5
逃げることに慣れているのか、彼女は入り組んだ道を縦横無尽に駆け抜けていく。曲がり角を巧みに使われているせいで、彰は長く伸びた彼女の陰を踏むことすら叶わなかった。
「もう限界?」
振り返りながら少女が言った。
「ほら、もっと頑張りな。男の子でしょ」
「うるせぇよ…………! さっさと……金返せ………………!」
「取られる方が悪いんだよ」
膝に手をついて荒い呼吸を整える。顔を上げると、少女が彰を見下ろして立っていた。顔を隠すためのフードは取れてしまったが、首元を覆うようにボロボロの包帯を巻いている。
彼女の右頬には、その包帯の下から黒い刺青が顔を覗かせていた。
日もすっかり沈んでしまった。路地裏を照らすのは、建物の窓から漏れる灯と頭上に浮かぶ月の光だけだ。少女は仄かな明かりに照らされながら、肩で息をする彰を見て無邪気に笑う。
「お兄さん、意外と脚速いじゃん」
「お前が言うか…………」
「まぁ、頑張りに免じて、今晩の食事代くらいは勘弁してあげるよ」
そう言って、彼女は銀貨を一枚取り出して指で弾く。銀貨は月の下を舞うと、音を立てて目の前に落ちた。
なんとも横柄な態度に若干呆れながらも、彰はその銀貨を拾い上げる。
「それでウマいものでも食べなさい」
「それ、人の金で言うセリフじゃないだろ………………」
言いながら顔を上げた、その時。不意に彼女の首元が見えた。風のせいか、あるいは走っていたせいか。結び目の解けた包帯が、するりと落ちたのである。
「お前それ……、九頭龍………………?」
思わず呟いていた。
少女の首元から右頬にかけて、黒い刺青が見えたのだ。一部分だが間違いない。九つの首を持った龍だ。
――――これを見たら、すぐに逃げてください。とにかく人の多い方へ。
シルヴァの言葉が蘇る。
こんな少女が、凶悪な暗殺組織の一員ということは有り得るのだろうか。
彰はそんな疑問はすぐに捨てた。ここは魔法も不気味な獣もいるような異世界。何が起こっても不思議ではない。
咄嗟に身構えた彰を見て、少女の顔から笑顔が消える。しかし、襲い掛かるような素振りは見せなかった。彼女がとったのは、想像とは全くの真逆の行動。
彼女は慌てて解けた包帯で首元を抑えると、脱兎のごとく逃げだしたのだ。そのまま向かって行ったのは、地下街へ続くという階段。
地下街は治安が悪いという話を聞いたことがある。彰も敢えて追おうとはしなかった。
「…………どうなってんだよ」
残された彰は、銀貨を一枚握りながら呆然と立ち尽くすしかなかった。
◇◇◇
翌日の昼下り。空はどんよりとした重たい雲が覆い尽くしている。
「地下街か…………。行かなくて正解だな」
横を歩くアクレスが言った。その目線の先には、地下へと続く階段。
中央都には、このような地下街へと続く階段が至るところにある。
「治安も悪いが、あそこは迷路だぞ。迷ったら最後、日の目を見ずに死ぬことになる」
「金はいいの? ほぼ盗られたけど」
「あんな小遣い、盗られたところで死にゃしねぇよ」
持ち主が言うのだから、それでいいのだろう。
アクレスは金勘定には無頓着だった。ただ、独身貴族というやつかと思えば、贅沢しているような様子もない。しいて言うならば、人の倍は食べる大食漢であることくらいか。しかし、彼はその他あらゆることに無関心に見えた。
「それで、月島へ行く準備だが」
アクレスが切り出す。ようやく休みが取れたらしい。
「訓練とかはいいの?」
彰は尋ねる。
アクレスが勤めているのは、マテラス王国陸軍。聞けば、五年前には兵士として戦場を駆け回っていたとか。あまり好んで語ろうとはしていなかったため、彰も詳しく聞こうとはしなかった。
軍人と言われると、個人的な用事で簡単に仕事を休めるようなイメージはない。しかし、アクレスはこともなげに「おう」と答えた。
「俺、訓練のサボりは公認されてんの」
「はぁ? なんだそれ」
「俺は生きてるだけで偉いのよ。……ほら、ここだ」
二人が着いたのは、街の中心に近い場所にある大きな木造の建物。城からの距離も近い。
一階建てのようだが、屋根はかなりの高さがある。その瓦葺きの屋根はやけに分厚く、アンバランスで重たそうだ。
まるで、教会と神社をゴチャ混ぜにしたような、奇妙な建物だった。
「……マジでここ?」
今日の目的は、月島への長旅に向けた準備である。てっきり食料でも買いに行くのかと思っていたが、この建物で何か売っているとは思えない。
彰の腑に落ちない顔を見て、アクレスは尋ねた。
「旅において、最も重要なものは何だと思う」
「え…………、水とか?」
「…………まぁ、水も大事だが。もっと大事なことがあるだろ!」
相変わらず彰はピンと来ていない。やがて、アクレスは諦めた様子で言った。
「いいか? 旅に必要なのは『運』だ。いくら準備をしても、運が悪いと死ぬことだってあるんだからな」
そこで彰は気付いた。
ここは異世界なのだ。飛行機はもちろん、電車も自動車も無い。街道が通っているとは言えども、現代日本ほど整備されてはいないだろう。
「だから、遠出するってなったら、最初にやることは一つ。『神頼み』だ!」
アクレスは目の前の建物をビシッと指差して言った。
この建物は「竜心堂」。この国で信仰されている「竜神」を奉る建物である。
建物に入って、すぐ目に飛び込んでくるのは中央の巨大な竜の像。像の周りでは、熱心に祈りを捧げている人がちらほらといる。彰は彼らに混じって、その巨大な像を見上げた。
トカゲのような体躯に巨大な翼。その像は、正しく西洋の竜そのものだった。
「お祈りの作法は分かるか? まず二回、手を打つ。その後、静かに祈りを捧げ、一礼して終わりだ」
「神社みたいだな」
アクレスは「ジンジャー?」と首を傾げた。
繁華街から離れているとはいえ、この辺りは街の中心部。人通りは多い方だ。しかし、建物の中はしんと静まり返っていた。奥でお香でも焚いているのか、独特な香りが広がっている。
何故かは分からないが、その空間から不思議と日本的な雰囲気を感じた。
「まぁ、とにかく」とアクレス。
「俺がやってみせるから、その通りに真似すればいい」
そう言って、両手を構えた。軽く息を吐いて手を広げる。続いて、彰の横で乾いた音が鳴ったと同時。
巨大な爆発音が地響きと共に轟いた。
人々の動きが止まる。二人もまた、呆然とその場に立ち尽くしていた。
「え…………」
彰は横のアクレスを見上げた。彼は自分の手のひらを見つめたまま固まっている。
「今の、アクレスがやった?」
「いや………………、んなわけねぇだろ! 外だ、外!」
弾かれるようにアクレスは走り出した。我に返った彰も、すぐにそれに続く。
竜心堂の外へと飛び出した二人が目にしたのは、赤々と燃える城だった。立ち上る黒煙を追って顔を上げると、広がっていたはずの鉛色の雲もすっかり覆われて見えなくなっている。
先ほどの爆発はこの城からだ。だが、あれほどの大きな爆発が突如起こるなど、普通に考えて有り得ない。
何者かの襲撃を受けているのは、誰の目にも明らかだった。
「俺は城へ向かう! お前は街の外へ逃げろ! 人混みは避けていけ!」
アクレスは彰の返事も聞かず、城へ向かって走り出した。
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