゃん?」
リリアはまんまるい瞳で父親の手元を見つめて尋ねた。
「あぁ? あんだぁ」
「とーちゃんのは手にあるのに、なんでアタシの龍は首にあるの? なんで、とーちゃんのよりも大きいの?」
「ああぁ? そらぁ、お前…………」
蜘蛛は金を数える手を止めると、しばらく黙り込む。
「そらぁ、首にデカいのがあるとカッコイイだろぉ?」
「へぇー…………? たしかに!」
「おい、蜘蛛」
黙って見ていた鴉が呆れた顔で口をはさんだ。
「五つのガキだからって嘘教えんじゃねェよ。そんで、お前も納得すんな。そんなモンモン、別にカッコよくはねェ」
「えー?」
鴉は葉巻に火を点けて口に咥える。
「そいつは『枷』だ」
「かせ?」
「このバカがお前を拾った時に、『梟』がお前に入れたのさ。もとはカタギのお前が、この組織を裏切らねェようにってなァ」
蜘蛛は黙って再び金貨を数え始めた。その横にいるリリアは、きょとんとした顔で首を傾げる。
「私、裏切らないよ?」
「はは……、本当かァ?」
「うん! アタシ、『蟷螂』のお兄ちゃんも、『蛇』の爺ちゃんも、『狐』のお姉ちゃんも好きだもん! そのほかの人は、ちょっと怖いけど……」
それを聞いた鴉は、おかしそうにクツクツと笑った。
「俺は『好きな人』には入ってねェのか」
「うん! とーちゃんと鴉のおじちゃんは、好きじゃなくて、大好き!」
「だははは! そうか! とーちゃんも大好きだぞ!」
蜘蛛は生き返ったように豪快に笑うと、小さなリリアの身体を抱き上げた。
「よかったなぁ、鴉! お前のことも大好きだとよ!」
鴉は口元を煙で隠しながら「そいつァ嬉しいね」と呟いた。
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