15

「さ、さっきの音は?」


 彰が孤児院へ戻ると、ミコトが不安げな顔で尋ねてきた。

 発砲音は孤児院でも微かに聞こえたのだろう。昼間ならまだしも、こんな夜中に山奥へ入ってくる旅人は居ない。闇夜を選んで山へ入るのは、それは素性を隠したい者たちだ。


「たぶん、俺を撃った奴です。」


 彰は壁に立てかけていた剣を手に取って答える。

 あの男が生きているとは思えないが、それ以外に思い当たる人物がない。初心者の剣で何かできるとは思えないが、丸腰で行けば何もできずに捕まるだけだ。

 銃声が聞こえてすぐ、彰は剣を取りに孤児院へ戻ったのだ。


「あの子……、リリちゃんは…………」

「大丈夫です」


 彰はミコトの言葉を遮るように言いきった。


「俺が必ず無事に帰します。ミコトさんは、ここで皆と待っていてください」

「本当に? 大丈夫なのかしら」


 これ以上、彼女を不安にさせるわけにはいかない。彰は笑顔を作ると、腰に提げた剣をパンと叩いた。


「俺が何とかしますから」


 走って孤児院を出ると、背後からミコトの呼ぶ声が小さく聞こえた。


◇◇◇


「大丈夫か?」


 彰は背後のリリアに問いかける。一瞬の間を置いて、「足捻った」と小さな声が聞こえた。


「アキラだな」


 狼は引き金は引かず、ゆっくりと照準を下へ向ける。彼の狙いはあくまでもリリア。やはり彰を殺すことはできないようだった。

 銃を持つ手が震えている。足元もどこかおぼつかない様子でフラフラと揺れていた。アクレスから受けた傷から回復していないのは彰でも分かった。


 今ならば――。今ならば、彰でも戦えるか?


 アクレスに教わった通り、少し足を広げて腰を落とした。剣の柄を握る手が、じっとりと汗ばんでいる。

 吹いていた風が止んだ。暗闇がしんと静まり返る。まるで、山全体が固唾を飲んで彰の動きをじっと見ているように感じた。


「アンタ、何しに来たの」


 不意に耳元でリリアが呟いた。彼女はぴったりと体を寄せ、完全に彰を遮蔽物として使っている。


「……夜の散歩」

「もっとマシなウソつきなよ。…………来たからには手伝って」

「おう」


 少し体が軽くなったような気がした。


「アイツ、次で弾切れだから。ここで殺すよ」

「…………」

「大丈夫、最後はアタシがやるから。アンタはバカみたいに剣振ってなさい」


 ここで殺すよ。

 あまりにも簡単に出た言葉だったが、その言葉は彰に重くのしかかった。

 ここで逃げても、逃げ場はない。逃げるための剣ではいけない。ここから生きて帰るためには、敵を、人を殺さなければいけないのだ。

 無意識に避けていた現実が、避けられないものとして突然目の前に現れた。


 リリアは片足で地面を蹴りだし、近くの木の陰へ転がり込んだ。それと同時に狼も走り出す。


「ちょ、ちょっと待てよ!」


 彰は我に返ると、すぐさま狼へ斬りかかった。

 この剣で殺そうなどという気はさらさら無かった。とにかく、この男の意識を少しでも彰へ向けることが目的だった。


 だが、そんな攻撃では当たるはずもない。狼は全く意に介することなく、淡々とリリアを追い続ける。

 そして、遂にリリアが一瞬姿を見せた。狼はそれと同時に引き金を引く。


 しかし、その瞬間。

 まるで何かに弾かれたかのように拳銃が跳ね上がった。


「子供なら簡単に殺せると思った?」


 リリアが呟く。

 その声は彰にやっと届くかというほど小さな声だった。だが、それでも思わずたじろいでしまうほどの怒りと恨みが籠った、低く、重い、そして恐ろしい声だった。


「舐めんなよ。アンタは蜘蛛の『巣』に入ったんだ。この中から、生きて帰れると思うな――ッ!」


 リリアは片足で強く踏み込むと、空中へ飛びあがった。身体を糸で自ら持ち上げているのだ。狼はそれを見て、腰に差していたもう一丁の拳銃に手をかける。しかし、リリアが素早く右手を引くと、その拳銃は空中を舞って森の中へと消えた。

