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家とは、一つの小さな国家である。そして、家ごとに法律と呼ぶべきルールが存在するのは、異世界においても変わらない。
行く当てもなく、結局居候することになった彰に対し、家主であるアクレスが提示したのは、たった一つのルール。
それは「働かざる者食うべからず」である。
◇◇◇
転移から一週間。
月島へはかなりの道のりがあるらしく、彰一人で向かうには難しいとのことだ。アクレスに来てもらうにしても、仕事を急に抜けるわけにもいかない。それに聞くところによれば、彼は国から行動に制限を設けられているとか。
とにかく、彰は未だに中央都で足踏みをしている。
彰は額の汗を腕で拭うと、バケツで雑巾を絞る。黒く濁った水が安い革製の靴に跳ねた。
顔を上げると、身長の倍程はあろうかという大きな窓の向こうで、ゆっくりと夕日が沈んでいくのが見えた。街の中央にそびえる城は、その光を受けて茜色に染まっている。
この清掃員の仕事はアクレスが持ってきたものだ。物価が分からないので、給料が高いのか安いのかは分からない。
「よう、アキラ」
不意に後ろから声をかけられた。振り返ると、深い緑の軍服に身を包んだ青年が一人立っている。
鋭い目つきで敬遠されがちな彼だが、素性のよく分からない彰に対しても優しく接してくれる男だ。
彰は手の水気をエプロンで拭き取って立ち上がる。
「ヘクターさん。帰ってたんすね」
「おう。どうだ、仕事は。慣れてきたか?」
「まぁ…………。多少は」
曖昧な返答にヘクターは苦笑する。
「そういえば、親父が呼んでたぞ」
「シルヴァさんが?」
「あぁ。下の応接間にいる」
彰はバケツを持ち上げると、短く礼を言った。
この館はマテラス王国陸軍中将、シルヴァ・グランシアの所有する邸宅である。
グランシア家は代々軍の首脳部に籍を置いてきた軍人貴族だ。この邸宅も数代前から受け継がれてきているものらしい。
応接間の大きな扉を前にして彰は一度呼吸を整える。ノックをすると、中から「どうぞ」と抑揚のない声が返ってきた。
「失礼します」
応接間に入るのは一週間ぶりだった。置かれている机と椅子は、素朴ながらも上品な空気を纏っている。机の上にはティーカップが二つと、小さなティーポットが置かれていた。ふわりと漂う紅茶の香りで、いくらか緊張していた彰も落ち着きを取り戻した。
椅子には、白髪の男が座って待っていた。銀縁の細い眼鏡の向こうから、鋭い眼が彰の顔を見つめている。
「お疲れ様です、アキラ君。広くて掃除も大変でしょう」
「いや…………、まぁ、そうですね」
「私は小さい方が良いのですが、『私の』ではなく『グランシア家の』館ですからね。売り払ってしまう訳にもいかない。…………あぁ、どうぞ座ってください」
促されるままにシルヴァの向かいに座る。古い椅子が軋んだ音を上げた。
身に覚えは無いが、この男を前にすると何か思い当たる節は無いかと考えを巡らせてしまう。まるで、教員室に呼び出しを食らったような気分だ。目つきの鋭さはヘクターと通ずるものがあるが、彼は養子で血は繋がっていないということだった。
シルヴァがポットを手に取ると、その底に描かれていた楔形文字のような模様が淡い青に輝いた。
ソフィアから、この世界には魔法と言うモノが存在していることを聞いた。今のがおそらく魔法なのだろう。ポットを傾けて紅茶を注ぐと、白い湯気が立ち上る。
「そ、それで…………?」
沈黙に耐え切れず尋ねた。すると、シルヴァはチラリと顔を上げてカップを彰に勧める。
「まぁ、飲んでください。落ち着きますよ」
「ど、どうも」
緊張を見透かされたのだろうか。彰は波打つ紅茶を少し口に含む。
シルヴァは扉が閉まっていることを確認すると、ゆっくりと口を開いた。
「紅茶は良いですよね。香りが良い。彼が持ち込んだものの中で、唯一好きな物です」
ここでの「彼」とはアルフレッドの事だ。
「さて、わざわざ来ていただいた理由ですが」
シルヴァはカップとポットをどけると、机の上に置いてあった紙を指さした。そこに描かれていたのは、九つの首を持った蛇のようなマーク。見せられたところで何かさっぱり分からない。
「これは?」
「これは『九頭龍』と呼ばれる連中が体に彫り込んでいる印です。アクレスから聞いていませんか?」
聞き覚えの無い組織だ。彰が首を振ると、シルヴァは「やはり聞いていませんか」と説明を始めた。
「九人の暗殺者を幹部に持つ組織で、金さえ積めば誰だろうと暗殺する連中です」
「暗殺? 俺に関係あるんですか?」
暗殺は確かに恐ろしいが、別に恨みを買ったような覚えもない。それにソフィアによれば、異世界転移者は「神様」として扱われるという話だ。誘拐は怖いが、まさか暗殺されるような心配はないだろう。
しかし、シルヴァの返答は全く期待外れのものだった。
「関係あります。アルフレッドを誘拐していった組織が彼らです」
彼は続ける。
「個々の戦闘能力が高く、厄介な連中です。一応、頭に入れておいてください」
「…………でも、俺が異世界転移者だってことを知ってるのは数人ですよ?」
「情報はどこから漏れるか分かりません。常に最悪を想定しておいた方が良い」
軍人らしい考えだ。返す言葉もない。シルヴァは念を押すように、紙に描かれたマークを指で叩いた。
「これを見たら、すぐに逃げてください。とにかく人の多い方へ。良いですね」
◇◇◇
仕事を終えると、だいたい十八時過ぎになる。冬が迫るにつれて、日の沈む時間も早くなってきた。
この時間帯の市場は、夜市に向けた準備を進めている店が多かった。人通りもポツポツと増え始めている。
彰は懐から小さな巾着袋を取り出して、中身をチラリと見る。銀貨が五枚、大小の銅貨が十枚ずつ。アクレスから、「帰りにこれで何かウマいものを買ってこい」という指令が出されていた。
「誰にも内緒で~……」
思わず口ずさみたくなる。異世界での初めてのおつかい。
ネオンも、電光掲示板もない世界。橙色の揺れるランタンに照らされた、カラフルな看板が市場を飾る。息を吸えば香ばしい料理の香りが鼻を抜け、あちこちから賑やかな声が聞こえてくる。
ここだけではない。この街はいつも賑やかで活気に溢れていた。
「おっ………………と、すいません」
店を眺めながら歩いていると、向かいから歩いてきた小さな人影とぶつかった。フードを被っているせいで顔は見えないが、体格からして子供だろう。咄嗟に謝ったが、向こうは何も言わずに通り過ぎていく。
まぁいいか、と再び歩き出そうとした彰。だが、すぐに違和感に気付いた。
「おい、止まれ!」
振り返って、細い腕を掴んだ。その拍子にフードがふわりと取れ、その下から浅黒い肌の少女が顔を覗かせた。カールした栗色の髪の毛が風に揺れる。
「それ、返しな」
彼女のもう一方の手には、小さな巾着袋が握られていた。スリだ。油断していたのも悪いが、だからと言って取られるわけにはいかない。
すると、少女は挑戦的な笑みを浮かべて彰の顔を見上げた。
「ヤダ」
次の瞬間。彼女はするりと腕を抜いて走り出した。あまりの早業に彰は一瞬呆然と立ち尽くす。
「おい! あー…………、もう!」
既に少女の陰はかなり遠い。彰は疲れた体に鞭打って、暗くなった商店街を走り出した。
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