怒涛の国のエリス(1) 女の一生、瞬間風速
オルフェウスが竪琴をつま弾くと睡魔を招くという。穏やかな西日を浴びて枢軸特急は山岳地帯を邁進していた。客車には厭戦気分と倦怠感が蔓延している。ハーベルトが物憂げに報告書を纏めている。新人ソジャーナーの育成は厳しい状況だ。前任のパンセは研修期間中、リンドバーグの壁に敗北した。喪失(ロスト)の憂き目に遭った。それは輪廻すべき魂の消滅を意味する。彼女には覚悟が足りなかった。腐敗しきった連合側の誘惑に負けて玉虫色の解決を試みたのだ。その結果、感情の波に押し流されて存在確率を失った。
トルマリンソジャーナーは任務遂行に冷酷かつ非情であらねばならない。例え相手が幼子であろうが乳飲み子を抱えて命乞いをする妊婦であろうが、敵である以上は躊躇なく討ち滅ぼす。さもなくば、我が身を含めた世界が滅ぶ。そうなる前に淘汰の摂理が働くのだ。ハーベルトが学んだ枢軸の教科書は、そう教えている。
だから、パンセは当然のことながらロストした。
鵜翔駅付近に生じたレールのひずみはリンドバーグの壁を召還し、急派された保線区作業車に連合が介入した。凶悪化した車両は藤野祥子の同級生を装って……。
そこまで記述してハーベルトはカーソルを戻した。
「違うわ。祥子のクラスメイトを吸着して、本号に対し自爆特攻を企図した」
向かいのシートで呆けていた祥子が飛び起きた。
「知ってたんならどうして教えてくれなかったの? 人殺し!」
彼女の怒りはもっともだ。疫病の流行を事前に把握しておきながらハーベルトたちがクラスメイトを見殺しにしたのだ。そればかりでなく、わけのわからない幽霊列車の虜にされたあげく、祥子を殺しに来た。
ハーベルトはそっと目を伏せて静かに答えた。
「昭和63年の8月6日。貴女は蜂狩市で劇症性感冒を患って死ぬ運命だった。結果的に市内の小中学生二千三百人がインフルエンザ脳症で亡くなったの。でも、貴女には『双頭の鷲』が味方した」
「さっきからキチガイや知恵遅れみたいなことを言ってるけど……」
「差別発言は慎みなさい。昭和生まれの貴女はさも平然と口にするけど鶏鳴(けいめい)二十七年の世界では二年の禁固刑を課せられるわ」
「鶏鳴?」
「昭和のうんっと後の時代。昭和は六四年で終わるわ。そのあと平成(へいせい)、旭日(きょくじつ)、清政(せいせい)、鶏鳴よ」
ハーベルトは聞いたことがない年号を並べ立てた。天皇制が存続していること自体が驚きだが。
「平成28年から障碍者虐待防止法が施行されるの。枢軸は厳しいけど社会的弱者には優しい社会よ。少ない人手で世の中を回していかなければならないから。連合の空爆で……」
いいかけた時、列車がガクンと速度を落とした。
「急がなくちゃ。あと十二分で到着するわ」
ハーベルトは祥子の襟元に手をかけて一気に服を引き裂いた。
「きゃあ。やめてくれよ☆」
抗議を無視してベージュ色のパンツも引っぺがす。
「あんたはいちいち脱がなきゃ気が済まないの?」
祥子は顔を赤らめてしゃがみ込む。
「議論している暇はないの!」
ハーベルトは強引に祥子を更衣室に押し込む。戸棚から新しいアンダーショーツとビキニ上下を取り出す。
「どうせなら短パンをくれよ。男子の制服はないの? こんな頭で恥ずかしいよ」
ロッカーの前で祥子が裸のまま佇んでいるとハーベルトは有無を言わさず女物の水着を突き付けた。
「わたしだって好き好んでこんな格好しないわ。トルマリンソジャーナーは異世界に囚われない為に自由な翼をもっているの。髪が無いのも飛行中の視界確保と、何よりも『後ろ髪を引かれない』ためよ。異世界逗留者の最大の問題……ってちょっと何やってんの!」祥子は勝手にロッカーを弄り回し男子用のパンツスーツを探し当てた。大きなヒップが収まらず四苦八苦する様をハーベルトは冷ややかに見守った。案の定、尻もちをついた祥子からズボンをひったくる。