 思わず顔を防いだ左腕に、リリアのナイフが走った。黒の森に赤い鮮血が散る。


 リリアはすかさず追撃するが、彼はフラフラとした足取りで躱した。


「はッ、蜘蛛の巣だと?」


 その呟きと同時に、重たい殺気が辺りを飲み込んだ。つい固まってしまったリリアを狼は容赦なく蹴り飛ばす。

 彼は血の滴る左手で短刀を取り出すと、不気味に口を引きつらせて笑った。


「俺から逃げられると思ったか? 近接なら勝てると思ったか? 片腕なら勝てるとでも思ったか? 俺に失敗はねぇ……! 地を這う虫が、狼に勝てると思うなよッ!」


 冷静に見えた彼は、まるで人が変わったように叫ぶと地面を蹴った。手負いだというのに恐るべきスピードだ。

 咄嗟に立ち上がるリリアだが、足を痛めているせいでうまく動けない。襲い来る短刀を何とかナイフで防ぐが、やがてバランスを崩してその場に尻もちをついてしまった。


 黒い刃が月を反射うつして、牙のように白く輝いた。鮮血を散らしながら目の前に迫る男は、まさに獲物に襲い掛かる狼そのものだった。

 怒りで押し殺していた恐怖が呼び起こされる。あの日の、あの夜の森で感じた恐怖が、リリアの脳裏に鮮明に蘇った。


「俺を忘れンな――ッ!」


 その声が記憶の海に沈んだリリアの意識を叩き起こした。男の背後に剣を振りかぶった彰が見える。だが、その剣が振り下ろされるより早く、狼が振り返って短刀を振るった。

 その速度に彰がついてこられるわけもなく、その短刀はまっすぐに彰の腹へと向かっていく。


「そのまま斬って!」


 リリアは叫ぶと右手を思い切り引いた。木々を伝って細かく張られた糸は、狼の短刀を跳ね上げる。


「――――――ッ!」


 がら空きになった胴に、彰は無我夢中で剣を振り下ろした。

 直接手に伝わる、柔らかい感触。生暖かい液体が両腕に降り注ぐ。血しぶきの舞う視界の向こうで、驚愕と絶望の混じった表情を浮かべた男が崩れ落ちた。


「はぁ…………、はぁッ……、はぁッ、はぁッ!」


 彰はぼとりと剣を取り落とした。剣はビクビクと痙攣する男の真横に突き刺さる。辺りに血と糞尿の混じった悪臭が立ち込めていた。


 人を殺した。この手で。


 木刀を打ち込んだ時とは違う肉を斬る感触。両腕を赤く染めた返り血は、まだ男の体温が残っていた。

 その震える両手を、不意に小さな手が包んだ。


「大丈夫?」


 リリアが心配そうに顔を覗き込んできた。彰は少し呼吸を整えると、「お前も、足は大丈夫か?」とかすれた声で尋ねた。


「アタシは平気。…………ごめん。最後はアタシがやるって言ってたのに」

「いや……、俺は大丈夫。お前も無事か?」


 彰はリリアに笑いかけた。が、どこかぎこちなかったらしい。リリアは彰の手を握りしめると、「ごめん」ともう一度呟いた。


「帰ろう。きっと、ミコさんも心配して…………」


 リリアが言いかけた時、全身が凍り付いたように固まった。殺気ではない。何か「恐ろしい存在」が、近くでこちらを見ているような気配がしたのだ。

 彰もその気配を感じ取ったのか、素早くリリアの身体を引き寄せると庇うようにガッチリと抱きしめる。

 そして、リリアの頭の上で、ポツリと一言呟いた。


「トチガミだ…………」

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