6
中央都の多くの建物は木造だ。たとえ遠くで起こった炎でも、瞬く間に全体へ広がっていく。まして、今回燃えているのは、ここから目と鼻の先にある王家の城だ。
辺りの人々は、たちまちパニックに陥った。
「完全に出遅れた…………」
彰は、竜心堂で立ち尽くしたまま、大通りを逃げ惑う人々の波を眺めていた。もしも、この中に混ざろうものなら、数歩で転んで踏み潰されるのが想像できる。
人混みは避けろ、というアクレスの判断は間違っていない。
だが、パチパチと焼ける音が近くなってきた。いつまでもこうしているわけにはいかない。
燃えている城は、竜心堂から出て左手前方。
多少無理はあるが、この建物の脇から裏路地へ入っていけば人通りは少ない。ただ、懸念点は土地勘が無いことと、火の手がそこまで迫っていることだ。
「……ま、踏み潰されるよりはマシだろ!」
この世界に来てから、ちょっとやそっとの事では動揺しなくなっていた。感覚が麻痺したと言うべきか。
だが、彰はこの楽観的な判断をすぐに後悔することとなる。
◇◇◇
視界が灰色の煙でぼやけてきた。
燃えている城から離れるように逃げているが、ここがどこなのか分からない。思っていたよりも炎は早く、もう背後の建物が煙を上げて燃えていた。
彰の体力も無限ではない。既に息は切れ、せいぜい早足で歩くのが限界だった。
「よう、アキラ」
不意に呼ばれた自分の名前に、思わず彰は振り返る。
「やっぱりお前か」
それを聞いて、彰は自分の失態に気付いた。
立っていたのは、ボロボロになった帽子を目深にかぶった男。葉巻の煙が帽子のつばから溢れて、ゆらゆらと立ち上っている。
「………………誰だ、お前」
後退りしながら尋ねる。すると、男は葉巻を吐き捨てて「知ってどうする」と聞き返してきた。
「お前に与えられた選択肢は二つ。大人しく俺と来るか、死んで俺に運ばれるか、だ。答えは慎重に選べよ」
その声は、まるで命というものに関心が無いかのような冷徹な声だった。彰の背筋を汗が伝う。
何が起きているのか、全く理解が追い付かない。すると、男は懐から一振りのナイフを取り出した。その手の甲に這っていたのは、九つの首を持つ龍。
九頭龍だ。
全て理解した直後、彰の頬をナイフが掠め飛んでいった。
「早くしろ。俺は気が短いんだ」
恐ろしい精度のナイフ投げ。殺そうと思えば、いつでも殺せる。それを暗に伝える意図だろう。
何処から情報が漏れたのか。そんなことは今はどうでも良い。
重要なのは、生き延びること。かと言って、大人しくついて行って、彰がただの高校生だと分かれば殺されるに違いない。
生き延びるために、何が最善か。
考えろ。相手の意図を読め。
「………………嘘……ついてるだろ」
彰は男の様子を伺いながら言った。
「…………あ?」
「アンタは俺を殺せない。アンタらの狙いははこの中なんだろ?」
彰は自分の頭を指さして尋ねた。
異世界転移者を狙う理由は、その知識に需要があるからだ。そのためには生け捕りにする必要がある。彰の利用価値が分からない現状、ある意味では生存が保証されているといってもいい。
すると、男は「頭は回るらしいなぁ」と不敵な笑みを浮かべた。
「だが、どうするんだ。まさか逃げられるとでも?」
「さぁな。やってみなくちゃ分からん」
言うやいなや、彰は踵を返して走り出した。その真横をナイフが掠めていく。
やがて角に差し掛かると、彰は転がり込むように曲がった。
体力は既に限界だ。このままでは追いつかれる。
逃げ切るためには戦う他ない。だが、相手は手練れの暗殺者。まともに戦えば負けるのは必至。
ただ、不意を衝ければ勝負は分からない。
彰は曲った所で身を屈めると、瓦礫の中から手頃な角材を引き抜いた。折れて鋭く尖っている方を前に向け、槍のように構える。
一瞬遅れて、男が角から姿を現した。それと同時、彰は角材を男の顔目掛けて突き出す。
完全に不意を衝いた。この攻撃は躱せない。
しかし。
「素人だなァ!」
男は死角からの攻撃を難無く避けると、角材を掴んで彰の方へと押し返した。
「ぐ…………ッ!」
