14
孤児院は、山に放棄された建物を改築したものらしい。元は竜心堂に似た宗教施設だったようで、建物の入り口には苔生した像が置かれている。少し崩れていたが、その像は船と船乗りのような形に見えた。
その建物と庭をぐるりと囲む柵の近くには、屋根の付いた鳥の餌台のようなものが等間隔で置かれていた。その屋根の下では刺激臭のするお香が煙を吐いており、このおかげで魔獣が近寄らないようになっているようだった。
「結構広いもんだな」
庭には鶏小屋や、木の枝につるされたブランコがある。昼食を終えた子供たちは休むこともなく庭を走り回っていた。
庭を眺めながら一人でフラフラと孤児院の周りを散歩する彰。山から涼しい風が吹いてくる。
彰は柵の入口に設けられた看板を見つけると、ふと思い立って看板の方へ歩いて行った。この孤児院の名前を聞いていないのを思い出したのだ。
しかし、その看板を見て、彰は首を傾げる。
「慈愛の花園…………と、なんだこれ?」
慈愛の花園。それが孤児院の名前だろう。ただ、看板にはその文字の下に、よく分からない記号が並んでいたのだ。
「カレンドラ・ルティーナ」
背後の声に振り返ると、洗濯籠を持ったミコトが立っていた。
「かれん……、え?」
「カレンドラ・ルティーナ。『慈愛の花園』って意味よ。前の世界で古代マテラス語は習わなかった? まぁ、今はあまり使わないものね」
「古代マテラス語……。あぁ、これか」
看板の奇妙な記号は古代マテラス語というものらしい。発音も文字も日本語からは程遠く、どうも関連性があるように思えない。
そこで、彰の頭に疑問が浮かんだ。
「今、俺たちが話してるのは何語なんですか?」
「竜神語よ。前の世界では違う呼び方なのかしら?」
全く違う。「竜神語」なんてのは聞いたことが無い。
そこで、ようやく彰はこの世界の言語の違和感に気付いた。
日本語は、日本という国で生まれ、様々な要素を取り入れながら進化し続けてきた複雑な言語である。それが異世界の全く違う文化の中で偶然生まれるなんてことは、天文学的な確率の話だ。
「ずっと大昔。マテラス王国が生まれるよりも前、竜神様が私たちに与えてくださった言葉が竜神語よ」
「竜神様が?」
「そう。まだ鉄も魔法も無かった私たちに、竜神様が多くの知識を与えてくださったのよ」
ミコトはそこまで言うと、恥ずかしそうに「神話の中のお話だけどね」と笑った。
魔法も、言語も。この世界に存在する違和感の元凶は、全て「竜神」と呼ばれる存在が与えたのだ。
思えば、竜神として奉られている像も西洋の竜を模したようなものだった。これも彰の居た世界が関係していると見て良いだろう。
竜神とは、かつて存在した異世界転移者なのだろうか。神話として語り継がれている以上、竜神とやらが生きているとは考えにくい。
だが、この宗教を調べていけば、何かのヒントにたどり着けるかもしれない。
「おーい、アキラ君?」
「…………あ、なんですか?」
看板を前にじっと考え込んでいた彰は、ミコトの声で我に返った。彼女は洗濯籠を持ち直すと、申し訳なさそうな顔で彰を見る。
「あの、できればで良いのだけれど、少しお手伝いをお願いできるかしら」
「あぁ、もちろんやりますよ! なんでも言ってください」
「本当? 怪我は痛まないかしら」
「大丈夫です。もうすっかり良くなりましたから」
ミコトは「それじゃあ」と言って、孤児院の建物に顔を向けた。
「奥の物置で、リリちゃんが冬物と夏物の入れ替えしてるのよ。そのお手伝い、お願いできるかしら」
リリアは「リリちゃん」と呼ばれている。彰は「分かりました」と答えると、孤児院へと向かった。
◇◇◇
彰は軋む椅子に腰かけると、大きく息を吐いた。
「こりゃキツイな」
「これだけ人数居たらね」
リリアは額の汗を拭いながら答える。
子供の分が大半とはいえ、孤児院にいるのは合計で七人。その衣替えとなると、かなりの重労働だ。
