鏡の世界(5)

 おそるおそる子竜が目を開けた。

「……みんな。目を開けろよ」

 そこは何のへんてつもないただの廊下。木造だということは変わらないけど、教室は潰れていないし、廊下にも異常はない。

「子竜。私たち……助かったの?」

「た、たぶん」

 子竜は目の前の扉に目をやる。

〈家庭科室〉。扉の上には、そう書かれたプレートがはられていた。


 ううう……うっ、うううっ……ううう……助けて……誰か……助けて……ここから出して……っ。


「聞こえたか?」

 子竜は、飛鳥を見る。

「男の子の声……?」

「ああ! 加藤秀樹だ!」

 優が悲鳴じみた声をあげた。

「そんなぁ! 結局、俺たち殺されるのかよぉ!」

 慌てふためいた俊一郎と昭夫は、優の背中に隠れてぶるぶると震える。

 子竜は焔を見る。

「焔、どうだ?」

「ハッ、ハッ、ハッ」

 焔はおすわりしたまま、大人しかった。

 つまり危険なものはいない、ということか。

 子竜は扉に近づく。

「おい、子竜、行くなっ。死ぬぞ……っ」

 優の声はうわずっていた。警告するくせに近づこうとしない。

 右肩に手が置かれた。

「私も行くっ。――先輩たちはここに残っていてください」

「ち、ちくしょう! 女に負けてたまるかよっ!」

 優は、「やめましょぉ」やら「ナンマンダブ、ナンマンダブ……」と言う俊一郎と昭夫を引きずりながら、子竜と肩をならべた。

 子竜は扉のとってに手をかけ、開く。

「……っ」

 差しこんできた西日に、子竜は思わず顔をそむけた。

 明るさに目が馴れてくるに従って、室内の様子が分かってくる。

 泣き声が聞こえる。しゃくりあげるような心細そうな泣き声。

 子竜を先頭に全員が部屋に入れば、息を軽く飲んだ。

 部屋の真ん中には、体育座りする少年がいる。

 少年は制服姿だが、子竜たちと違って詰めえり制服。

 焔をちらっと見るが、あいかわらず大人しい。

「みんなはここで待っててくれ」

 子竜は、ゆっくりと少年に近づく。

「加藤秀樹、だよね?」

 子竜は膝をおり、少年と目線を合わせる。

「……」

 秀樹が顔を上げた。

 その顔は、鏡に連れこんできた時のようにゆがんではおらず、あどけない。

「……助けて……」

 優たちをこの空間に閉じこめた呪いをかけるような人物にはとても見えない。

「俺は土御門子竜」

「……助けて、助けて……」

「君はここで何をしてるんだ」

 子竜がたずねても、秀樹は「助けて」という言葉をくりかえすばかり。

「おい、子竜。大丈夫なのか?」

「敵意は感じない」

「……助けて、助けて、助けてぇ……」

 秀樹は大粒の涙をぽろぽろとこぼし、じっと子竜を見つめる。

 子竜は右手を差し出す。

「俺たちは危害を加えない」

「……………」

「だから、安心して欲しい。聞きたいことがあるんだけどいい?」

 秀樹は小さくうなずいてくれた。

 意思が通じる。悪意は今も感じない。

 それなら、大丈夫かもしれない。

「……この空間から、だして欲しいんだ」

「――僕も」

「え?」

 それまで大人しかった焔が、「ウウウウウウッ!」とうなりはじめた。

 瞬間、秀樹を中心に激しい突風が吹き荒れる。

 さっきまでイヤというほど差し込んでいた西日は消え、外は闇に塗り潰される。

 夜という意味ではない。文字通り、まるでペンキで雑に塗りつぶされたみたいな漆黒。

 焔が激しくほえつづける。

「やめて、やめてぇ……!」

 秀樹が叫ぶと同時に秀樹の足下から、黒く胴体に無数のウロコを生やした、ぬらりとした皮膚を持つ蛇が現れる。蛇は秀樹の身体に巻き付く。

 ただの蛇、ではない。

 その蛇の頭にあたる部分にあったのは、人間の頭。

「つ、恒岡先生……っ」

 黒髪をだらりと垂らした、先生の蒼白の顔だったのだ。

 目は白くにごって、黒目がない。

 口をあんぐりとひらいて、歯をのぞかせ、舌をだらりと垂らした先生の顔をした蛇は、ぶつぶつと何ごとかをつぶやく。

「渡さない、渡さない、渡さない……この子は絶対に渡さなぃぃ……っ」

 その蛇が出現すると同時に、場の空気が一変する。

 子竜の全身の鳥肌が立った。

 目の前の蛇からは、息ができなくなりそうなくらい強い邪気をかんじた。

「消えろ、消えろ……秀樹を傷つける者は全員、消えろぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!!」

「先生! 俺です! 子竜ですっ! 先生!」

「おい、何してやがんだ! さっさとたおせよぉ!」

 優が叫ぶが、子竜は無視して先生に声をかけつづける。

「……つ、土御門、くん……?」

 声が、いつもの先生の声に変わった。

「先生。俺の声に集中してくださいっ。邪悪なものの声に耳をかたむけないでください!」

 どうしてこんなところに先生がいるなんてわからない。

 でも子竜の声に反応してくれたということは、本当の先生なのだろう。

「にげて……つ、土御門くん……に、げて――」


 ぁああああああああああああああ!!


 先生は悲鳴をあげたかと思えば、「誰にも奪わせないぃぃぃぃぃぃ!!」と子竜たちめがけ、おそいかかってくる。

「焔!」

 ワウォォォォォンッ!

 焔が飛びかかるが、尻尾の一撃を受け、あっけなくはねとばされてしまう。

 はねとばされた焔は、人型の紙に戻ってしまった。

「あ、あれ……なんだろ……。頭がぼーっとしてきて……」

「足に力が、は、入らねぇ……」

 飛鳥たちが蛇の妖気にあてられて、バタバタと倒れていく。

「はあああああ!」

 護符をたたきつけるが、蛇にとどく前に燃えつきてしまう。

「っ!」

 さらに護符を用意しようとするが、もうなかった。

「誰にも……奪わせないぃぃぃぃぃぃぃ!」

 おぞましい声をあげる先生の顔をもつ蛇。その背後に、どす黒いものがまとわりついている。

(俺の力じゃ、かなわない……)

 しかしこのままでは飛鳥たちの命が危ない。こんなところで、やられるわけにはいかないのだ。

 子竜は数珠に手をかける。

「だ、だめ……子竜……」

 四つん這いの格好で、苦しげに肩で息をする飛鳥が声をあげた。

 飛鳥はこの数珠の意味を知っている。

「飛鳥! もし俺が暴走したら、この数珠を身体のどこでもいいからはめてくれ! 頼んだっ!」

 子竜は蛇と向かいあったまま叫び、数珠を取った。

 ドクンッ! 心臓が痛いくらい脈打った。

 恒岡先生の顔をもつ蛇が鎌首をもたげ、大きな口を開ける。

 動かなきゃいけないのに動けない。

 どす黒く、嫌な感覚がこみあげた。

「うわあああ――――――――――っ!!」

 目の前が真っ赤に塗り潰される。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る