角ばった木材が鳩尾に深く沈んだ。
鈍い痛み。呼吸が止まる。
男はうずくまる彰を容赦なく蹴り飛ばした。
火事の熱気と痛みと息苦しさで頭がどうにかなりそうだ。空気を求めて開いた口から、ボタボタと唾液が飛び散る。
早く立たなければ。逃げなければ。
焦る気持ちとは裏腹に、空気が抜けてしまった風船のように体に力が入らない。
「んな小手先の技を食らってりゃ、命が幾つあっても足りねぇよ」
周りの火も強くなってきた。グリルで焼かれているような気分だ。ようやく呼吸できるようになったが、息苦しいことに変わりはない。
「『生け捕り』ってもなぁ、なにも五体満足で連れてこいとは言われてねぇんだ。言ったよなぁ、大人しくついて来いって。俺は親切で言ってたんだぜ」
男は片手を上げた。すると、彼の指にはめられていた趣味の悪い指輪が、淡い青の光を放ち始める。
この光には見覚えがある。シルヴァ邸のポットも同じ光を放っていた。
魔法を発動させた際に発生する青色の光。「発動光だ」とソフィアは言っていた。
その指輪に呼応するように、地面に落ちていたナイフがカタカタと動き出した。男が投げていたナイフだ。その短い刀身が微かに光っているのが分かる。
そして次の瞬間、地面に刺さっていたナイフが一斉に飛び上がった。もちろん、触ってもいないし風も吹いていない。魔法としか言えない浮力を得て、ナイフはフラフラと宙を漂っている。
「歯ァ、食いしばっとけ」
ナイフの刃先が彰を向いた。思考はとうに停止していた。もう逃げ道は無い。
せめて頭を守ろうと、体を丸めたその時。
「うおッ!」
強い力で体が後ろへ引っ張られた。
転がる彰。もと居た場所に幾つものナイフが突き刺さる。
顔を上げると、目の前で小さな人影が仁王立ちしていた。その人影はボロボロのフードを取ると、横目で彰を見下ろす。
「お前…………………………」
見覚えのある栗色の髪が揺れる。
あの時の泥棒少女だ。
「あ、ありが
「邪魔。どっか消えて」
彼女は冷たく言うと、片手に短刀を握りしめて男の前に立ちはだかった。そして、首元を隠していた包帯を炎の中へ投げ捨てる。
男はその下から現れた九頭龍の刺青を見て、嬉しそうに笑った。
「リリアか。デカくなったもんだなぁ」
少女の名前を知ったのは、この時だった。
リリアは呼吸を落ち着けると、片手の短刀をクルリと回す。
「あんなに小さかったガキが、よくもまぁ生きてたもんだ」
「黙んないと、その舌斬り落とす」
「ところで親父は元気か? …………あぁ、あいつは俺が殺し――――
言い終わらないうちに、少女の刃が男の喉元へ滑り込んだ。しかし、彼は意に介した様子もなく淡々と避ける。
「おいおい。大人の話は最後まで聞くように親父に言われなかったのか?」
男は大きく飛び退くと両手を広げた。地面から七本のナイフが浮かび上がる。リリアはそれを見ると、舌打ちをして飛んだ。
驚いたのはその後だ。なんと、彼女はそのまま宙へ着地したのだ。
「親父の技か? まぁ上手く真似てるじゃねぇか」
糸だ。
建物の間を、細い銀色の糸が張り巡らされている。赤い炎をチラチラと反射する銀糸の上に少女は立っていた。
男は不敵な笑みを浮かべる。
「だが、蜘蛛はもっと上手く『巣』を張ったぜ」
同時にナイフがリリアを襲った。ざっと数えて七本はある。しかし、彼女は空中で体を捻ると、四方八方から襲い来るナイフを全て躱して見せた。軽業師のような身のこなしだ。
「おぉ、やるな。さすがはアイツの娘だ」
「いつまで笑ってられるかな」
リリアはそう呟くと、男に飛び掛かった。短刀の鋭い一撃を男はナイフで弾き返す。
激しい攻防。素人の入る余地など無い。彰はそれを見て、ゆっくりと後退る。小さく息を吸うと、息を止めて立ち上がった。
目的は生き延びること。逃げるなら今だ。男の注意が逸れている今なら逃げられる。
横の建物が燃え落ちた。それを合図に彰は走り出す。
小さな悲鳴が背後から聞こえた。
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