開いた突き出し窓の向こうでは、太陽がかなり西に傾いている。赤みがかった陽の光に照らされて、薄暗い物置で舞っていた埃がチラチラと輝いていた。
「今日の夕飯なんだろうね」
リリアが呟いた。ミコトが夕飯の支度をしているのか、風に乗って香ばしい匂いがする。
「さっさと片づけて飯食べよう。俺も腹減った」
「そうだね。さっさと終わらせよ」
そう言ってリリアはグローブをはめた手を軽く引く。すると、壁に立てかけてあった箒が彼女の手の中へ飛んできた。
その一連を見ていた彰はリリアに尋ねる。
「今のも魔法?」
「今のって?」
「その箒だよ。飛んできたじゃねーか」
「あぁ、これね」
リリアは笑うと、彰の前に箒を投げた。受け取ろうとすると、その箒は逃げるようにスイスイと彰の手を躱し続ける。
「コイツ! 逃げるんだけど!」
「嫌われてんじゃない?」
「嫌われてるって…………、ん?」
その時、差し込む太陽に照らされて、キラリと細い糸が光った。その糸は目の前で踊る箒とリリアのグローブとを繋いでいる。
彰はあまりのバカバカしさにガックリと肩を落とした。
「やっと気付いた?」
「お前かよ」
「そ。アタシが糸で操ってんの」
彼女が片手を軽く引くと、再び箒は手の中へと戻っていった。
「なかなか便利でしょ? 手の届かない場所の物でも、ササッと取れちゃうの。例えば、大事にしまわれた巾着袋とか」
「巾着袋……? あぁ……、あの時ももそれでスッたのか…………」
商店街でスラれた思い出が蘇った。確かにあの時、袋は懐へ入れていたはずだった。
「お前、スリで暮らしてんの?」
「うん」
「それ、ミコトさんは知ってんのか?」
彰の言葉にリリアは固まる。そして、少しの間を置いて「……言ってない」と小さく呟いた。
「お前さ」
「…………なに?」
「もっと普通に働いた方がミコトさんも喜ぶんじゃない? 街に行けば、どこかしら働き口はありそうじゃん」
それを聞いたリリアは、顔を上げて彰を睨みつける。
「皆がアンタみたいに恵まれた環境で生きてると思わないでよね」
「恵まれてる?」
この言葉に彰は思わず声を荒げた。
「親もなく弟を食わせていくのに、俺がどれだけ苦労してるか知ってんのか? 人様から金盗んでないで、自分で働けよ」
「アンタこそ! この刺青のせいで、アタシがどんな仕打ちを受けたか知らないくせに!」
リリアは彰に箒を投げつける。その目には、うっすらと涙が浮かんでいた。
「アンタなんか、どっかで野垂れ死ねばいいんだ!」
怒鳴りつけると、リリアは物置から出て行ってしまった。残された彰は小さく息を吐くと、箒を拾い上げて壁に立てかける。
窓の外でオオカミの遠吠えが響いていた。
物置の整理が終わる頃、窓の外の太陽は半分山に隠れていた。建付けの悪い窓を閉めると、彰は両手の埃を払った。
物置を出ると、食堂から子供の賑やかな声が聞こえてきた。ちょうど夕食時らしい。彰が食堂へ向かうと、ちょうどミコトがパタパタと出てきた。
「ちょうど呼びに行こうと思ってたのよ…………あら? リリちゃんは?」
「リリア? 先に行ってないですか?」
「来てないわ」
すると、最年長の女の子が食堂から顔を出した。
「姉ちゃんなら外行っちゃったよ」
「外?」
「ちょっと風に当たってくるって」
それを聞いて、彰はまるで心臓を鷲掴みにされたような息苦しさを覚えた。
昔、父が同じことを言って外へ出ていったのだ。そして、それから父は二度と帰ってくることは無かった。
父とリリアは違う。それは百も承知だが、その言葉はやまびこのように彰の頭の中でこだました。
「俺、探してきます!」
「あ、アキラ君?」
彰はそれだけ言うと、弾かれたように孤児院を飛び出した。
外はもう暗くなっていた。空に浮かぶ月明かりだけが、山道を照らし出している。
――この刺青のせいで、アタシがどんな仕打ちを受けたか知らないくせに!