「貸しなさい。それは遭難者むけの着替えよ。無資格者が軌道に紛れ込むことはよくあるわ。それに貴女は安産型でどう見ても男には見えない」
「そんなにおっきい?」
祥子は鏡に振り向いて赤面する。二の足を踏む彼女の尻にハーベルトがセーラー服のプリーツスカートをあてがう。祥子の腰のくびれからスカートの輪郭がなだらかにつながっている。
「マーメイドラインっていうのよ。女の子は末広がりの服が体型に似合うの。はい、カツラ」
きょとんとしている祥子にロングヘアのウイッグを被せた。病室で夢に見た美少女が鏡の中にいる。ほそおもてを囲むように前髪が肩まで垂れている。鏡の前で切れ長の目が憂いている。
「うわっ。すげぇ美人!」
祥子はミイラのように干からびた将来像を思い出した。
「こんな姿で俺は男だって言い張れるの? できないでしょう? できるんなら男物をすんなり着れるって」
「だって! う〜」
しどろもどろに口ごもる祥子にハーベルトは畳みかける。
「だっても、う〜も、唸ってる間に到着するわ。どーすんのよ。裸のままホームに立つの? 呻いてないで自己解決してみなさいよ。その姿のまま枯れ木みたいに老いさらばえるの? え?」
どやされて祥子は泣き出した。あんな姿になるぐらいなら女の子も悪くない。彼女は深いため息をついた。
「わかったわよ」
「自覚できたようね。旅人の外套を纏いましょう」
ハーベルトは見学ツアーを兼ねて駆け足で車内を案内した。食堂車や寝台車に加えて小さいながらもショッピングモールがある。ビキニ姿の二人はスポーツ用品コーナーで翼を固定するための水着を追加購入した。二十一世紀のビーチバレー選手が着るようなホルターネックのトップスとローレッグのビキニ。それと女子陸上選手が記録を伸ばす際につけるセパレートのウェアだ。会計はハーベルトがレジで済ませた。必要経費は定期券で決済できるようだ。
「え〜こんなの着るの〜?」
「さっきみたいに羽根をねじってビキニとその二枚の間に挟んで。輪ゴムで腰と胸を留める要領で」
ハーベルトが器用に翼をたたんだ。水着三枚を重ねたうえにするするとスクール水着とレオタードを纏った。
「ますますコマネチじゃん。ボクは運動音痴なのよ。どうしてこんな体育会系の服を着せるの?」 どっと落ち込む祥子。ハーベルトは黙って校章入りの運動着を差し出した。
「これって鵜翔の体操服じゃん。なんで?」
「授業や部活でこれから必要になるでしょう。鵜匠中学は部活と課内のクラブ活動は別だったでしょ。どっちも体育会系で強制加入。入る部はもう決めた?」
「これからって……元の世界に戻れるの?」
祥子の目に希望の光が差した。
「貴女には保護者が必要よ。未成年だもの。自宅から通勤してちょうだい。はい、通勤手当」
ハーベルトが手渡した定期券には「常園<−(敦煌・羅馬・世界首都 伯林経由・倫敦循環)−>無限前線 枢軸特急トワイライトエクリプス。永久期間有効。但し異世界逗留に限る」と記載されている。
「難しい漢字ばっかり。ハーベルトは中国人なの?」
しげしげと定期を眺める祥子。
「わたしは世界市民よ。偉大で崇高で悠久なる枢軸国同盟――日独伊芬(にち・どく・い・ふぃん)基幹同盟。その永遠なる世界首都。高尚な都ゲルマニア」
ハーベルトが歌うように祖国を讃える。
「聞いたことがないわ」と祥子はかぶりをふった。
だが、ハーベルトの言葉から未来の世界情勢が透けて見える。彼女が連合、連合と目の敵にしている口ぶりから「連合国」のことではないかと類推できる。どうやらハーベルトの時間軸では第二次世界大戦後も二大陣営の冷戦が続いているようだ、
『長らくのご乗車お疲れさまでした。終点、南怒涛港、南怒涛港。この列車は到着後、車庫に入ります。お忘れ物のございませんよう……』
ハーベルトは我に返った。走り出すようにスカートに両足を通し、セーラー服を頭からかぶる。腰のジッパーは半開きのままでブルマの二重ラインが見え隠れする。彼女がどうして鵜翔中の制服を着ているのか問いただす暇はなかった。祥子も体操服の上からセーラー服を着こむ。
列車は急制動に入った。
■ 奔流の都 南怒涛港
枢軸特急をざあざあと豪雨が洗い流している。線路は逆巻く怒涛の上を吊り橋のように敷設されており、増水した濁流が枕木を濡らしている。
『南怒涛港機関区 気象指令。本線は悪天候で冠水している。滞留線にて一時待機されたし』
「のぼりTWX666Ω諒解。 対空安全性は充分か?」
『見た通りの荒天で航空優勢は確保できない。対空陣地の頑張り次第だ』
「陸上列車砲術軍ならびに鉄道軍機械化歩兵連隊が即時出動を要求しています。−∞(マイナスむげんだい)番線の臨時停車を申請します」
『当番線では往生特急が整備中だ。滞留線を利用されたし。それ以外の入線は一切認めない』
「石頭!」
留萌は融通の利かない運転指令所に悪態をついた。フロントガラスを叩きつける雨が鬱陶しさを募らせる。
列車は揺れ動く桟橋に停車した。床が激しく上下するたびにハーベルトのスカートからブルマが見え隠れする。
「あんたも結構けつデカじゃん!」
「うっさいわね。無駄口を叩いてるとおぼれ死ぬよ」
ハーベルトは小銃を背負って昇降口に立った。扉が開いた瞬間に波しぶきを被る。
「ひゃあ」
祥子は頭からびしょびしょになった。セーラー服が体に張り付く。
「旅人の外套効果が守ってくれたわ。こんなこともあろうかといつも水着を着ているのよ」
ハーベルトがぐっしょりと濡れたスカートを絞っていると後部の貨車からモーターボートが降ろされた。
二人で乗り込み防水フードを閉める。水没した世界は地球温暖化の啓発ポスターそのものだ。水平線から突き出した摩天楼がいさり火のように燃えている。ビルの陰から大きな客船が猛スピードで迫ってきた。ボートの存在など眼中にないらしく、進路を変えようとしない。みるみるうちに数十メートル先まで接近する。
「ぶつかるわ!」
祥子がシートにしがみついているとハーベルトが笑った。
「だいじょうぶよ。向こうにとっては私たちは影のようなものだから」
彼女の言う通り、祥子が目をギュッとつむっている間に客船は過ぎ去ってしまった。
「南怒涛港は比類なき喧騒の街よ」
行きかう船はまるで高速道を走り抜ける車のようだ。足の遅い便が次々に追い抜かれていく。舵輪を握るハーベルトに祥子が尋ねた。
「私たちはここで何をすればいいの?」
「南怒涛港市の総人口二億三千万人すべてを為政者の手から開放するのよ」
途方もない数字に祥子は耳を疑った。日本の総人口の二倍近い。それに南怒涛港市なんて聞いたことがない。境港市なら祥子も小学校の社会科で習った。
「ここはやっぱり中国なの?」
「いいえ。南怒涛港市は南怒涛港市よ。人間の住む世界では一番栄えている場所。貴女の世界だってバングラデシュのデルタ地帯に一億人ぐらいは住んでいる」
ハーベルトは防波堤に大きく手を振る人影をみつけた。陽炎のように揺らめている。ボートを接岸する間に待ち人の数は二人になったり三人になったり安定しない。ハーベルトがロープを舫うために岸へ投げる。それを受け取る人数もめまぐるしく変化した。
「お待ちしておりました。私は」
腰の曲がった老婆が雨の中を出迎えた。
「異世界逗留者のトロイメライ・ハーベルトです。初めまして。静穏レジスタンスのサイレンス書記長ですね?」
ハーベルトが手を差し伸べると書記長はへなへなと車椅子に腰を降ろした。彼女の手は節くれだっており、枯れ木のように固い。
「こちらは研修員のショーコ・フジノ」
祥子がハーベルトに促されて自己紹介しようとすると書記長はストレッチャーに横たわり、静かに息を引き取った。書記長の娘だという人が現れて、後を引き継ぐという。年は祥子の母親ぐらいだ。ハーベルトと一緒に書記長の遺影に手を合わせる。祈っている間にも彼女は姿をちらつかせる。短い祈りが終わると書記長の娘は赤ん坊を背負って乳母車を押していた。