リリアの声が鮮明に脳裏に浮かんできた。
彼女の言う通りだ。彰は何も理解していなかった。
どれだけ自分が恵まれていたのかを。そして、あんなに小さな少女が、この制度も整っていない世界を一人で生きていく恐ろしさを。
「クソ……ッ!」
柵の扉を跳ね上げて、山の中へと入っていく。
どこへ行ったのか、まるで見当がつかない。だが、立ち止まってはいられなかった。
「リリア!」
叫ぶが返事はない。
その時、遠くから一発の銃声が聞こえた。
◇◇◇
弾丸が夕闇を駆けた。
「蜘蛛の娘。まぁ、よく生きてこられたもんだ。それだけは褒めてやる」
狼はそう言うと、再び銃の撃鉄を起こす。
「……そりゃどうも」
この男が生きていたことに驚いたが、ここで出会えたのは不幸中の幸いだった。彼の「跡追い」の腕は九頭龍一だ。ここで鉢合わせなければ、間違いなく孤児院を襲撃していただろう。
暗い夜の森がザワザワと音を立てる。ヒタヒタとまとわり付くような湿った風が頬を撫でた。まるで、敵に包囲されたかのような不気味な緊張感。
打つ手を誤れば死ぬ。
リリアは一つ呼吸を置くと、いつも腰に忍ばせているナイフを抜く。
「裏切りには死を。規則は規則だ。が、可哀想に。お前は巻き込まれたようなもんだからな」
狼は銃を下ろすことなく言った。
「俺なりの情けだ。お前、九頭龍に戻る気はあるか?」
「ない」
「だよな」
呟くと同時に引き金が引かれる。向こうも、初めから対話などする気はないようだった。
リリアは素早く木の影に転がり込む。すぐに右手のグローブから、糸の繋がった小さな刃物を出すと、手近にあった木の幹に突き刺した。
この刃は巣を張る「起点」だ。
リリアは伸びる糸を木の枝に絡ませながら、暗い木々の間を縫うように駆け抜ける。
「おぉ……、これが蜘蛛の『巣』か。見るのは初めてだな」
興味深げ呟くと、狼が続けて二発発砲した。その弾丸はリリアの近くを掠めて森の中へと消えていく。
やはり精度が低い。
彼の利き手は右。その上、暗い中で分かりづらいが、随分と顔色が悪い。照準が微かに震えていた。アクレスから受けた傷がまだ癒えていないのだ。
リリアは糸を足場に森の闇を駆け上がる。上からの方が、相手の動きを把握しやすい。
万全の彼と「サシ」でやるなら、リリアに勝ち目はなかっただろう。だが彼は今、相当なハンデを背負っている。
銃は六発で、既に四発外していた。それに片手では装填できない。あと二発避けられれば勝算はある。
その時、不意に目の前に小さな黒いものが飛んできた。それが閃光爆弾だと分かったときには、もう全ては手遅れだった。
「やば…………ッ!」
これを狼が逃すはずはない。リリアが目を閉じて飛び退くと、案の定発砲音が響き渡った。
弾は当たらなかったが、ここは木々の間に張られた「巣」の上。リリアは自ら張った糸に引っかかりながら、体勢を崩したまま太い根の上に着地した。
足首に走る激痛。思わずうめき声が漏れた。
立てない。撃たれる――!
咄嗟に身をかがめたリリア。しかし、なかなか発砲音は聞こえてこなかった。
不思議に思って顔を上げる。
その目の前には、剣を持った少年がリリアを背に庇うように立っていた。
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