「満足におもてなし出来ず申し訳ございません。育休に入っておりましたので。三人目が生まれるまで少しはお話できるかと」
お腹を膨らませた妊婦はすまなさそうに謝罪した。
「どういうことなの?」
祥子は時間経過の異常さにうすうす感づいていた。
「騒々しい世界だと言ったでしょう? 彼女たちから見れば、わたしたちは年中行事のような存在よ」
ハーベルトから詳細を聞いて祥子は耳を疑った。時間が飛ぶように流れているのだ。その間にも書記長の孫娘がたどたどしい言葉で応対してくれた。成人した彼女は祥子にお嫁さんだという女を紹介してくれた。
「そんな。あっという間の人生だなんて!」
「わたしたち婦妻はこれで幸せです」
配偶者が祥子に答えた。孫娘は年端の行かぬ幼女を一生懸命勉強にあやしている。
「急がなくちゃ。サイレンス家は反奔流派の急先鋒だったけど、武力紛争路線を放棄して過激さを失いつつあるあるわ」
ハーベルトは自分のスカートをめくってブルマのポケットからキャラメル箱を取り出した。それを書記長婦妻に手渡す。二人とも顔にほうれい線を刻んでいる。幼女は初代書記長の面影を残す美人に育っていた。
「これは?」
初老になった孫娘が聞いた。
「余命延長装置です。体内時計を必要な時だけ稼働します。『とびとび』にしか生きられません」
ハーベルトは形を変えた携帯用の冷凍睡眠装置だと説明した。装着した者は彫像のように静止し余勢をコマ送りですごす。周囲の人間たちとは独立した時間を過ごす。ハーベルトたちと行動を共にする覚悟を決めた孫娘は家族に別れを告げた。
「さようなら。おかあさん」
孫娘がスイッチを入れると残される家族は塵となって風に消えた。見知らぬ人がチラチラと遺影や花束を防波堤の上に置いては消えていく。
「サイレンス一家は断絶したわ」
ハーベルトはやりきれない面持ちで言った。「これでいいんです。一族の遺志は私が継承します。急ぎましょう」
彼女が先頭に立って道案内しようとしてよろめいた。ハーベルトの携帯ドクターによれば、三代目サイレンス書記長は癌で余命五年と宣告されている。祥子たちの尺度で言えば一時間もつかどうか。
「トルマリンソジャーナーたちはレジスタンスの協力を得て市内でビラを撒いて根強く宣伝工作を重ねてるわ。ただ語彙が変化して私たちの真意が伝わりにくくなってる」
人っ子一人いない路上を三人が進む。一歩足を進めるたびに街並みが変わっていく。ビルが消え、更地に足場が組まれて新築マンションが古びていく。
「案外静かなたたずまいね」
祥子が閑散とした商店街を横切る。がらんとしたテナントの看板だけがめまぐるしく入れ替わる。
「異世界逗留者だけが体験できる平穏よ。私たちの周囲では激しい市民生活が営まれている」
ハーベルトが交差点を見やると一瞬だけ炎があがった。道幅が急に狭まってぽつぽつとプランターが並んだ。
「ひゃん☆?」
とつぜん、祥子のスカートが消滅した。向かいのビルに大穴があいてダンプカーが突っ込んでいる。そのフェンダーに色あせたスカートが引っかかっている。それも次の瞬間には消えた。ビルは公園に変貌した。祥子はセーラー服の上着を脱いで動きやすいブルマ姿になる。
ハーベルトは朽ちかけた違法駐車に装置を取り付けて風化を止めた。放置された時に手入れが行き届いていたらしく状態はいい。彼女も体操着姿になって整備している間じゅう、祥子は書記長に抗癌剤を打ち続けた。
「かかった!」
後部シートに書記長を横たえ、祥子がドアを閉める。ハーベルトがセルを回した途端に車が閃光に包まれた。
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